『彼女はどこへ行く』第二幕:流砂と、幻の炎のなかの真実
オリジナル小説『彼女はどこへ行く』第二幕。パミールの道で隊商が流砂の罠にかかり、盗賊に襲われる。火羽は馬を奪って逃げ——そして引き返してくる。色つきの煙と割れた鏡と、一本の口笛を連れて。
2.1 流砂が人を呑む
サーサーン帝国という壊れた夢から出てきて、もう数か月が経っている。
二つの河を離れ、ホラーサーンを越え、ソグディアナで嵐にぶつかり、ソグド人の主母の屋敷で水と塩を替えた。そのあとはフェルガナの馬市、石国の城門、道沿いの数えきれない廃駅と崩れた壁。ひとつずつ背後に置いてきた。あのあたりはもともとオアシスの城邦と西突厥の勢力に挟まれていて、道でいちばんよく聞くのは王侯の名ではなく、盗賊の噂だ。やつらはまず駄縄を切り、次に荷を奪い、最後に値打ちのある人間だけを選んで連れていく、と。
そういう話を聞きながら歩き、刀を握る手に力を込めてきた。
パミールの南の線、カシュガルの険しい道まで来たころには、隊はもう散る寸前だった。
午後の日が風化した岩壁を白々と照らす。温かみはまるでない。土の梁は風に抉られ、駱駝の道は傾き、砕けた石と細かい砂が足もとに敷かれている。遠目には平らで、近くで見れば亀裂だらけだ。護衛は道じゅう刀を手から離さず、駱駝の銅の鈴の音が頭に響く。
火羽は一日ほとんど口をきかない。
ときおり顔を上げて風を見、うつむいて砂の紋を見、家畜の耳と鼻を見る。あなたはそれに気づいていて、細かく考える余裕がない。道を見て、隊形を見て、いちばん値の張る木箱に目を配っている。文書の匣を積んだ駱駝を中ほどへ寄せろ、と命じさえした——
そして次のひと足で、地面が消えた。
「落ち着け——」
言葉は半分しか出ない。
先頭の駱駝は鳴く間もなく前脚から沈み、駄架も木箱も一緒に落ちていく。後ろの者は足を止めきれず、人足が数人、家畜が二頭、獣の檻が半分、まばたきのうちに全部落ち込んだ。
あなたもよろけ、左足が急に空を踏む。細かい砂がたちまち足首を越え、脛を埋め、冷たい汗が背じゅうに出る。とっさにわきの駄縄を掴もうとして、手のひらが滑り、掴めたのは熱い砂ひとつかみだけだ。
腰の印の袋が脇腹を強く打つ。道じゅう守ってきたあの金印はまだそこに下がっていて、何の役にも立たない。
そのとき、まわりで一気に騒ぎが爆ぜた。
盗賊が来た。
とうに伏せていたのだ。この崩落こそが待っていたものだ。前が落ち、後ろが乱れ、隊商まるごとが皿の上の料理のように、荷も人も家畜も外にさらされている。盗賊の鉤縄が駄獣へ飛び、刀が手綱を引く馬夫へ向かい、数人はいちばん値の張る木箱へまっすぐ突っ込む。あなたが誰かなど、誰も気にしない。
そこであなたは悟る。これは流砂ではない。やつらがわざと仕掛けた罠だ。
駱駝が驚き、狂ったように横へ走る。護衛がひとり、落とし穴のふちから人を引き上げたところで背に刀を受け、体が傾いて砂に倒れる。泣く者がいる。罵る者がいる。値打ちものを取られまいと、闇雲に刀を振って箱を庇う者がいる。
あなたの脚はまだ沈んでいく。
砂は膝まで来ていて、もがくほど足もとが抜けていく。口を開けば喉じゅうが埃だ。誰も助けに来ない。隊商頭は護衛二人と帳簿の箱を死守しているし、もうひとりの傭兵は、あの貴重な仔獣が砂盗の手に落ちないようにと獣の檻へ飛びついている。
誰もあなたを気にしない。あなたはただ沈んでいく人間だ。
盗賊の痩せ馬が数頭、外側を行き来して、あなたたちをもっと緩い砂地へ押し込んでくる。このままなら、一人ずつ斬る必要もない。あなたたち自身で死に絶える。
そしてそのとき、火羽が這い出した。
彼女はあなたのほうへは走らない。
砂坑の外の馬へ飛びつき、身をひるがえして手綱を奪い、足も定まらないうちに馬を駆って、乱れた陣からまっすぐ抜け出していった。
逃げたのだ、とあなたは思う。自由を取り戻す、いちばんいい機会だ。
2.2 彼女は先に逃げ、そして引き返す
一面の黄砂のなかを、火羽は馬を奪い、砂坑のふちを斜めにかすめていく。蹄が飛ぶ砂を連ねて上げ、彼女はすぐ落とし穴を抜けた。
振り返りもしないし、あなたを見もしない。その一瞬、胸のなかがふいに空になって、これこそがいちばん筋の通ったことだ、とあなたは思う。
あなたたちがみなここで死ねば、彼女が逃げたかどうかを咎める者はいない。あの帳面をめくり返す者もいない。あなたが人前で彼女を「わたしの者」と記させたことを憶えている者もいない。
あなたは半身を流砂に取られ、細かい砂はもう腰まで来ていて、もがくほど沈み、脇腹はあの金印に当たって痛む。まわりは駱駝の鈴の乱れる音、鞘のぶつかる音、家畜の悲鳴、人の怒号でいっぱいで、隊はまるごと落とし穴と砂盗に何本にも引き裂かれ、誰も誰の面倒も見られない。
そこで悟る。自分はここで死ぬのだ、と。ゾロアスターの徒にとって、死は恥ずべきことであり、悪魔の勝利だ。あなたは光明の神に向かって低く祈り、この魂を守り給え、と願う。
死ぬ前に思い出すのはクテシフォンの大きな都か、金の流れるような舞台か、ボーラーン女王か——祭りの日、そばを通りかかって一瞬だけ足を止め、あなたを見て、あなたが道じゅう守りぬいてきたこの使命を指し示した、あの女王か。そう思っていた。
けれど実際にその瞬間が来ると、胸に浮かんでくる思いはとても単純だ。火羽が逃げられるなら、それもいい。
せめて一人は生きる。
あなたは思う。女王の命は救えなかった。それでも、悪魔の手からもう一人の女の命は救った。
そう思っていたのに、混乱のなかに明るい火のかたまりが現れた。
自然の火ではない。生きている妖しい火のようで、ほの青い光を放ち、命があるかのように地面すれすれを速く漂っていき、土の梁と倒れた荷車のわきを転がっていく。続いて二つめ、三つめの火も生き返る。火の光が風に明滅し、砂地の煙を奇妙な色に染める。乱れた塵の向こうから細く鋭い口笛が抜けてくる。遠く、近く、獣の声のようでもあり、泣き声のようでもあり、頭の皮が粟立つ。
「鬼火だ! 鬼火が出た!」
誰かが叫んでいる。そして、砂盗の馬が嘶きはじめた。
痩せ馬が何頭も前脚を立て、背の男を振り落としていく。盗賊が手綱を立て直すより先に、倒れた荷車のわきで色とりどりの煙がぱっと開いた。煙は地面をつたって上がり、なかに火の粉が挟まってちらちらし、獣の檻がまるで妖しいものを入れているかのように照らし出す。
続いて檻の錠が弾け、驚いた生き物が一気に飛び出して煙へ突っ込む。影が火の光に引き伸ばされ、あるときは角があるように、あるときは翼があるように、あるときは火をまとった何かのように見えて、あなたでさえ一瞬、あれが仔獣なのか馬なのか、それとも恐怖に目が狂っただけなのか分からなくなる。
その奇怪な混乱のただなかに、火羽が現れた。
彼女はいちばん慣れた場所に帰ったようだ。馬上の姿を低く伏せ、乱れた陣を駆け抜けながら、袖から次々に新しい火の粉と煙のかたまりを振り出す。口笛はひと声ごとに速くなり、驚いた獣もひと波ごとに狂っていく。
網を絞りに来たはずの砂盗たちが、いまは乱れた馬と獣の影と火の光に突き飛ばされ、右往左往している。背を向けて逃げる者がいる。刀を闇雲に振る者がいる。罵りながら、あなたには分からない呪文を唱えている者までいる。目の前のこの混乱が本当に妖しい火で、凶兆であるかのように。
あなたは流砂に取られたまま、それを見ていて、一瞬もがくのを忘れる。
このときようやく、あなたは本当に理解する。鞭の下から買い取ったのは、仔獣の世話ができる獣使いだけではない。彼女が知り尽くしているのは帝国の礼法ではなく、こういう場所であり、光と影と恐怖で人の心を操るやり方だ。あの日クテシフォンで馬とともに火の舞を踊った女が、死局を一場の芝居で無理やり切り裂いたのと同じように。
そしていま、その裂け目が、また一人の女の手で裂かれた。
砂盗の何人かが驚いた馬に跳ね飛ばされ、木箱を奪いにいった者たちは獣に突かれて地面を転げる。隊商頭のほうもようやく我に返り、混乱に乗じて駄獣と荷箱を取り返しにいく。
火の光と煙と乱れた馬のなかで、盗賊の陣が崩れ、彼らは逃げ散った。
火が低くなり、煙も風に散っていく。
火羽が馬をあなたの前まで走らせる。顔も手も砂と黒い灰だらけで、それなのにあの琥珀色の目には、太陽の残照がひと層かかっているように見える。
彼女はひと言も言わない。ただ腕をひと振りすると、投げ縄が風を裂いて飛び、あなたの前に正確に落ちた。
「乗れ、お嬢さん」
2.3 砂坑から引きずり上げられて
盗賊は逃げた。
引くのは速かった。火の光と獣の影に散らされた狼の群れのように、来るときは荒々しく、去るときは振り返りもしない。
最後の痩せ馬が土の梁の向こうに消えて、ようやく散らされた隊がゆっくり集まりだす。
数え終えて、誰もが信じられない。盗賊に襲われて、損害がこれだけしかない。
駱駝が二頭、傷が重すぎてその場で始末するしかない。うち一頭はあなたのものだ。ほかに四、五人が負傷している。護衛が一人、肩に刀を受け、人足が一人、驚いた獣にふくらはぎを踏まれ、以前に鞭を振るったあの護衛は腕を折って、痛みで顔を青くしながら、口のなかでは神に感謝する言葉を唱えている。
木箱がいくつか転がり、水袋がいくつか破れ、獣の檻も角がひとつ割れた。
それでも隊のなかに、死んだ者は一人もいない。
こんな険しい道では、ほとんど考えられないことだ。
野営はすぐ流砂の穴のわきに張られた。荷車を柵にして空き地を囲い、傷ついた者を風のこないところへ移し、火をあちこちに起こし、鍋に汁を煮る。血の匂い、火の油の匂い、駱駝の獣臭、薬草の苦みが混ざり合って、細い煙と一緒に立ちのぼる。
あなたは半分砂に埋もれた木の車輪のわきに座っている。衣は擦り切れ、袖口も胸元も砂だらけで、髪にも細かい砂が残っていて、どう払っても落ちない。
さっきあなたを穴から引き上げたとき、火羽は手加減しなかった。乱暴といっていいほどだ。
いま肩の骨も腰も腹も、まだ鈍く痛む。深く息をすれば、胸に砕石が詰まっているようだ。腰を折って二度咳き、砂を少し吐き出す。喉じゅうが血の味だ。
火羽が陶の碗を持って来て、あなたのわきにしゃがむ。
「少し飲め」と彼女は言う。
そのまま隣に座り、手にしたものを整えはじめる。小さな包みで、角はもう焦げ、紐も半分切れている。あなたはひと目で分かった。ソグドのオアシスの城を出る日に、主母のそばの侍女が彼女に渡した「身を守る小物」だ。
「それは何」
水は疲れを薄めてくれない。あなたの声はひどく嗄れている。
彼女が布の包みを開く。なかには少しの粉と、焦げた細い紐が何本か残っているだけだ。
「オアシスで百戯をやる者は、いつもこれを持ってる。火の油を染ませた火縄、煙の粉、細かく磨いた緑青、それに光る石の粉を少し。火が立てば色が変わる。青か、緑か。風が吹けば、明るいまま人に向かって襲いかかる」
さらに懐から、薄く光る小さなものを二、三枚出す。一枚をつまんで、火のそばでちらつかせる。
「割れた鏡だ」と彼女は言う。「あとは薄く打った銅の板。目をくらませる。馬や駱駝を怖がらせるのにも効く」
そう言って、その灰の粉を指で弾く。ふっと粉が散って、夜空に消えた。
遠くで駱駝の鈴が鳴り、傷ついた駱駝がひと声嘶く。
あなたは眉を寄せて彼女を見る。
「法術ではなかったの」
火羽が顔を上げてあなたを見て、口の端を上へ引く。笑ったようだ。
「法術なんてあるものか」と彼女は言う。「オアシスの百戯の者の古い手妻だ。恐れは人のなかで育つ。鬼も神も、あんたの想像のなかにしかいない——」
そこで少し止まり、頭の上を見る。昼の風は止み、地を覆っていた砂の霧も散って、いまや夜空は湖のように澄み、星が瞬いている。
「あの盗賊は、はぐれた突厥の連中だ」と火羽が続ける。「来るときに見たか、大きな墓地を通っただろう。ここには前に城があって、人が死んでる。あの突厥の蛮どもは生きてる人間は怖がらないが、亡霊は怖がる。ものを奪うときはとくに兆しを信じる。鬼火に出くわしたら、縁起が悪い、災いだと思う——」
聞きながら、あなたはさっきの光景をゆっくり思い返す。
地をつたって転がる青い火。 低く散る色つきの煙。 檻の錠が弾けたときに飛び出した影。 そして、遠く近く響いた彼女の口笛。
奇蹟でも妖しい火でもない。ただ、高位の人間が下賤と蔑む小物がいくつか。それがこういう場所では、本当に砂盗の手から大勢の命を騙し取ってしまった。
「あの連中がクテシフォンに行ったことがなくて、あそこの芸人を見たことがなくてよかった」
そう言ってから、急に場違いなことを言った気がする。自分が百戯の者を見下しているように聞こえたのではないか。
火羽は聞こえなかったかのように、小さな布包みを包み直して袖に戻す。
「わたしらみたいなのは、ふだんこれで飯を食う」と彼女は言う。「宴では貴人を騙して喜ばせる。乱れた年には盗賊を騙して退かせる。結局どっちも同じだ。あいつらが馬鹿なんじゃない。人は怖くなると、まず自分のために話を作りはじめる。作っているうちに、自分でも信じてしまう。あの蛮どもが鬼火を見たと思えば、それは鬼火だ。あんたらの都の錦を着た貴人が奇蹟を見たと思えば、それは奇蹟だ」
やはり聞こえていたのだ。彼女はあなたが飲んだ水碗を受け取り、あたりまえのように飲みほす。
「わたしも、こんな手妻でこれだけの盗賊が逃げるとは思っていなかった。何人か怖がらないやつがいたら、たぶんこうして座って話してはいない」
彼女がこんなに話すのを聞くのは初めてだ。
これまではいつも黙っていた。ひと言でも余計に言うのが惜しいとでもいうように。
いま、火の光が横顔を照らし、あの淡い琥珀色の目がとても静かに見える。そしてあなたは急に気づく。彼女は生まれつき無口なのではない。この道で言ってきた言葉の多くを、誰も本気で聞こうとしなかっただけだ。
遠くの駱駝の鈴が止み、血の匂いが薄れ、火の上には肉の焼ける香りが立ちはじめる。半日前まであなたを乗せていたものが、いまは皿の上のご馳走だ。
空腹も疲れも感じるはずだ。彼らの浪費を止めるべきだし、指図して肉を分け、車の後ろに吊るし、砂漠の風に乾かさせて、かつての相棒を先々の糧に変えるべきだ……それなのに、いまは何もしたくない。ただ、ぽっかりとした感じがあるだけだ。心のどこかから、ひとかけら急に抜け落ちたような。
あなたは自分を見下ろす。
手のひらは擦り剝け、裾は幾筋も裂けて、灰色にまみれ、もう高貴なところなどどこにもない。生き延びられたのは、文書でも、金印でも、護符でもなく、道じゅう握りしめてきた身分でもない。本当にあなたを流砂から引きずり上げたのは、一本の麻縄と、一頭の馬と、いくつかの手妻と、そして、あなたがかつて高いところから僕として引き取った、この目の前の女だ。
焚き火がぱちりと鳴り、火の粉がいくつか上がって、すぐ落ちる。
しばらく黙ってから、あなたは目を上げて彼女を見る。
「あなたはもう行っていたのに」とあなたは訊く。「どうして戻ってきたの」
2.4 乾し餅と、塩と、帝国の腐る匂い
その夜の野営は、いつもより静かだった。死の淵から戻った人間は、たいてい深く眠るからかもしれない。
傷ついた者は湯を飲み、薬草を当てられた。夜番の護衛は火を落とし、灰の下に暗い赤を少しだけ残している。昼のあいだ払っても払っても消えなかった黄色い砂塵は、夜になると誰かに掃き清められたかのようで、澄んだ天地が現れた。
毛氈をかぶって身を起こすと、空いっぱいの星が見える。鋭いほど明るく、ひとつひとつが濃い藍の幕に打ちこまれている。
その静けさのなかで、あなたは火羽の声を聞く。
舌先で作る震え声だ。軽く、途切れがちで、とても奇妙な拍を帯びている。
声をたどっていくと、野営の外側の風をよける空き地に彼女がいた。半ば膝をつき、まわりに今日驚いた馬が何頭かと、あの仔獣がいる。手を上げる動きはとても軽く、小さな獣が頭を手のひらに入れてくる。彼女が低く唄うと、馬が首を下げ、鼻先を彼女の髪先に擦りつける。
昼のあの乱れがあなたの思考を奪っていた。いまになって、ようやくひとつのことがはっきり見える。
鬼火と怪しい影は手妻だ。 この獣を手なずける腕は、本物だ。
彼女は生まれながらに知っているようだ。どう触れ、どんな声を出せば、驚いた動物がまた静かになるのかを。彼らと一緒にいるとき、彼女の硬い殻も少しゆるむらしい。あなたはしばらくその場で見ていた。やがて彼女が口を開く。「あんたの足音、昼よりずっと軽いな」
とうに気づいていたのだ。
夕方、なぜ引き返したのかと訊いたとき、彼女は答えきらないうちに隊商頭に呼ばれ、逃げた家畜を数えにいった。いまはもう、いちばん懐いている仔獣まで草の敷物で眠りこんでいて、この星空の下にはまた二人しかいない。
彼女には毛氈がない。駱駝にもたれ、家畜の体温で寒い夜をしのいでいる。短刀は膝の上に横たえてあり、まだ少し血がついている。どこかの不運な盗賊のものかもしれない。
「わたしらのほうには、掟がある」
口を開いたのはペルシア語だ。それでも拙く、商路の者のソグドの語がいくつか混ざっている。
「餅ひとつ、水ひと口、塩ひとつまみ……ぜんぶ記す」
彼女は言葉を止める。適当な語を探しているようだ。
「あんたらは紙に書く。わたしらは腹に書く」
そう言い終えて、彼女のほうが先に少し笑った。
「同じ乾し餅を食って、同じ水袋から飲んだ者を、砂に捨てて死なせちゃいけない。命を救われたら、命を返す。これは……あんたらにも分かるだろう。塩。ナマク」。彼女が目を上げる。「塩を守れない者は、生きていても腐った肉だ」
その途切れがちな言葉のなかで、あなたは理解する。
これが本に書かれていた「塩の恩」だ。草原の民のもっとも重い契約。
この大きな沙漠は荒れていて、命は野蛮で、それでも彼らはこの古い契約を信じている。二人が塩と水を分けあったなら、あるいは一方が他方の命を救ったなら、それで忠義と恩が結ばれる。恩を守る者は「塩に忠実な者」と呼ばれ、恩に背いた者は「塩を裏切った者」と呼ばれる。
火羽が昼に引き返したのは、あなたの金印のためではない。「わたしの者として記せ」というあの言葉のためでもない。
あなたが風と砂のなかで彼女のために鞭を止め、あなたの塩を食べさせ、あなたの水を飲ませたからだ。だから彼女は、あなたを流砂に置いていけなかった。
彼女はうつむいて短刀を拭きつづけ、話もやはり途切れがちだ。
「わたしは小さいころ……一座について歩いてた。オアシス、荒れ地、駱駝の列のうしろ。火鉢があって、獣の檻があって、鈴があった。市が立つところ、酒のあるところ、そこにわたしらがいた」
「でも、そのうち悪くなった。どこもかしこも人を殺して、奪って、黒い旗が来たときには草地まで燃えた。今日まで唄っていた人間が、明日には首が落ちてる……」
彼女の記憶は細かく砕けていて、口にする語の多くはあなたには聞き取りきれない。拙いペルシア語に、ソグドの語が混ざり、突厥の諺も混ざる。
それでも声はとても軽く、柔らかい。夜に岩の稜線から下りてくる風のようだ。それがあなたを——あなたたちを——この時空から吹き離していき、意識が体を出て、高いところへ昇っていくようだ。
残酷な時代の絵巻が、目の前にゆっくり広がる。
沙漠から歩き出てきたこの女は、一巻の羊皮のように粗く、一本の茨のように野蛮で、それでいて、あなたの見たことのない世界を見てきた。
彼女は、アラブの黒い旗が地平線の向こうから、縁のない影のように押し寄せてくるのを見た。古い城邦がひと晩で主を替えるのを見た。突厥の可汗の子らが草地と牧道のために刀を抜くのを、昨日まで一緒に馬乳を飲んでいた者が、今日は互いの屍を谷へ投げ込むのを見た。逃げる人の群れが、子どもと家畜と鍋と神像を引きずって西へ行く長い列を、火が草に焼きつけた一本の痕のように見た。
そしてオアシスの城の百戯の一座も、当然そのなかにいた。火鉢を背負い、羽衣を巻き、獣の檻と鈴を持って逃げ、食い扶持を稼ぎながら、あの巨きく、富み、揺るがないように見えたサーサーン帝国へ向かっていった。
彼女は信じたのかもしれない。 期待したのかもしれない。 ただ、着くのが遅すぎた。
火のそばに座って、あなたはふいに思い出す。幼いころクテシフォンの宮城で見た灯火は、これよりずっと強く、ずっと華やかだった。祭りの席では、まだ完全には散っていなかった百戯の一座を見た。貴族が席で杯を交わすのを見た。天が落ちてきても自分たちの屋根までは届かない、とでもいうように。
あなたはそれを秩序だと、帝国の決して折れない背骨だと思っていた。
けれどいま、火羽のこの断片から振り返ってみると、あなたがまだ柱の陰で火の舞を見ていたころには、遠くの城邦はすでに燃えていて、辺境の草地はすでに血を流していて、あなたたちの帝国は、とうに内から外まで腐っていたのかもしれない。
火羽がようやく手を止める。
顔を上げ、あなたを見る。
「わたしは、ペルシアは鉄の城だと思ってた」
彼女はそう言う。今度は、ペルシア語のひと語ずつをはっきり発音する。
「奴隷として王城に売られて、やっと匂いが分かった。あそこの宮廷は、アラブに焼かれた天幕と同じ匂いがする」
彼女はひと呼吸置く。
「芯まで死んだものの匂いだ」
風が二人のあいだを抜けていく。この沙漠の風は強い。いまの言葉を——彼女の命を奪いかねないその言葉を——吹き飛ばせるほど強い。
あなたは父の印信を思う。ボーラーン女王の病を思う。道じゅう懐に隠してきたあの金印を思う。そして自分がいまも東へ歩いていることを、最後のひと息を掴んで離さないようにしていることを思う。けれど結局、あなたは何も言わなかった。
彼女はあなたの命を救った。隊商まるごとの命を救った。それだけのことだ。
空っぽの夜には駱駝の鼻息だけが残っている。遠くの野営で、傷ついた者が寝返りを打ち、押し殺した呻きをひとつ漏らす。夜番の足音が砂の上をゆっくり通り、また遠ざかる。
夜が終わる前に、あなたは懐から自分の乾し餅を取り出す。
僕に配らせるぶんでも、人に与えるぶんでもない。自分のために残しておいた硬い餅の半分だ。それを割り、小さな塩の袋から塩粒を少し出して、半分の餅と一緒に差し出す。
火羽が顔を上げ、あなたの手を見て、それからあなたの顔を見る。
あなたは「取れ」とも言わない。「与える」とも言わない。
このとき彼女に渡しているのは、主人の憐れみでも、使者の命令でもない。 これは、あなたの半分の塩だ。