The Song of Inanna イナンナの歌

小説

『彼女はどこへ行く』第一幕:残照のなかの嘘と、砂塵のなかの憐れみ

オリジナル小説『彼女はどこへ行く』第一幕。西暦632年、サーサーン朝の大書記官の娘が金印と国書を携えて東へ向かい、鞭の下で死にかけていた獣使いの女を買い取る。

西暦六三二年。唐の貞観六年。

この年、東の長安では、唐の皇帝がようやく据わったばかりの帝位に座り、その詔が駅路と河をたどって四方へ広がっていた。はるか西では、サーサーン朝の都はまだ建っていて、王家の冠にはすでに亀裂が入っていた。

あなたが生まれた世界は、秩序から混乱へ向かっている。西のビザンツ、南のアラブ、東北の突厥の可汗国。誰もがあなたたちを狙っている。

かつては、サーサーンの書記官が歴史を記した。サーサーンの祭司が聖火を灯した。サーサーンの貴族が古い姓を守った。あのころ人々は、王権は血統から来るのだと信じていた。血統は神意につながり、神意がこの高原と、谷と、雪山と、塩の地とをひとつの網にまとめて捕らえるのだと。その法度はかつて果てのない領土を支えていた。二つの河の肥えた土から、高原の褐色の稜線まで、ほとんどの人がその網のなかを歩いていた。

いま、その網は破れだらけだ。風のなかの蠟燭のように。

わずか二十数年のあいだに、王座は走馬灯のように十人以上の君主を通り過ぎさせた。最後の二人は女王だった。ボーラーンとアーザルミードゥフト。帝国が崩れる前夜に、彼女たちは持ちこたえようとし、権臣と渡り合い、ビザンツと講和しようとさえした。それでも結局、暗殺からは逃れられなかった。内乱と外敵のなかで王家の血はほとんど殺しつくされ、王権は完全に麻痺し、地方の軍閥と貴族はそれぞれ勝手に動き、国が混乱に落ちるまであと一歩だ。

帝国の胸に耳を当てれば、まず聞こえるのは力強い鼓動ではない。木が折れるような、乾いた音だ。

それでも帝国は、まだ滅びてはいない。

こういう季節であるほど、門面は支えねばならない。東の大国へ送る贈り物が貧相であってはならないし、王家の体統が駅路の途中でほどけてしまってもいけない。そこで珍しい鳥、異国の獣、香料、織物、金器、薬材が、称号と敬辞を正しく書いた文書とともに木の檻と輜車に積まれ、シルクロードを東へ発つ。

それは古い道であり、長い道だ。

実際に風と砂のなかへ踏み込んでみれば、まず顔に当たるのは史書の大きな言葉ではない。サーサーン帝国の崩壊が天から轟いて落ちてこないのと同じように、それは効き目を失った文書のなかに、補給の切れた駅站の麦餅のなかに、どうしても逃れられない駱駝の獣臭と血の匂いのなかに、そして隊商頭が刀を抜くときのまぶたひとつ動かさない冷静さのなかに、隠れている。

そしてあなたは、まもなくそのすべてを自分の目で見ることになる。

1.1 黄砂の下の鞭の影

鞭が長い空を切る。

ぱん、と鋭い音。耳もとで薄い板を折ったような音だ。

眉をひそめ、指一本ぶんだけ帳を持ち上げて外を見る。

護衛が、あの獣使いの女を砂に押しつけている。膝でしっかり背を押さえ、短い曲刀を首すじに当てていて、刀の峰には風で乾いた血の瘡蓋がついている。

女の手首は細い。関節が砂から突き出していて、折れかけた二本の枝のようだ。

人が殺されるのを見るのは初めてではない。けれど、口の端に血をつけて死にかけている人間が、顔を木の檻のほうへ向け、舌先でごく小さな震え声を出すのを見るのは初めてだ。

その音は妙だ。短く、軽く、途切れては続く。母獣が仔をなだめるような声。檻のなかの獣はついさっきまで狂ったように木の柵を掻いていたのに、その数音が過ぎると、掻く音が急に止まった。人の言葉など分からない獣が、いまは母を求めるように、女に向かって鳴いている。

輪になって囲む人々は、誰も声を出せない。

空の果ては暗い血の色になり、落日の残光はもう風と砂に埋もれかけている。東へ向かう荒野の旅では、野営地といっても一時的に囲った空き地でしかない。昼のあいだに溜まった熱がまだ残っているのに、夜風にはもう冷たさがあって、襟から入って背をつたって下りていく。

隊商頭は、その女を見ない。

まず身をかがめて檻の錠を調べる。

太い指が鉄の留め金を引き、木の戸を押してみる。中の仔獣はひどく喘いでいるが、もちこたえられないという様子ではない。そこでようやく彼は、いま気づいたかのように女を見る。

「これが死んだら」と彼は言う。「おまえに弁償できるのか」

女は砂まじりの血をひと口吐き、答えない。

顔は砂に押しつけられていて、頬が擦り剝け、汗と埃が泥の殻になっている。それでも、檻に近いほうの手は指を曲げたままで、地面を軽く叩きつづけている。一度、また一度。檻のなかの仔獣に聞かせるために。その拍は柔らかい。自分の命の半分を分けて渡しているかのようだ。

別の護衛がひとつ罵り、鞭をさらに高く上げる。

誰も彼女をかばわない。獣の芸をする女など、そもそも何ほどのものだ。平時なら、百戯の者の腕は輪いっぱいの喝采を引き出せる。乱世になれば、その同じ腕は、もっと高価な檻のそばに繋がれて、珍しい鳥や異国の獣と一緒に秤にかけられるだけだ。

この道でいちばん値の安いものが、人の命だ。

隊商頭は腰の短い曲刀を半寸抜く。刀身が最後の暗い赤の夕暮れを映す。

「昨夜おまえは、驚いただけだと言った」。彼は女を見ている。「今朝は泡を吹いた。昼過ぎにまた檻にぶつかった。おれの塩の餅と水を取っておいて、返すのがこれか」

女はようやく目を上げる。片方の目が砂粒に擦られて真っ赤で、白目に細い血の筋が絡んでいる。

それでも刀は見ない。木の檻の隙間だけを見つめている。

「群れから離されるのが早すぎた」。彼女が口を開く。ソグド語だ。突厥語がいくつか混ざっている。声はひどく嗄れている。「夜に車引きに驚かされた。あと二日も歩けば、熱毒が肺に入る。止まって、水を替えないと。濡れ毛氈を少しのあいだ剝がさないと……」

「何をふざけたことを!」

隊商頭がペルシア語で遮る。

とそのとき、外側の人の輪の視線がふいに逸れ、空気が一瞬静まった。

彼らがあなたを見つけたのだ。

風が車の薄布を吹き上げ、刺繍の端が覗く。模様は複雑で、精緻だ。こんな仕事は道の上ではめったに見ない。隊を押さえている者たちは、車のわきの蠟で封じた革袋をすぐ見分け、それと一緒に、あなたたち一行がどこから来たかも見分ける。

あなたは帳を上げ、爪先から先に木の踏み段に下りる。

細かい砂がすぐ靴のふちから入ってくる。

夜風が顔の前の羅を一角めくる。空いた輪のなかの有り様が見える。檻の上の濡れ毛氈が見える。地面に押さえつけられた女も見える。まず目に入ったのは、その腰の小さな鈴だ。いちばん低い賤奴の印。

奇妙なのは、口の端に血をつけて命が糸一本なのに、まだ檻の仔獣をなだめるだけの気を配れることだ。

隊商頭が短い曲刀を全部抜き、あなたのほうへ向き直って、あまり正しくない礼をする。

「貴人」と彼は言う。「お車を騒がせました」

あなたは彼を見ない。視線は木の檻に落ちている。

角を鉄で包み、上に濡れ毛氈をかけてある。ああいう檻はもともと珍しい鳥や異国の獣を長い距離運ぶためのものだ。軽く、日に強く、駱駝の背に載せやすい。けれど中のものが強い日のもとで長く蒸されれば、熱が抜けず、仔獣は必ず死ぬ。

あの女の言うことは正しい。あなたの視線はまた彼女へ移る。

指はまだ地面を叩いている。

一度。一度。ごく軽く。

檻のなかの掻く音が、また少しのあいだ止まる。

そばの誰かが低く言う。「たかが獣使いです」

隊商頭はそれを聞いて、顔に少し笑みを浮かべた。ようやく話を継げる。「主家の貢物を損なった女です。あなたに代わって処置しているところで。道の掟ですよ、貴人。早く断ち切らないと、もっと大きな面倒を引きずります」

「貢物」と言うとき、彼はその語に力を入れる。

風が槍のあいだを抜け、地面の細かい砂を巻き上げて、あなたの顔の横に、そしてあの女の擦り剝けた首に打ちつける。

護衛が刃を少し下へ押す。女の首すじにすぐ血の玉が一筋にじみ、細く、皮膚をつたって砂へ転がっていく。見ている者たちは息を詰め、夜が少しずつ沈んでいき、暗い赤の空の端には最後のひと筋の火だけが残っている。

「やめなさい」

あなたが口を開いた。いま、その場の全員が振り返って、あなたを見る。

1.2 金印のもとで

「退きなさい。もう少し退いて」

人が両側へ分かれる。低いささやきは抑えきれず、毛氈の帳の下から入ってくる風のように、ひと筋、またひと筋と届く。

「あの人だ」 「クテシフォンから来た」 「大書記官の娘だ」 「金印を持って東へ行く使者だ」 「聞いた話では、あの家はアーザルミードゥフト女王についていたとか……」

そこで声が急に低くなる。誰もがその名を知っている。そして、その名の持ち主がすでに死んでいることも知っている。

あなたはこういう言葉に慣れている。

大書記官の娘。 金印を持つ使者。 旧い貴族の家の令嬢。

こうした肩書きは、都ではもう以前ほど効かない。あなたにはよく分かっている。一年前、あなたたちが奉じていたアーザルミードゥフト女王が暗殺され、かつての擁立も誓いも、一瞬で煙になって消えた。

この道に連れ出せたものといえば、数人の家僕と、まだ剝がれきっていない旧い威勢が一枚だけだ。

それでもここでは、都から遠く離れた荒れた道では、その一枚を恐れる者がまだいる。

彼らには宮廷の亀裂が見えない。見えるのはあなただけだ。あなたの従者があなたにする礼が、婢僕の礼でも軍礼でもなく、使者に対する礼、印を持って言葉を発せる者に対する礼であることが見える。道の上の人間は、朝廷のどの派がどの派を押さえているかは知らないかもしれないが、ひとつだけは知っている。その礼を受ける者は、人の生き死にを決められる。

問題は、あなたが二十歳だということだ。

それはあなただけが知っているのではない。他人にも見て取れる。

風と砂に擦られた唇、日々の強行軍が押しつけた疲れの色、袖口と裾に払い残した細かい埃。どれも底を割る。男たちはこういう徴を見るのがうまい。まず年齢を量り、次に胆力を量る。あなたが半歩退きさえすれば、彼らはその勢いで押してきて、あなたを「王家の使者」から「若い女ひとり」まで押し戻す。

出発の前、母があなたの外套を整え、手で軽く肩を叩いたことを思い出す。父はわきに立って、ひと言だけ言った。頭を下げるな。おまえが怯えを見せなければ、誰もおまえを軽んじられない。

だからあなたは顎を上げ、地面の血ではなく、まず木の檻を見る。

「鞭を振るったのは誰」

声は高くない。それでもあたりはすぐ静まる。

隊商頭が半歩出る。「貴人、ただの獣の世話をする奴で……」

「わたしは訊いた」とあなたは遮る。「鞭を振るったのは誰か」

彼は言葉を止め、横を見た。鞭を持った護衛がその場で固まっている。手はまだ革の柄を握っていて、指の節が白く、手のひらには革帯が巻かれ、血のついた鞭先が砂に垂れている。

あなたは彼を見据える。「檻のなかの貢ぎの獣はすでに驚いている。それなのにその耳もとで鞭を鳴らした。誰が許した」

護衛の喉が動く。「檻にぶつかりつづけるので、わたしは……頭のために押さえようと……」

「押さえる?」。あなたは一歩前へ出る。靴の底が厚い毛氈のふちに乗る。「礼単の附録第三欄。東へ送る生きものは、驚かせても損なってもならない。あなたは字が読めない。頭も読めないのか。それとも、世話をする者を打ちさえすれば、貴い貢ぎの獣はおとなしくなるとでも思っているのか」

隊商頭の顔色が変わる。「貴人、道の掟というものが……」

「道の掟は勘定ができないのか。ならわたしが数えてみせる」。あなたは彼を見る。「この貢ぎの獣が死んだら、誰の責任になる。あなたか、この者か。引き渡しの検分では、病死と書くのか、虐待と書くのか。責任を追うとき、先に首が飛ぶのはこの護衛か、隊を率いるあなたか、それとも——使者のわたしか」

隊商頭は黙った。

あたりはいっそう静まる。見物していた人足たちも頭を下げる。さっき女を押さえていた護衛が、そっと立ち上がって刀を鞘に戻す。

あなたは手を上げ、鞭の男を指す。「この者を捕らえなさい」

護衛の脚が崩れ、すぐ膝をつく。「お助けを」

「助けを?」。あなたは彼を見る。「鞭を振るって貢ぎの獣を驚かせたとき、あなたは誰の命も残そうとしていなかった」

家僕がふたり進み出て、左右から彼を押さえ、砂の上に跪かせる。あなたは怒りもしないし、声も張らない。ただ隊商頭を一瞥する。「この者は礼単に載った貢物を損ない、隊商の掟を壊した。なら掟どおりにしなさい。鞭二十。いますぐ」

隊商頭の額に汗が出る。それでも頭を下げるしかない。「はい」

あなたは淡く命じる。「もっと遠くへ引いて」

護衛の悲鳴が遠くから届くころには、もう細くなっている。それでも木の檻の仔獣はびくりと震える。そして地に伏していたあの女が、ふいに頭を上げ、あなたをじっと見据えた。口の端にはまだ血がある。目に感謝はない。あるのは警戒だけだ。追い詰められた獣が、もっと危険なものが来たことに気づいたときの目。

あなたはその視線を受け、ゆっくり言う。

「腰の鈴を外しなさい」

隊商頭が虚を突かれる。「貴人、この者は賤奴です。鈴はつけていなければ」

「この者が、あの獣を生かして歩かせる」とあなたは言う。「この時より、この者は賤役ではない。損じてよい頭数にも数えない。この者はわたしの者として記せ。これより先、この者に手を出す者は、わたしに手を出すことになる」

女の腰から鈴が外される。彼女はあなたについて天幕に入り、すぐ隅で膝をついた。姿勢は従順なのに、それでも大胆に顔を上げてあなたを見る。息が荒く、その表情にはあなたに読めないものがある。

あなたも彼女を見る。

「名は」

ペルシア語で訊く。彼女は頭を下げたまま、黙っている。

「名は」

今度はソグド語で訊く。すると彼女はようやく顔を上げた。

「火羽(ひばね)」

血のまじった唾を吐き出しながら、そう言う。道の上の芸名で、使ったのは突厥語だ。

かまわない。あなたは書き役に帳面へ記させる。

「火羽。炎と、羽根」

彼女は急に固まった。信じられない、という顔だ。あなたが聞き取れたことが信じられないらしい。このときようやく、あなたは彼女の目をはっきり見る。とても淡い琥珀色。色をつけた硝子のようで、彼女が育てているあの仔獣と、そっくり同じだ。

「あなたは専門の獣使いではないでしょう。百戯の者ね。あなたたちの火の舞を見たことがある。クテシフォンの宮城で」

あなたは突厥語でそう告げる。

1.3 命で買った獣使い

天幕が静かになって、ようやく自分の呼吸が聞こえる。緊張で少し速い。

帳が垂れ、隙間から風が入ってくる。外はもう、溶けないほど濃い夜だ。

火羽は厚い毛氈の上に伏して膝をついている。手首の掴まれた痣はもう紫になり、血の汚れが皮膚に固まっている。

そのとても淡い琥珀色の目を見ていると、一瞬、昔に戻ったような気がする。

あなたが生まれたころ、サーサーンの土台はまだあった。ここまで速く腐ってはいなかった。

もちろん、亀裂はずっとあった。ビザンツとの戦が国庫を空にし、東の草原では突厥が狙っていて、南のアラブの部族も、もう砂漠の取るに足らない野蛮人ではなくなっていた。

けれどそういうことは都から遠かった。おとぎ話と変わらないほど遠かった。

あなたのような子どもにとって、サーサーン朝の都クテシフォンが世界のすべてだった。果てしなく大きかった。アーチが高く上がり、煉瓦の壁が光を返し、香料と膏のにおいが漂い、金糸の織物が午後の斜めに射す明るい光のなかできらめいていた。

貴族たちはまだ宴を開いていた。

聖火壇はまだ燃えていた。 楽人はまだ弦を弾いていた。 そしてあのころは、百戯の者たちもまだいた。

彼らは芸と幻術で食べていて、ソグディアナから、トハリスタンから、天竺の縁から、もっと北の草原から歩いてきた。芝居のできる猿、宙返りをする犬、輪を咥える豹の仔、踊る蛇、そして刀を呑み、火を吹き、唄をうたえるひとつの達者な口を連れて、都の宴の広間へ、街の広場へ、祭りの空き地へ入ってきた。

平和な日々には人を楽しませ、情勢が張りつめてくると門面を飾るために持ち出された。使者と貴族に、帝国はまだ富んでいて、異域の奇観を目の前に呼び寄せられるのだと見せるために。

小さいころのあなたは、それが大好きだった。

炎が羽衣を赤く照らすのを見る。獣使いが口笛をひとつ吹くと、仔獣が木の台のふちに伏して、顎を前肢に載せるのを見る。仕掛けのいくつかは鏡の片と煙の粉と熟れた手つきでできていて、近くの者には綻びが見え、遠くの者はただ驚嘆した。年が小さかったあなたは、しばしばそれを本当の奇蹟だと思っていた。

もう少し大きくなると、母があなたを柱の陰から書斎へ引き入れた。

ペルシア語の神聖な正統を教え、ソグド語の値切りを、突厥語の脅しを、漢語の文書の読み方を教えた。あのころあなたは本気で信じていた。自分もいつか一族のように、帝国の筆となり、偉大な万王の王のために秩序を書くのだと。

伝説の二人の女王を見たことさえある。

祭りの謁見のときだ。まだ小さくて、人の後ろに立っていたから、先に見えたのは衣の裾で、人はそのあとだった。ボーラーン女王の挙措は落ち着いていて、アーザルミードゥフト女王の目はもっと冷たかった。二人の身につけていた金糸も、珠の飾りも、王家の紋も、記憶に刻むには足りない。

あなたが憶えているのは、殿じゅうの人間が明らかにそれぞれの腹を抱えていながら、それでも礼法どおりに振る舞い、称号に頭を下げていたことだ。まるで、この二人の女がそこに立ってさえいれば、帝国の終わりは来ないかのように。

やがてあなたは育ち、都も少しずつ変わった。

まず、昔の百戯の一座をあまり見かけなくなった。 次に、父が夜に会う人が増え、昼に話すことが減った。 そして、家で焼かれる反故が増え、笑い声が減った。

あなたは相変わらず訳文を暗誦し、いろいろな言語の書き方を練習した。それでも心の奥に、少しずつ空白のようなものが生まれてきた。

こんなものを学んで何になる。詔令は門を出れば効力を失い、官吏は宮門の衛兵より速く入れ替わる。宴は相変わらず開かれ、楽人は相変わらず弾く。満堂の衣冠の下には、いまにも落ちてくる朽ちた材木が一層まるごと隠れている。

この帝国がいずれ荒れ果てると知ったとき、あなたは八歳だった。

学堂は蒸し暑く、外は騒がしかった。見張りの隙をついて脇廊から抜け出し、前庭の騒ぎを見にいこうとした。最初に何を聞いたのかは憶えていない。殺せという声か、馬蹄か、それとも誰かが銅の盥を石の床に蹴り倒した大きな音か。

憶えているのは、その日の太陽がとても白かったこと。城壁の埃まで光って見えたこと。そして次の瞬間、煙と人の声がいっぺんに乱れたことだ。

人が城に入ってきた。

本当の意味での屠城ではない。少なくとも史官の筆はそうは書かない。兵乱、略奪、粛清、あるいは同じ側の二派の内輪の争い。けれど八歳の子どもにとっては、それは終末の光景だった。

血まみれの脚を引きずってアーチの下を這っていく者がいて、階に倒れる者がいて、装身具、履物、木箱、折れた楽器が一面に散っていた。あなたは倒れた彩りの天幕の陰に隠れ、織物が焦げる臭いと血の匂いの混ざったものを嗅ぎ、喉じゅうが灰だった。

自分もそこで死ぬのだと思った。

ちょうどそのとき、前方にぱっと火の輪が上がった。

家屋が燃える乱れた炎ではない。人が点けた火の輪だ。火鉢がひとつずつ蹴り倒され、灯油が地面に撒かれ、明るい炎の舌が連なって立ち上がった。ひとりの百戯の者が煙のなかから歩き出てきた。羽根の飾りをまとい、衣のふちに薄い金の片を綴じていて、動くたびにちりちりと鳴った。

彼女は小さな馬を引いていた。馬のたてがみには彩りの紐が編まれ、耳もとに鈴が下がり、火を怖がりもせず、火の輪の外を歩いて回っていた。彼女自身も火をめぐって歩いた。足取りは優雅で軽い。腰を低く落とし、蛇のように柔らかく、ふいに伏し、ふいに旋回し、羽根飾りが炎をかすめる。まさしく、燃え上がったまま燃え尽きようとしない鳥だった。

まわりの人間は誰もが呆けていた。

馬上の将まで惹きつけられていた。珍しかったのかもしれないし、人を殺すのに飽いて、ふと何か楽しいものを見たくなっただけかもしれない。百戯の者は踊りつづけた。小さな馬を連れて、火の輪と砕けた鈴の音を踏んで、泣き叫ぶ声と散乱のただなかで、一曲を踊りきった。

彼女は大胆に前へ出て、将のすぐ前まで行った。馬が酒杯を咥え、酒を招いた。動きを見て取る間もなく、杯は彼女の手にあった。将の鋭い刃の前で、彼女は優雅に杯を差し出した。

火の光がその横顔に当たり、あなたはその目がとても淡い色だと見た。灯の炎に照らされた琥珀のようだった。

将は刀を持つ手を上げ、ゆっくり兜の面を外した。彼女は身をかがめ、空いたほうの手で杯を受け、一気に飲みほした。殺神のようだったその女が笑い、人々は生き延びた。

どうやって天幕の陰から這い出たのかも、街にどれだけの血と屍が残ったのかも憶えていない。憶えているのは、その百戯の者があなたを見つけたことだ。彼女はしゃがみ、誰かとも訊かずに、灰のついた手をあなたの前に差し出した。手のひらには火傷の古い痕がひとつあった。あなたがその手に自分の手を置くと、彼女はあなたをその街から連れ出した。

そのあとのことは憶えていない。ただ、母が抱きしめたときの泣き声と、父の顔に一瞬だけ抑えきれずに出た蒼白だけを憶えている。

それから、街で百戯の者を見かけることはさらに減った。

去った者もいる。隊商や軍営や名家の奥へ取り込まれ、単独では現れなくなった者もいる。火の舞というものも宴から消え、やがて誰も踊らなくなった。

我に返ると、天幕の灯の炎が軽く揺れている。

火羽はまだそこに膝をつき、頭を下げている。髪には払い残した砂がついている。あなたはその目を見て、ふいに訊く。「いくつ」

彼女は虚を突かれたようだ。それを訊かれるとは思っていなかったらしい。

「二十四」。答えは速くない。ペルシア語は少し硬い。

あなたより四つ上だ。

もともと不要だった最後の探りも、これで空振りに終わる。記憶のなかの、あなたを屍のわきから連れ出したあの百戯の者は、もっと年上だった。

しばらく黙って、あなたは言う。「小さいころ、クテシフォンで火の舞を見た。馬を連れた女が、火の輪のなかで踊っていた。あなたと同じ目をしていた」

火羽はしばらく黙る。ほんのしばらくだ。それでも恭しく頭を下げたままでいる。

「ああいう舞は、あのころはいろんなところにあった」。彼女のペルシア語は商路で混ざった訛りのままで、語尾が少し硬い。「街の人は見るのが好きだった。貴人も好きだった。そのあと減った」

「なぜ」

彼女は少し笑い、口の端の裂け目が引きつって、わずかに眉をひそめる。「腹が減っているときに、芝居を見る気になる者はいない。乱れてからは、踊れる者は死んだか、売られたか。でなければわたしみたいに、隊商で獣と檻の世話をして、命を塩の餅と換えている」

そこであなたは、彼女がペルシア語をかなり話せるのだと本当に気づく。

「話せるのなら」とあなたは彼女を見る。「なぜさっき、頭に説明しなかったの」

火羽は下を向いて、痺れた手首を揉む。指の節は細かい傷だらけだ。しばらく黙ってから目を上げ、薄く笑う。

「自分のために口をきいてたら」と彼女は言う。「あいつらは、あの小さいのに当たる」

「言うことを聞かないからだ、面倒をかけるからだ、と言ってね」と彼女は続ける。「あんなに小さい獣は、用もなく脅かされただけで病む。わたしに向かってくればいい。人のほうが、小さいものよりもちこたえる」

そう言うときの顔はごく普通だ。あなたはすぐには言葉を継げない。ただ、その淡い色の目を見ている。揺れる灯の炎のなかで、光るほどに静かな目を。

1.4 荷のなかの、女王の嘘

あなたたちは東へ進みつづけ、ホラーサーンを越え、ソグディアナへ向かう。帝国が衰えるにつれて、この東の唐へ通じる道は、いっそう危うくなっていく。

そしてより多くの危険は、この一行がそもそも純粋な朝貢の隊ではないことから来ている。

名目の上では、この隊は東へ、唐へ行く。けれど実際に道を歩いているのは、使節と貢物だけではない。商人がいて、傭兵がいて、僕がいて、半ば雇われ半ば質に取られ、いつでも名を消されうる賤奴がいる。誰もが同じ道を行くように見えて、胸のうちではそれぞれ算盤を弾き、それぞれ後手を残している。この隊も、クテシフォンの宮門のなかの人々と、たいして変わらない。

ここで、あなたのものである人間はとても少ない。

前後あわせて数人の家僕だけ。以前なら、こんな体裁はほとんど貧相だっただろう。けれどいまでは、これが家からあなたに割ける最後の人手だ。

一年前、アーザルミードゥフト女王が暗殺され、宮城の風向きは一夜で変わった。それ以来、あなたの家の名望も一緒に持っていかれた。かつて挨拶に来ていた者は来なくなり、かつて動かせた者は別の道を探しはじめた。

出発の日、それでもクテシフォンを出てついてきたのは、もう多くない。

駱駝の列がゆっくり進む。風が人の話し声を切れ切れにするのに、それでもあなたの耳には入ってくる。

「あの貴人は、昔は王家の詔令を書いて礼冊を見ていた家の筋だろう」 「もちろんそうだ。ホスロー二世の流れだ。あの家は誰より頭が固い」 「固くて何になる。アーザルミードゥフトだって死んだだろう」 「ボーラーンも長くはもたない。ひどく患っているそうだ」 「あれが倒れたら、次に座るのは誰だ」 「兵の多い者だ。血統も何もあるものか」

声は落としているのに、言っているのは表向きの話ばかりだ。

あなたの家が長年奉じてきたのは、ホスロー二世のこの王家の血脈だ。末年になって派閥が組み替えられ、旧い門閥が互いに噛み合った。あなたの父のような、中央のために文書と印信と礼単と貢の道を守ってきた家は、当然アーザルミードゥフトとボーラーンの側に立ちたがる。二人の血統はもっとも正しく、ほどけかけた帝国のために、ひとつの名目を支えることができた。王家はまだある、正統は絶えていない。

いまでは、その一句は笑い種だ。

アーザルミードゥフト女王は死んだ。ボーラーン女王は患っている。街の噂も駅路の便りも、次の冠が誰の頭に落ちるかを当てあっている。

ある軍閥だと言う者がいる。担ぎ上げられた傀儡だと言う者がいる。冷笑して、いまどき王家の血脈など誰が気にするものか、生きたまま数か月座っていられればそれこそ大したものだ、と言う者もいる。

あなたは駱駝の背の鞍架のあいだに座り、声を出さない。

彼らが間違っていないことを、あなたは知っている。

ボーラーン女王の病こそが、あなたのこの旅の理由だ。

父が自分の口で告げた。クテシフォンにはもう長くいられない、敵対する勢力が宮門を、そしていまだ女王のために走る旧臣を見張っている、と。だからあなたは東へ、あの古い東の国へ行き、女王の命を継がせる霊薬を求める。唐には医者がいて、薬典があり、遠来の使者を認めてくれる可能性もある。人が生きてさえいれば、正統も生きていられる。正統がありさえすれば、父のような臣も、すべてを失ったことにはならない。

父はあなたに密書を一通も託した。

その手紙は細く折られ、身につける荷のいちばん内側に、金印と護符と何通かの折りたたんだ文書と一緒に押し込まれている。封の表には名前がひとつだけ書いてある——鴻臚寺少卿 裴行恭

父は言った。本当に長安まで着いたなら、あまり多くの人を騒がせず、まずこの人の手に手紙を渡しなさい、と。なぜこの人なのかは説明しなかった。ただ、この者は礼を知っている、認めるべき印信も見分ける、とだけ言った。

あなたは懐へ手を入れ、また金印に触れる。

角は冷たく、硬く、ずしりと重い。あなたはいつもそれを撫でている。それがまだあるかぎり、まだ完全には断たれていない秩序をひと続き、握っているように感じるからだ。手を放すのが怖い。火羽を長く見ることさえ怖い。この道はそもそも誰もが腹に一物あるのだし、あのとき軽々しく彼女を自分の者にしたのが、助けをひとつ増やしたのか、見張る目をもうひと組増やしたのか、あなたには分からない。

「水袋」

火羽の声が前から届き、あなたの思考を断つ。

彼女は前の駄獣を引いていて、振り返って革の水袋を差し出す。あなたの駱駝の鞍を見て、ぶつかってくる家畜からあなたを避けさせ、風向きと砂の筋を見てくれる。家僕よりよほど細やかだ。

あなたは水袋を受け取り、多くは言わない。それでも視線は懐の印の袋に戻る。揺れがひどいなか、革袋も、護符も、密書も、印綬も、ひとつも失えない。

と、そのとき、前のほうでふいに騒ぎが起きた。

火羽が足を止め、遠くを見上げる。その視線を追うと、もともと白かった空の端が、ゆっくりもっと深い黒を巻き上げている。荒野がひとまとめに持ち上げられたようだ。

「砂嵐」と彼女が言う。

今度は隊じゅうが聞いた。隊商頭がすぐ荷縄を締めさせ、傭兵が罵りながら家畜を追い、商人たちは自分の革袋と木箱を庇う。その騒ぎのなかで、いちばん前の誰かが叫びだす。

「城がある! 前にソグド人のオアシスの城がある!」

すべての目が、その一点のぼんやりした黄土色の影へ飛んでいく。 最後の活路と、最後の望みを、いっぺんに賭けるように。

1.5 主母の沈黙

砂嵐は夕暮れに落ちてきた。

空がにわかに暗くなり、街の外では駱駝の鈴が乱れ、風と砂が壁の根をつたって木の戸を叩く。

あなたがサマルカンドのこの大きな屋敷に入ったとき、衣も靴も砂で固まっていた。中庭は風をよける隊商と駱駝でいっぱいで、濡れた毛氈と家畜の糞の臭いが混ざって、重苦しい熱を立てている。広間の灯が揺れ、床一面の乱れた砂の跡と、倒れた革袋と、散らばった荷包を照らす。まるで大風に引き裂かれた倉のようだ。

ここは家宅のようでもあり、商館のようでもある。

真ん中の空き地には、あらゆる道から来た人間が詰まっている。砂を浴びたペルシアの商人、厚い靴の草原の護衛、ソグドの身なりをした帳場が数人、それにどの道から押し入ってきたのか分からない小商いと人足。誰もがみすぼらしく、誰もが身構えている。外の風はいよいよ強く、いまここを追い出されたい者はいない。

あなたが腰を下ろしたところへ、隊商頭が帳をはね上げて入ってきて、体じゅうの砂を払い、低く罵った。「ひどい臭いだ。家畜の飼い葉桶みたいじゃないか」

これは誰のことでもない。西側の柱の下のあの一団のことだ。

その数人は眉と目が深く窪み、髭に砂を絡ませ、皮の上着を着て、腰の刀をひどく低く下げている。手は柄に置かれていて、言葉は速く硬い。まともなペルシア語でもないし、あなたが聞き慣れたソグド語でもない。

道中ずっと苛立ちを抑えていた護衛が突き飛ばされ、すぐ言い返して罵る。肩と背がぶつかり合い、木の床几が音を立てて倒れる。鞘が木の柱に強く当たり、がん、と鳴って、広間の空気が一瞬で弦のように張りつめた。

あなたのわきの者はもう立っている。

「よし——」

あなたが口を開いたときには、家僕が二人もう前へ出ていた。けれど向こうのほうが速い。刀が直接抜かれた。火の光が一度揺れ、幾筋もの冷たい光が同時に上がり下がり、広間の空気が切り裂かれたように鋭くなる。

「やめなさい」。あなたは声を高くする。「ここは宿を借りる場所。あなたたちが刀を抜く場所ではない」

その数人がこちらを見る。目つきは虎狼のようだ。

あなたはもうひと言、今度はより確かな公の言い方で、身分も、出どころも、宿借りの掟も入れて言う。広間が一瞬静まる。向かいのその頭は口を歪め、ひと続きの言葉を返してきた。

あなたには一語も分からない。

学びが足りないのではない。この言葉は教科書に記録されたことがないのだ。ペルシア語にソグドの語が混ざり、語尾に突厥語が挟まり、漢語の下卑た言葉までいくつかある。あなたはその場で固まり、ふいに気づく。自分の知っている文書の言葉も、宮廷の敬辞も、ここでは一文も継げない。

相手にもそれは見て取れる。

彼は一度笑い、わきの数人も声を合わせる。その笑いに愉快さはあまりない。あるのは主に軽蔑だ。

指先が冷たくなる。進むも退くもできない。とそのとき、火羽があなたの斜め後ろから出てきた。

まずソグド語でひと言試す。相手が眉をひそめる。彼女はすぐ、もっと雑多な言い方に替える。その数人の顔つきが、たしかに動いた。頭が目を細め、彼女を見て、あなたを見て、ようやく言葉を返す。

火羽が顔を傾け、低い声であなたに言う。「あんたは何者で、何の権利でここで命令するのか、と訊いてる」

「伝えて」とあなたは言う。「わたしたちは王家の文書と金印を携えている」

火羽がそのとおりに言う。

今度は、相手はかえって一歩近づいてきた。彼はあなたを、値打ちのない古道具を見るように見る。火羽がさらにいくつか聞き取り、眉をきつく寄せて、声をもっと落とす。「向こうは認めない。あんたらみたいなのは道でいくらでも見る、紙を何枚か持って、印をいくつか下げて、王家のために働いていると言うんだ、と」

その言葉が終わらないうちに、頭の男はもう手を出していた。

彼はあなたのわきの護匣の布を掴み、革の袋をひとつ引き出す。封蠟はまだある。綬には旧い印が押してある。彼はそれを摘んで振ってみせ、顔じゅう嘲りだ。わきの者たちが囃し立て、鞘で手のひらを叩く。一度、また一度。命を急かす太鼓のように。

火羽が半歩出て止めようとし、頭のもう一方の手に激しく突き飛ばされる。肩と背が柱に当たり、痛みに息を呑む。

「返しなさい」。あなたは怒りを押さえて言う。

もちろん彼には分からない。あなたは手を伸ばして奪おうとする。この茶番はもう十分だ。

刀がそのまま突きつけられた。

冷たい切っ先が首すじに触れたとき、まず嗅いだのは彼の体の獣臭と鉄の錆の匂いで、それから皮膚のひと筋の刺すような痛みが来た。

広間が黙った。さっきいちばん騒いでいた者まで口を閉じ、こちらを見ているだけだ。その男の口からまた聞き取れない言葉がいくつか飛び出し、手をひと振りすると、本当にあの革袋の封の綬を切り落としそうな構えになる。

まさにその瞬間——

矢が風を裂いて来て、凍りついた空気を引き裂いた。

次の瞬間、頭の男が悲鳴を上げる。手のひらが矢に貫かれ、革袋が手を離れて落ち、血が矢柄をつたって煉瓦に滴る。

広間の全員が呆然とする。

ほぼ同時に、回廊の両側に女が数人立っていた。

短い外套をまとい、髪を束ね、短弓を手にして、内庭へ通じる口を全部封じている。そのソグドの女たちの顔に表情はない。こういう場面を見慣れた者の顔だ。

誰かが低くソグド語で言う。ついさっきまで騒がしかった広間が、いまは恐ろしいほど静かだ。

そして、低い女の声が聞こえた。

「いま、ここを飼い葉桶のようだと言ったのは、どなた」

声は高くないのに、広間はさらに静まる。

隊商頭の顔色がわずかに変わる。あなたの背が冷える。入ってきたときのあのひと言は、とっくに誰かに聞かれていたのだ。

人が河のように自ら分かれ、その女に道をあける。

背は高くない。身なりもさほど華やかではない。ただ、きわめてすっきりと仕立てた濃い色の長衣で、袖口と襟に細い暗い紋が縁取ってある。彼女はゆっくり歩き、ゆっくり場内を見わたす。この広間の人も、荷も、刀も、血も、自分の庭で起きた取るに足らない小競り合いにすぎない、というように。

灯の下まで来て、火がその顔を照らし、あなたはようやく目尻に細かい皺があるのを見る。

誰も長くは目を合わせられない。

火羽があなたのそばへ少し寄り、声を落とす。息が耳をかすめる程度だ。「あれがソグド人の主母、ミワニ。ここの人間はみんなあの人の言うことを聞く」

その名が耳に落ちて、頭のなかで何かが軽くぶつかる。

聞いたことがある。ソグド人は砂漠のシルクロードを歩き、商いをし、仲買もし、各方へ知らせを運び、話をつなぎ、信用を保証する。オアシスの豪族は駅の便りと往来で生きていて、彼女たちが一日に会う人は、あなたのひと月ぶんより多いかもしれない。知っている知らせも、宮廷に座っている人間より速い。あなたは西から旧い印を持って出てきて、顔を上げて体面を保ってきた。それが彼女の目にどれだけ残っているかは分からない。

主母はあなたを見ない。まず騒ぎを起こした者たちを見る。

手を少し上げる。すぐに人が進み出て、手を射抜かれた蛮商を押さえる。その男はまだ罵っている。言葉は粗野で、聞き取れない。主母は聞き終えても笑いもせず、ただ淡く、もっと速いソグド語をひと続き返す。相手は正面から一発食らったように詰まった。

火羽が低くあなたに訳す。「こんな日に人を砂に放り出して食わせるようなことは、ソグドの母はしない。けれど言うことを聞かない子は、母に罰される、と」

言い終わるや否や、主母はわきへひと言命じた。その数人はすぐおとなしく引きずられていき、裏の汚い馬小屋のほうへ連れていかれる。

人が引かれて、ようやく広間に息をする隙間が戻る。

主母ミワニが、そこであなたのほうを向く。

彼女はまずあなたの首の浅い血の筋を見て、それから床に落ちた革袋を見る。侍女が身をかがめて拾い、両手で差し出す。彼女はそれを受け取り、指の腹で封蠟を押し、印綬の金の紋を撚る。急がない手つきだ。古い玉の真贋を確かめるように。

またたく間に、その表情が少し変わった。印は本物だ。それは手で触れれば分かる。

ここでようやく彼女が口を開く。あなたに分かるペルシア語だ。よその訛りが少しあるが、とてもはっきりしている。

「あなたは西から来た」と彼女は言う。「遅くもなく、早くもない」

あなたは呼吸を整え、声から恐れを消そうとする。「宿と、水と、通行を願うだけです」

彼女はこう訊くだけだ。「道の上で、その印をまだ認める者がいるの」

あなたは少し言葉を止め、それから言う。「認める者は、まだいます」

主母はしばらくあなたを見る。その目には言い表せない何かがある。少しして、彼女は革袋を侍女に返し、淡く言った。「水をやりなさい。家畜に飼い葉を足しなさい。嵐が止むまで、二度と刀を抜かせるな」

これで、あなたの背後の者たちもようやく息をついた。

彼女は身をひるがえそうとして、一瞬止まり、顔を横に向けて言う。「東の道はこのところよくない。城を出たら、わたしが渡す道を行きなさい。賢しらに近道を取るんじゃないよ」

そう言うと、あなたが聞いたか聞かなかったかも構わず、彼女は人を連れてまっすぐ去っていった。

その背が消えるまで、広間の人々は声を出せなかった。倒れた床几を片づける者がいて、荷包を直す者がいて、そっと床の血を拭きにいく者がいる。隊商頭の顔色は悪い。何か弁解したそうにして、結局ひと言も出てこない。

その夜のあと、あなたたちはこの屋敷に数日とどまった。

水を補い、修理をし、車軸を直し、馬と駱駝に力を戻させ、風が止めば道の新しい知らせも来る。あなたは次第に気づく。火羽はここでは、あなたのそばにいるときより、ずっとくつろいでいる。馬小屋の者たちと笑い合い、庭で馬を見る老僕と馬の飼い方の話をし、夕方には回廊の下へ行って、あの女の射手たちが弓弦をほどき、膠を塗り替えるのを見ている。百戯の者、獣使い、商路を歩く者。彼らの暮らしは近く、話せることもずっと多い。

あなたのそばにいるときのような用心も、沈黙も、そこにはない。

一瞬、本気で思った。彼女をここに置いていってもいい、と。

あなたがまだ迷っているうちに、彼女のほうが呼びに来た。「出発だ」。空がようやく明るみはじめたころで、風にはまだ砂のあとの冷たさがあり、火羽はもう駱駝も車も水袋も、あなたのために一度ずつ見てまわっていた。手際がよく、慣れていて、ためらいがない。とうに、あなたの代わりに決めてしまっていたかのようだ。

車に乗る前、あなたは振り返った。

主母ミワニは出てこない。ただ、そばの若い侍女が回廊の下から足早に来て、火羽を呼び止め、耳もとで何かを低く言った。火羽は聞きながら、手を出して何かを受け取り、うれしそうに笑う。侍女はすぐ退いた。何もなかったかのように。

道に出てから、あなたはとうとう訊いた。「何をもらったの」

火羽は手綱を人に渡し、うつむいて駱駝の首の浮いた埃を叩き、なんでもないように言う。「身を守る小物」

「何の守り」

火羽は手綱を引いて、振り向きもせず、ただ一度笑った。「道で役に立つやつ」

城門の外から風が吹き込んできて、まだ立ちきらない砂を運んでくる。

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