『西部の物語』第四部:隠された谷
オリジナル小説『西部の物語』第四部。嵐と暴走する荷馬車、地図に載らない涸れ谷での七日間、思い出す母の海、そしてあなたが死んだと信じなかったただひとりの人。
4.1 嵐と涸れ谷
雷が完全に炸裂したのは、あなたが馬に飛び乗ったその瞬間だった。
遠くではない。頭の真上で。
稲妻が夜空を一瞬で真っ白に裂き、前方の荷馬車がすでに制御を失っているのが見えた。馬が荷台を引いて狂ったように走り、手綱は切れそうなほど張り、車輪が泥の上で左右に振れて耳障りな音を立てている。雨は落ちてくるのではなく、横から叩きつけてきた。風に押されて、顔に当たると痛い。
あなたは馬の腹を締め、前へ駆った。
風の音、雨の音、雷の音が重なって、ほとんどすべてを覆い隠す。視界は雨に完全に消され、前には揺れる黒い影しかない。目の前に道はもうなかった。ほとんど本能だけで、遠ざかっていくその輪郭を追っていた。
最初は、ただ待つつもりだった。あの馬が疲れるのを、恐怖が引くのを。
けれど、そうはならなかった。豪雨と雷が、あの馬を別の状態に入れてしまっていた。極限の逃走本能だけで走っている。感じ取れるのは、どこの風が弱いか、どこの雷が遠いか、どこが「下っている」かだけだ。
崖は見えない。ただ、下り坂は逃げることを意味すると理解しているだけだった。
だから、より低いほうへ突っ込んでいった。
あなたはそれを追って、自分が草原を離れたことにもほとんど気づいていなかった。地面はもう緩やかではなく、傾斜は急になり、雨が細い流れになって脇を下っていく。見えるのは前方の地形が下がっていることだけで、そこのほうが安全に思えた。
そして、あの「窪み」が不意に現れた。
豪雨のなかでは、地表が一度落ち込んだだけのように見えた。浅く、ぼやけて、縁は夜と灌木に隠れている。どれほど深いかを判断する時間はなかった。荷馬車はもう突っ込んでいた。
けれどすぐに分かった。あれは道ではない。涸れた裂け目の谷、涸れ谷だ。普段は地表の傷跡にすぎないのに、こんな豪雨のときには一瞬で洪水の通り道に変わる。
荷馬車の前輪が宙を掻いた。木が折れるような音がして、それから滑落が来た。あなたは濡れた泥の斜面を、砕けた石と一緒に、滑り落ちていった。
その瞬間、ふいに気づいた。この速度のなかにいるのは、これが初めてではない。
まだ小さかったころ、母がまだ生きていたころ。父はあなたを馬の背に乗せ、脚で「話す」ことを、揺れに逆らわず、リズムに合わせて重心を調整することを教えた。あとになって父は乗ることを許さなくなったが、身体のほうはまだ覚えていた。
この種の記憶は、言葉では消せない。
豪雨のなかで馬が滑っているのに、あなたは慌てなかった。手綱を死に物狂いで引いたりはしない。そんなことをすれば馬が倒れる。腿を締め、膝で馬の腹を挟み、身体を前に倒して重心を下げ、まだここにいると馬に伝える。その動きはほとんど本能で、考えより速かった。
これは無謀ではない。本能だ。
経験を積んだカウボーイでも、簡単には手を出さないことだった。彼らは危険を知っているから、止まる。あきらめる。夜明けを待つ。けれどあなたはもう動いていた。身体のほうが、恐怖より速く選んでいた。
血が沸いていた。怒りからではない。久しぶりに解き放たれた力からだった。
風と雨が顔を打ち、世界が目の前で一本の線に縮んでいく。あなたは「すべてを制御する」ことをやめ、地形を読みはじめた。どこが硬いか、どこで水が速いか、どこを踏んではいけないか。馬の背が身体の下で上下し、筋肉が締まっては緩むのを感じ、ふたりはひとつのもののように動きはじめた。
その瞬間、ジョセフを思い出した。
牛の群れが乱れたときの彼女の姿を。力や脅しではなく、流れに乗り、判断し、一歩先に出る。
こういう感じなのか。
男のように馬を征服するのではない。馬と一緒に、危険を抜けていくのだ。
そして分かった。なぜ彼女はいちばん乱れたときに立っていられるのか。なぜその動きはいつもあれほど清潔なのか。あれは冷静さではない。「制御を失うこと」への慣れだ。
そしていま、あなたもそのなかにいる。
前方で、荷馬車はもう、あなたがまだ見きれていない落差へ突っ込んでいた。ためらわなかった。脚を締め、距離を詰め、最後の間合いで身を投げた——
荷台の縁をつかんだ。
冷たい木。滑る。振り落とされそうなほど揺れる。身体が荷台にぶつかり、肋骨に鈍い痛みが走った。雨が襟から流れ込んで、息が詰まりそうになる。あなたは力の限りしがみつき、もう片方の手で手綱を探った。
馬はもう完全に制御を失っていた。
落ちていく。蹄は支点を見つけられず、泥の斜面をただ滑り落ちていく。車輪が乱れた石に当たり、うつろな反響を立て、両側の土壁に何度も跳ね返されて、四方いっせいに崩れているように聞こえた。
そこでようやく気づいた——もう涸れ谷のなかにいる。
両側の土壁が急に立ちあがり、灌木と夜に呑まれている。上の世界は消えて、狭い空だけが残り、それも雨に切り刻まれていた。
あなたは全力で手綱を引いた。馬が嘶き、その声が谷に跳ね返って身体にぶつかる。馬はもがいて向きを変えようとし、かえって荷馬車を大きく横滑りさせた。重心がずれていくのが分かり、木の軸が耐えかねて呻いた。
足もとに雨水が集まり、流れがどんどん速くなっていく。
涸れ谷が「生き返ろう」としていた。
あなたは歯を食いしばった。腕が痺れはじめる。身体が震えていた。寒さのせいか、恐怖のせいかは分からない。父への怒りは、もう消えていた。言い争いも、どこかへ行ってしまった。
いまあなたの人生に残っているのは、進行中のひとつの事実だけだった。あなたは選び、自然が応えている。
荷馬車がまた激しく揺れた。
あなたは横へ振られ、世界がひっくり返った。雨、泥、雷、馬の息づかいがすべて混ざり合う。より深いところへ引きずり込まれていくのを感じた。終わりの見えないこの涸れ谷に、呑み込まれていく。
止まる間もない。 隙間もない。
続けざまに滑り落ちていく運命のようだった。
そしていま、あなたはそのなかにいる。
4.2 迷う者の谷
何日目かは分からない。ただ、あなたは冷たさのなかで目を覚ました。
九月の冷えは、肌に貼りついて離れない種類のものだ。目を開けて最初に見えたのは灰白色の空で、不規則な土壁に小さく切り取られていた。雲がゆっくり動き、光が途切れ途切れに落ちてきて、そばの濡れた黒い地面を照らしている。
雨はやんでいた。涸れ谷のなかはとても静かだった。石の隙間から水が滴る音が聞こえるほど静かで、一滴ずつ、とてもゆっくり落ちてくる。風は上で遮られていて、湿った空気だけが顔に触れていた。
脚を動かそうとして、激痛が炸裂した。
鈍く、重く、膝から腿の付け根まで引きずられる。息をのんで、喉から短い音が出ただけだった。そこでようやく、自分が泥に半分横たわり、荷馬車の側面に背を預けていることに気づいた。
荷馬車はまだそばにあった。荷台は横倒しになり、車輪はゆがんでいたが、ばらばらにはなっていない。木箱は縄で縛られていて、ほとんどが元の位置にある。手を伸ばして触れてみた。木は冷たく滑ったけれど、確かにそこにあった。
家財はまだある。ゆっくり首をめぐらすと、馬がいなかった。
地面には乱れた蹄の跡だけが残り、涸れ谷の奥のほうへ続いて、砕けた石のあいだで消えていた。逃げたのか、見えないどこかで倒れているのかは分からない。分かるのは、もう戻ってこないということだけだった。
しばらく荷台にもたれて座り、いちばん強い痛みが過ぎるのを待った。
まわりは切り立った土壁だった。雨に洗われて土はまだらになり、深さの違う層をのぞかせている。隙間から灌木が伸び、枝は濡れ、葉は垂れていた。地面は水に押し出された石だらけで、丸いもの、平たいもの、どれも踏めば滑る。
上を見た。
出口は夜と曲がりくねった縁に遮られている。ここに立っていると、この谷がどれほど深いのかもほとんど判断できない。音は閉じ込められていた。一度声を出してみると、反響は短く、すぐに消えた。
そして分かった。いまできるのは、待つことだけだ。
みんなが見ていた。あなたが馬に乗って、荷馬車を追っていくのを。だから来てくれると信じていた。 父。 カウボーイたち。 ジョセフ。
あなたはそう信じつづけた。昼は土壁を流れ落ちる雨水を受け、ぼろ布で絞って口に入れた。水は土の味がしたが、苦くはなかった。脚は腫れていて、もう動かす勇気がない。身体をずらすたびに、痛みが骨に沿って這いあがってくる。スカートから小さく布を裂いて、傷をどうにか縛った。血はもう固まっていたが、触れるとまだ熱い。
夕方、低い灌木の茂みを見つけた。葉は小さく厚く、枝には棘がある。その下を探ると、いくつか実があった。色はとても濃い。この種の実は食べられると誰かが言っていたのを覚えていた。ひと粒噛んでみると、酸っぱく渋かったが、すぐに喉が締まりはしなかった。ゆっくり飲み込んだ。
夜、水気が地面に沿って薄い霧のように漂った。上着をきつく巻き、背を荷台につけると、夜のうちに木が放つ冷たさが伝わってくる。小さな動物が石の隙間を渡っていく音が聞こえた。とても軽く、それでいてはっきりと。
日々はそうして過ぎた。指を折って数え、計算し、そして何日目かも確かでなくなった。昼の光は目を刺し、夜は異様に長い。半分眠って半分起きていることが多く、夢のなかには蹄の音があり、草原があり、どうしても追いつけない背中があり、あなたの名を呼ぶ声があった。
けれどすぐに分かった。この涸れ谷は草原と丘陵の境にある。普段はほとんど見えない。豪雨のあと、それはすぐにまた目立たない窪みに戻ってしまう。
あなたが追って入ったことを知らなければ、わざわざここを探しに来る者はいない。
けれど、知っている人はいるだろうか。
祈るしかなかった。
食べる量はどんどん減った。木の実はすぐに摘み尽くした。根を掘り出し、石で砕いて、ゆっくり噛んだ。口のなかは土の味でいっぱいだった。身体が弱っていくのを感じ、ときどき頭がくらくらした。
時間があいまいになった。ときどきはっと目が覚め、人の声を聞いた気がした。けれど涸れ谷にあるのは水の音と風の音だけだった。
目を閉じると、孤独を感じはじめた。忘れられるという感覚だ。
世界は頭の上で回りつづけ、あなたはこの見えない裂け目に残されている。あとどれくらい待つのかも分からない。ただ、まだ生きているということだけが分かっていた。
4.3 母の海
涸れ谷のなかで、時間は意味を失った。
昼と夜の区別はもうなく、まぶたの上を光がどう動くかの違いだけだった。ときには目を刺すほど明るく、ときには安心するほど暗い。
あなたは荷馬車のそばにもたれ、浅く息をしていた。背中の板は夜の冷えを吸い込み、昼にはゆっくり温まる。空気には湿った土と腐った葉の匂いがあり、血なのか鉄錆なのか分からない気配が混じっていた。ときおり上から風が落ちてきて、土壁に沿って滑り、一瞬の涼しさを運んだ。
あなたは母のことを思い出しはじめた。
突然ではない。ずっとそこにいたのに、いまようやく、その声が聞こえるほど静かになったのだ。
十年前の夏を思い出した。父は牛を売りに行って、長く留守にしていた。あなたはまだ幼く、母に手を引かれて牧場を出て、山のほうへ歩いた。ふたりで木の実を摘んだ。赤いのや紫のを。指先は汁で黒く染まった。母は食べられるものと食べられないものの見分け方を教えてくれた。一度間違えると、一日じゅうお腹が痛むのだと。
その日は暑かった。母の手を覚えている。とても温かく、汗と草の葉の匂いがした。実を摘みながら、母は海の話をしてくれた。
母は言った。それは川でも湖でもなく、果てのない一面の水なのだと。波が繰り返し岸を打ち、その音が大きくて、自分の心臓の音さえ聞こえなくなるのだと。
母はヨーロッパから来た。初めてアメリカ大陸に立ったとき、海辺に立っていて、波の音がすべてを覆った。母はそこに立ちつづけ、靴が波に濡れても、その場を離れられなかった。身をかがめて貝殻を拾い、ポケットに入れて、これが「始まり」を覚えておくやり方だと言った。
そのときのあなたには分からなかった。ただ、海の話をするとき、母の声が違うものになることだけを感じていた。
覚えているのは母の声と、呼びかけてくれた愛称だけだ。
「アン」
そのあと、母は身ごもった。
出産の日、ことはとても速く、そしてとても遅く起きた。あなたは扉の外に締め出され、低い話し声だけを聞いていた。扉がまた開いたとき、母はもう静かになっていた。産褥熱で亡くなったのだ——あの時代、女がいちばんよくする、いちばん声にならない死に方だった。
医者の手は洗われておらず、器具は消毒されていなかった。
彼らは細菌をひとつの寝台から別の寝台へ運んだ。女たちは出産のあとに熱を出し、意識を失い、死んでいった。当時、それは過ちではなく「運命」と呼ばれた。
母は死ぬ前に、あの貝殻のペンダントをあなたに渡した。それが母の遺したすべてだった。
そしていま、ふいに気づいた——この転落のなかで、貝殻がなくなっている。
気を失い、もがいているあいだに失くしたのだ。手で探ってみても、触れるのは冷たく濡れた胸もとだけだった。その瞬間、遅れてやってきた痛みが胸を押さえつけた。脚の傷よりも重かった。
あなたは、母のために牧場に残るのだと思っていた。
けれどいま、分かった気がした。
土地のためではない。 ただ、記憶が消えてしまうのが嫌だっただけだ。
牧場は、母を置いておくための場所にすぎなかった。けれど記憶は土地のものではない。人について歩いていく。そこを守っていなくても、母を覚えていられる。
その思いはゆっくりと、けれどはっきりと来て、ふいに疲れが押し寄せた。
心の底から現れて、長いあいだ張りつめていた糸が、この瞬間ようやく緩むように。荷台にもたれ、意識が漂いはじめる。遠くで音がした。低く、長く。
狼の遠吠えのようだった。
それが本当なのか、頭が恐怖を補っているのかは分からない。確かめる力さえなかった。ただ目を閉じ、その音が闇に響くのに任せた。
ここで死ぬのかもしれない、と思った。けれど慌てもしなければ、抗いもしなかった。ただ受け入れた。海水のなかに横たわって、波の音にすべてを覆わせるように。そしてふいに思った。 もしかしたら、本当にジョセフの言うとおりなのかもしれない。山の魂は人の運命を覚えていて、川は人の歩いた道を覚えている。死んでも消えず、別のかたちで風のなかに残る。母のように。
「アン」
その声が聞こえた。
あなたは笑いそうになった。
なるほど、死ぬ前には、本当に母が見えるのか。
そのとき、手を感じた。冷たくない手だった。軽くて、よく知っている。本当に誰かが顔をなでている。親指が頬骨をかすめ、その動きは現実とは思えないほどやさしかった。
目を開けたかったのに、あまりに疲れていた。あなたは自分を沈ませ、そのやさしい錯覚を受け入れた。これでもいい、とさえ思った。
「アンナ!」
声が急に変わった。
もっと切迫して、もっと近く。よく知っている息づかいと震えを帯びていた。あなたは眉をひそめた。この幻はうるさすぎる。
「アンナ、わたしを見て!」
激しく揺さぶられて、身体に引き戻された。痛みがまた炸裂する。無視できないほど本物だった。目を開けても視界はぼやけていて、輪郭がひとつ見えるだけだった。
ジョセフだった。
彼女はあなたのそばにひざまずいていた。全身泥だらけで、髪は乱れ、目だけが驚くほど明るい。彼女はあなたを強く抱き寄せた。腕は震えるほど力が入っている。その鼓動が伝わってきた。速すぎて、ほとんど制御を失っていた。
そこでようやく分かった。幻ではない。
世界はまだあった。 あなたも、まだいた。
そして誰かが、ついにあなたを見つけてくれた。
4.4 去っていかない声
本当に目が覚めたのだと確かめるまでに、ずいぶんかかった。
短い覚醒ではない。痛みに引き戻されただけの錯覚でもない。ジョセフの顔があなたの上にあった。近すぎて、目のなかの血の筋まで見えるほどに。髪は泥と雨で固まり、上着は何か所も破れ、肩の線は落ちていた。重いものに何度も押しつぶされたように。
ずいぶん痩せていた。
疲れだけではない。何日も歩きつづけたあとの、時間に削り取られた消耗だ。こんな彼女は見たことがなかった。牛の群れのなかで安定して立ち、動きの清潔だったあの人が、いま半ばひざまずいて、荒い息をしている。ずっと遠いところから走って帰ってきたように。
「アンナ」と彼女はもう一度呼んだ。
そこであなたは、さっき自分を起こしたのが夢ではなかったと分かった。
口を開いたが、喉からはかすかな息しか出ない。彼女はすぐに身をかがめ、水袋を口もとに寄せた。水は泥の味がしたが、本物だった。喉を滑り落ちていくと、身体がひとつ震えた。
彼女の腕のなかにもたれると、身体が震えているのが分かった。何日もの緊張が限界に来て、ほとんど崩れかけていた。彼女は強く抱きしめていた。手を緩めれば、あなたがまた消えてしまうとでもいうように。
「もう七日だ」と彼女は言った。
その数字が落ちてきて、一瞬、判断がつかなくなった。七日。涸れ谷で待った昼と夜は、本当にそんなに長かったのだ。
「みんな町に戻った」と彼女は続けた。声は低かった。「カウボーイも。あんたの父親も。全員」
すぐには反応できなかった。彼女はあなたの考えていることが分かるように、話を続けた。
「みんな、あんたが馬で追っていくのを見た。荷馬車の跡が涸れ谷の口に入っていくのも見た」彼女の視線が周囲の土壁を渡った。「上から見ると、ここには何もない。地図でも空白だ」
その視線をたどって、あなたは顔を上げた。
涸れ谷の縁は隠れていた。下に立っていると、入口さえほとんど見えない。土壁は音を遮り、雨のあとの地面には目立つ跡が何も残っていない。あのとき彼らが何を見たのか、ふいに分かった。
「死体もない」と彼女は言った。「壊れた破片もない。何も浮いてこなかった」
荷馬車の跡は涸れ谷の口で途切れていた。そして人も、そこで消えた。
ジョセフは続けた。「そのあと、あんたの馬だけが自分で戻ってきた」
あなたは目を閉じた。
いちばん筋の通る結論だ。洪水、転落、呑まれた。
「みんな、あんたが死んだと思った」と彼女は言った。
自分の鼓動が聞こえた。遅く、そして重かった。
「信じなかったのは、わたしだけだ」と彼女は言った。
目を開けて、彼女を見た。
その視線は逃げなかった。
「あんたの手を見た。あの胼胝がどうやってできたかも知ってる」その声が震えはじめ、抱き方がまた少し強くなった。「馬に乗れる人間が、こんなふうに消えるはずがない」
あなたは、彼女が初めてあなたの手を握った瞬間を思い出した。
彼女は続けた。「あんたがいなくなった日から、あんたの向かった方向をたどった。先住民は地図を見ない。地形を見て、水の流れを見て、馬がどこへ行くかを見る」口の端が動いた。「馬は上へは走らない。風が弱くて、音の小さいところを探す」
彼女は涸れ谷の奥のほうへ目を上げた。
「よかった、ここにいてくれて」
彼女はあなたの胸に頭をうずめ、疲れきったように長い息を吐いた。
ふいに気づいた。この七日間、彼女はひとりで、どんな道を歩いてきたのか。嵐のあとの草原、洗い流された地形、消えた痕跡。誰もがとうにあきらめた可能性を追って、一歩ずつここまで来たのだ。喉が締まった。彼女はまたあなたを抱きしめた。
今度の動きはとてもやさしかった。あなたが壊れないことを、ようやく確かめたように。その額が肩に当たり、呼吸が少しずつ落ちていくのが分かった。
「家に連れて帰る」と彼女は言った。
町へではない。父のところへでもない。
「帰る」のだ。
うなずいたかどうかも分からない。ただ、その瞬間、涸れ谷はもう人を呑み込む井戸ではなくなっていた。あなたはふたたび世界の音を聞いた。上を渡る風、石の隙間から落ちる水、遠くで鳥が羽ばたく音。
彼女の腕のなかで、ゆっくりと光のほうへ引き戻されていった。
あなたは、世界に帰ってきた。
4.5 星空の下、馬で帰る
彼女がどうやってあなたを馬に乗せたのかは分からない。
覚えているのは、たくましく、それでいて震えている手に抱えあげられ、鞍に置かれ、そのまま後ろに引き寄せられたことだけだ。顔が彼女の背に触れた。マントはまだ濡れていて、土と革の匂いがした。
馬が歩きはじめた。最初はとてもゆっくり。蹄が濡れた土と砕けた石を踏んで、鈍い音を立てる。鈴が鞍のそばで揺れ、歩みに合わせて軽く鳴り、静かな草原ではやけにはっきり聞こえた。あなたたちはそうして、十九世紀のアメリカ西部を、ひとつの世紀が終わりへ向かうその年月のなかを、一緒に進んでいた。
夜が草原に広がっていた。
嵐は退き、夜空は水で洗った鏡のようだった。数えきれない星が瞬き、その夜は雲も霧もなく、まるで一世紀ぶんの暗闇が風に吹き払われて、この小さくて硬い光だけが残ったようだった。見上げると、星が一つずつ落ちてくるようだった。母のまなざしが下りてきて、ふたりの上に落ちるように。
あなたはとても疲れていた。
まぶたが重く、意識は水に浸した紙のように少しずつ柔らかくなっていく。けれど緩んだ途端、彼女はそっと腕に力を入れた。
「寝るな」
低く、懇願するように言った。
彼女が何を怖がっているかは分かった。母が去ったあの朝を思い出す。母もこんなふうに静かに目を閉じて、二度と覚めなかった。あなたは顔をもっと強く彼女の背に押しつけた。まだここにいると示すように。
「話をして」とあなたは言った。
彼女は小さく応えた。
まず、焚き火の話をした。
先住民が火のまわりに輪になって座り、火の光が顔を照らし、革のビーズ飾りを光らせること。太鼓の音が胸から出ていって、足が地面を踏み、埃が舞いあがってはまた落ちること。子どもが脇で見ていて、拍を覚え、小さな足でも地面を叩くこと。
それから、太陽の踊りの話をした。
それは一年のうちで最も大切な儀式のひとつだと彼女は言った。人々は太陽に向かい、夏のいちばん強い光に向かって、身体で願い、身体で引き受ける。命はただで与えられるものではなく、応えなければならない、差し出さなければならないと、彼らは信じている。
彼女の話し方は速くなく、一文ごとに、少しずつ力を分けてくれるようだった。
続いて、収穫の踊りの話をした。
とうもろこしが実るころ、人々がどうやって土地に、水に、風に感謝するかを。それは「持っていること」を祝うのではなく、「まだここにあること」を祝うのだと彼女は言った。まだ生きていて、まだ食べられて、冬の前に少しは蓄えられること。
聞きながら、あなたの呼吸は落ち着いていった。痛みはまだあるのに、もうあなたを呑み込んではいないようだった。
最後に、彼女はバッファローの踊りの話をした。
「バッファローの踊りは、バッファローのためのものだ」と彼女は言った。「あの子たちが草原に戻ってくるように」
「バッファロー」と言うとき、その声はいっそうやわらかくなった。人よりずっと古いものについて話すように。
彼女は移動の話をした。
谷の果てに最初の一頭が現れると、まず地面がかすかに震える。それからどんどん増えていく。茶褐色の身体がつながって一面になり、大きな川のように峠から溢れ出し、草原の奥へ流れていく。蹄に埃が舞いあがり、太陽が背を照らして、動く川のように見える。
「赤い川みたいだ」と彼女は言った。
あなたは目を閉じて、その川が本当に見えるような気がした。
草の波が寄せては返り、風が吹くと水が流れるようだった。蹄の音が雷のように響き、北アメリカのバッファローが峠から溢れ出す。何千、何万と、茶褐色の身体が日の光のなかを動いていく。果てのない川のように。あなたも馬の背にいる気がした。誰かに連れられているのではない。自分から走っている。風に向かって、光に向かって、行ったことのない遠くを抜けて。
けれど、彼女の声はそこで沈んだ。そのあとの銃声の話をしたのだ。
毛皮のために、土地のために、鉄道が連れてきた市場のために、狩人が破壊的な殺戮を始めたこと。牛の皮も舌も都市では金になった。鉄道は人を草原へ運び、死体を外へ運び出した。ほんの数年で、バッファローはほとんど殺し尽くされ、草原の呼吸は断ち切られた。
彼女が息を呑む音が聞こえた。何かの怒りを押し戻すように。
「だから、起きていろ」と彼女は言った。「生きろ」
あなたに言っているのか、自分に言っているのかは分からなかった。それでもその声は一本の糸のように、沈みかけたあなたを引きとめた。
あなたは彼女に腕を回し、指先でマントの襞を、その粗い布をつかんだ。革と布越しに、彼女の鼓動が伝わってくる。重く、そしてとても速くなっていた。
ふいに、ひとつ知りたくなった。
「あなたの名前」とあなたは聞いた。「ジョセフでも、ジョセフィンでもない名前」
彼女はしばらく黙った。
鈴はまだ鳴っていた。草原はまだ呼吸していた。星はまだ頭上にあった。
「Ran Into the Trees」と、ついに彼女は言った。
あなたはその名前を心のなかでゆっくり繰り返した。
木立へ駆け込んだ者。
それが彼女の名前であり、彼女の選択でもあった。
鈴の音を、彼女の呼吸を、遠くでときおり鳴く夜鳥の声を聞いていた。
あなたは彼女を強く抱いた。その硬いマントと革を抱き、そしてその硬さの下で、ひとりの女のまだ柔らかい魂を抱いた。
ここは、十九世紀西部の草原。
世紀末の荒れ野のなかで、あなたたちはゆっくりと灯りのほうへ近づいていった。