『西部の物語』第三部:終わりの前の夏
オリジナル小説『西部の物語』第三部。宿の廊下で明かされる名前、隠れた姉妹たちのつながり、牧場をすでに売ってしまった父、そして荷馬車を涸れ谷へ走らせる嵐の夜。
3.1 男たちが出ていった夜
町に入って二日目の夜、町は見慣れた分裂に戻った。
昼のあいだ蹄と車輪にかき混ぜられた泥水が、また通りの窪みに沈んでいく。風が通りの入口から吹いてきて、酒と馬糞と濡れた木の匂いを運んできた。石油ランプが一つずつ灯り、光は鈍い黄色だった。鉄道がここを完全に変えてしまう前の、町の夜の匂いだ。
男たちが出ていきはじめた。
上着を着替え、ブーツの泥を落とし、昼より声が高くなる。酒場の扉を押し開ける者がいて、音楽と笑い声がすぐに溢れ出す。もっと暗い通りへ歩いていく者もいる。行き先ははっきりしていて、声をかけ合う必要もない。
酒場と娼館は、彼らが情報を交換し、序列を確かめ、圧を抜く場所だった。牛追いの隊にとって、これは道の上では数少ない「文明の寄港地」だ。女にとっては、その敷居そのものが境界だった。
あなたは行かなかった。宿に残された。
宿の部屋は狭く、板壁が湿気を吸っていて、空気には古いかびの匂いがした。窓は裏の路地に面していて、木箱や壊れた樽が積まれ、馬が一頭柱に繋がれて、ときおり足を踏み鳴らす。鉄の蹄が石を打つ音が、規則正しく単調に続いた。
デイヴィッドはベッドに横になっていた。
額が熱く、呼吸は浅く速い。数日前の雨と冷えで、咳がひどくなっていた。あなたは濡れた布で額を拭いてやる。布はあてがうとすぐに体温で温まった。彼は無意識に毛布の端を握りしめていて、指の関節が白かった。
水の杯を口もとに運ぶ。
「ゆっくり」と低く言った。
彼はひと口飲んで、また何度か咳をした。その音が狭い部屋ではやけにはっきりする。毛布を肩まで引き上げてやると、指先が肌に触れた。おかしいほど熱かった。
これが、あなたが残された理由だった。
西部の牛追いの隊では、女が夜の公共の場に出ることはめったにない。同行していても、「屋内」にいるのが当たり前とされる。宿、馬車、天幕の奥。病人と子どもと物資の世話が「ふさわしい」役目とされていた。
あなたは子どものころからその規則を知っていて、ずっと守ってきた。けれど今夜は違った。扉の外に足音がしたのだ。
酒場のほうの騒ぎではなく、もっと軽い、抑えた音だった。起きて扉を開けると、ジョセフが廊下に立っていた。石油ランプが壁にかかり、炎が揺れて、彼女の影を長く引いていた。
「みんな行った」と彼女は言った。
あなたはうなずいて、なかへ入れた。
扉が閉まると外の音が遮られ、遠くのぼやけた音楽だけが残った。ジョセフはベッドには近づかず、帽子を机に置いて、扉のそばに立った。その位置は意図的で、はっきりしていた。あなたの私的な場所には入らず、外へ退きもしない。
「彼は?」と彼女が聞いた。
「熱がある」とあなたは答えた。
彼女はうなずき、それ以上は聞かなかった。それから壁際に腰を下ろした。扉に背を向け、ちょうど廊下が見える向きに。彼女が夜番をするつもりなのだと気づいた。
ほどなくして、父が帰ってきた。
ブーツが廊下を打つ音は、ほかの者より重かった。扉を押して入ってきて、まずデイヴィッドを見て、それから視線がジョセフに落ち、たちまち鋭くなった。
「ここで何をしている」と彼は言った。
ジョセフは立ちあがり、まっすぐに立った。
「夜番を」と彼女は言った。
父は冷たく笑い、一歩前に出た。
「警告しておく」と彼は言った。声は低く抑えられていたのに、一語ずつはっきりしていた。「娘に指一本でも触れてみろ。去勢してやる」
これがこの時代の言葉だった。
父が我を失って怒っているのではない。むしろ社会に黙認された脅しだった。父親が、自分が「男」だと思っている相手に支配権を宣告する。部屋の空気が一気に張りつめ、ランプの炎が揺れ、壁の影が震えた。
ジョセフは動かなかった。
表情は落ち着いていて、手は身体の脇に垂れたまま、余計な動きはひとつもない。
「しない」と彼女は言った。
説明も、弁解もなかった。
父はしばらく彼女を見つめていた。その一言の重さを量るように。最後に鼻を鳴らし、あなたのほうを向いた。
「弟をちゃんと見ていろ」と彼は言った。
それから背を向けて出ていき、扉が閉まって、部屋はまた静かになった。
あなたはそこに立っていた。手のひらが冷たかった。いまのこの瞬間、自分とジョセフが同じ線の上に置かれたのだと気づいた。同じ誤解に覆われ、同じ脅しに覆われて。
ジョセフはまた壁際に座り直した。
「外で番をする」と彼女は言った。「休んで」
あなたは断らなかった。
ランプがゆっくり暗くなっていく。デイヴィッドの呼吸が次第に落ち着いた。窓の外では町の夜が回り続け、男たちはどこかで娼館の灯りのなかに消えていった。
そのなかには、もちろんあなたの父もいた。そして、あなたの未来の——弟も。
3.2 もうひとつの世界の話——名前と、秘かな姉妹たち
その夜、デイヴィッドがようやくしっかり眠ったころには、もう遅い時間だった。
彼の呼吸は遅くなり、途切れがちな咳から均等な上下に変わっていた。濡れた布を額から取って机の隅に置き、毛布をそっと掛け直す。窓の外では風がカーテンを動かし、布が壁を打って、軽く繰り返す音を立てていた。
宿の奥で誰かが歩き、床板が低く鳴って、すぐにまた静かになった。
あなたは皿をひとつ持った。
簡単な食べ物が載っている。乾いたパン、刻んだ塩漬け肉、それにわざと取っておいたとうもろこしのパンの一切れ。扉を押すと、ランプの光が一気に落ちて、廊下には壁の一灯だけが残った。
ジョセフは廊下の突き当たりに座っていた。
窓辺の椅子にもたれ、上着を肩にかけ、銃は足もとに置いている。窓は半分開いていて、夜風が入ってきて灯りを揺らした。あなたが近づく音を聞いて彼女は顔を上げた。驚きはなかった。ずっと待っていたかのように。
皿を差し出す。
彼女は受け取ったが、すぐには食べず、膝の上に置いた。
「眠ったわ」とあなたは言った。
「うん」と彼女はうなずいた。声はとても低かった。
あなたは向かいの椅子に座った。椅子と椅子のあいだはそう遠くない。互いの声がふたりだけのものになる程度の距離だ。外の通りからぼやけた笑い声が聞こえてくる。誰かが酒場から出てきて、呂律の怪しい声で話し、足取りがふらついている。その音は、別の世界から漏れてきたようだった。
しばらく黙っていた。
ふたりとも慎重だった。どこまで話していいのか、まだ話せないのはどこか、探り合っていた。
「先住民の部族で育ったのよね……」とあなたが先に口を開き、そして止まった。「そこは、どんなところだったの?」
ジョセフの視線が窓の外に向いた。夜は深く、通りの端の灯りが風に揺れている。少し考えてから、彼女はゆっくり話しはじめた。
「こことは違う」 彼女は言った。「時間の進み方が違う」
彼女は、自分の部族が森のふちにいたことを話した。白人に追いやられて、町から遠い場所へ移らされたこと。先住民の故郷は長い年月のあいだに占領され、切り分けられ、十九世紀の終わりには、もうほとんど残っていなかったこと。
その森の麓の土地は、白人の農場のように四角く切り分けられてはいない。人は山と水に沿って暮らす。食べ物は季節から来る。春には根を掘り、夏には木の実を摘み、秋には鹿を狩り、冬は干した肉ととうもろこしのパンで越す。
「鹿の肉は薄く切って、風に吊るして干す」と彼女は言った。「木の実も干して、雪が降るころに食べる」
話すときの速度はゆっくりで、何度も歩いた小道を振り返るようだった。その声には、牛追いの道での平らさとは違う、少しやわらかいものがあった。
「わたしたちは革を着る」と彼女は続けた。「鹿皮、バッファローの皮。服にはビーズを縫いつける。きれいにするためじゃなくて、記録するためだ。どの年のことか、誰がまだいるか」
飾りの話になると、彼女は手を上げて、喉の下あたりに触れた。そこにはいま何もない。けれどその動きは自然で、かつて何かを身につけていた癖のようだった。羽根のことも言った。羽根は特別なときにだけ着ける。狩りのあとか、儀式のときに。
「名前も、適当につけるものじゃない」と彼女は言った。「名前は変わる。小さいときにひとつ、大きくなったら別のものになる。自分がしたことと、自分が見たものに関わってる」
聞きながら、あなたの胸のなかに絵が浮かんできた。
森。 木の葉が風にこすれる音。 柔らかくて、踏んでも反響のない地面。
駆ける馬。 草を打つ蹄。 風の音と混じって、いい調べになる。
彼女の語りのなかで星が揺れ、あなたは1875年を離れ、糞と酒の匂いのするこの町を離れていくようだった。あなたは飛んでいた。森の境のあの土地へ。そこにはセコイアが一面に立っている。世界でいちばん高い針葉樹だ。樹皮は深い赤で、荒く、古い。その年輪には、人間よりずっと長い時間が眠っている。
ジョセフは前にいた。まだ先住民のやり方で髪を編み、そこに羽根を飛ばせて、弓を背負い、身のこなしは軽い。そしてあなたは、その後ろで馬に乗っていた。父がとうに触れることを許さなくなった、あの馬に。猟銃を斜めに背負い、金属は冷たいのに、なじみがあった。ふたりは林のなかの開けた場所を抜け、日の光が枝葉のあいだから落ちて、地面にまだらな模様を作っていた。
そこには柵がなかった。 どちらへ行けばいいのか、誰も教えなかった。
ジョセフの声が届く。部族は、山には魂があり、川は人が歩いた道を覚えていると信じている、と彼女は言った。人は死んでも消えず、別のかたちで風のなかに残るのだと。それを聞いたとき、胸の奥が急に締めつけられた。長く触れていなかった感覚だった。信仰ではない。許しだ。
世界の説明が、ひとつでなくてもいいという許し。
彼女の声は続き、その情景からあなたを前へ連れ出した。彼女は戦いのことを話した。白人と先住民のあいだの衝突が、だんだん頻繁になっていったこと。土地が線を引かれて奪われ、狩りの道が断たれたこと。部族が、より痩せた土地へ移らされたこと。
「あれは平和のためだと言われた」と彼女は静かに言った。「でも、平和はわたしたちが選んだものじゃなかった」
混血であることは、彼女をさらに複雑にした。白人の血は部族のなかで完全には属さない者にし、先住民の血は白人の世界でつねに警戒される者にした。彼女は真ん中に置かれ、道具にされ、橋にされた。
そしてふいに分かった。彼女がふちに慣れているのは、そこが好きだからではない。
ただ、子どものころからそこに置かれてきたからだ。
十九世紀の西部で、先住民は消えゆく集団と見なされ、混血の者はその過渡のようなものと見なされた。古い世界が場所を譲るのを助けることを期待され、新しい世界に本当に入ることは許されない。そのなかで女の立場はもっと脆かった。身体も、結婚も、子どもも、しばしば交渉や同盟の一部として扱われ、選択としては扱われなかった。
「それで、あの森を離れたの?」とあなたは聞いた。
彼女が答えるより先に、酒場の扉が押し開かれた。誰かが大声で話していて、酒の匂いがした。男たちが酒と女の話をしている。笑い声は粗く、言葉には、あなたにも分かる当てこすりが詰まっていた。誰かが娼婦の声色をまねて、どっと笑いが起きた。
その音は手のようで、あなたを森から引き戻した。
あなたは薄暗い宿の廊下に座り、皿の縁を指で握っていた。そして気づいた。自分はまだここに閉じ込められている。名前と、身分と、位置に囲まれて。
ジョセフを見た。彼女も聞いていた。表情は変わらず、目だけが一瞬暗くなった。
ふいに、ひとつ知りたくなった。
「あなたの本当の名前は?」とあなたは聞いた。
彼女はこちらへ顔を向けた。
「ジョセフィン」と彼女は言った。
その名前は、彼女の口から出ると「ジョセフ」よりも少しやわらかかった。会ったことのない父がつけた名前だと彼女は言った。白人の名前で、別の道から伸びてきた影のようだった。
もうひとつ聞きたかった。彼女の先住民の名前を。
けれど、口を開くより先に、彼女は暗がりであなたの手を握った。速く、軽く。そしてあなたを見て、声を落とした。
「秘密を守ってくれた」と彼女は言った。「あんたが最初じゃない」
あなたは、はっとした。
「あんたの前に、ふたり女の子がいた」と彼女は続けた。「あの子たちも気づいた。ひとりは川辺で、ひとりは着替えのときに」口の端が動いた。笑いではなく、分かっているという表情に近かった。「ふたりとも、何も言わなかった」
彼女は少し間を置いた。
「女ってのは、ときどき、ただ分かるんだ」と彼女は言った。「男の前では、互いに庇い合う」
その言葉は軽く落ちて、あなたのなかで響いた。
ふいに気づいた。自分はひとりではない。最初でもないし、最後でもない。あなたたちのあいだには見えない線があって、この荒れた世界のなかを、そっとつないでいる。
外の足音が近づいてきた。
男たちが戻ってきた。酒と娼婦と明日の道の話をしている。世界の秩序は変わらない。それでもあなたはそこに座っていて、心は前より少しだけ落ち着いていた。
あなたはジョセフを見た。
彼女は、自分の本当の名前を教えてくれた。
そのささやかな信頼は、縛られた生活のなかに開いた、細くても本物の裂け目のようだった。
3.3 終点へ向かう道
八月に入ると、光が変わりはじめた。
太陽はまだ高いのに、もうあれほど鋭くはない。朝の空気には冷たさが少し混じり、肌に落ちてもすぐ馬の背の熱に散らされる。草原の色は深くなり、緑に黄が混じって、踏んでも柔らかくはなく、乾いた茎がブーツの下で折れて、乾いた音を立てた。
鉄道の町が近づいていた。
道の上では、値段と日付の話が増えた。隊長は日数を何度も計算し直し、カウボーイたちは道具の手入れを始めた。鉄道の向こうの酒場の話をする者がいて、いくら残るかをもう計算している者もいた。鉄道は、すべてが数えられ、清算され、終わることを意味していた。
あなたはジョセフと並んで進むことが多くなった。
わざと近づくようには見せず、遠回りをして、自然に同じ線に並んだと思われるようにした。群れの外側で位置を替え、水場では短く足を止める。彼女は地面の柔らかいところを教えてくれ、あなたは水袋を渡した。動きは小さいのに、安定していた。
ほかのカウボーイたちもそれを見ていた。
冗談を言う者がいた。まるで連れ立った兄妹みたいだ、と。含みのある調子で、彼女を挑発しようとする者もいた。ジョセフはいつも軽くかわした。一言か、一つの視線か、あるいはただ避けて通る。正面からぶつかることは決してないのに、相手には手がかりを与えない。
あなたはときどき心配になった。彼女は落ち着いていた。
「相手にするな。そうすれば、すぐつまらなくなって離れていく」と彼女は言った。
その日の午後、牛の群れは長い一本の線に伸ばされた。遠くの地形がまっすぐになりはじめている。草原の起伏とは違う。それが鉄道の方向だと、あなたには分かった。
あなたは、この雇用が終わったらどこへ行くのかと聞いた。
彼女はしばらく黙ってから、「町へ戻る」と言った。
胸が締めつけられた。
「また隊を探す」と彼女は続けた。「金を貯めつづける」
それは予想していた答えだった。
「それから、離れる」と彼女は付け加えた。
あなたは彼女のほうを向いた。
その目は揺るがず、ためらいもなかった。
「ずっと西部にいるつもりはない」彼女の目的地はもっと北——カナダだと言った。
そのときのあなたは知らなかった。少し前の1867年、『憲法法』が成立し、カナダ州はオンタリオとケベックに分かれ、ニューブランズウィック、ノバスコシアという英領北アメリカの植民地とともにカナダ連邦を作っていた。当時、そこでは土地が売られていた。そして、ジョセフのよく知る森があった。
「わたしだけのものになる場所が欲しい」
あなたはその森を想像した。湿った空気、落ち葉に覆われた地面、柵のない場所。
あなたは彼女のために嬉しかった。その喜びは本物だった。
けれど同時に、静かな孤独もゆっくりと浮かんできた。あなたは牧場へ、父の世界へ戻る。そして彼女は前へ進み、あなたの届かないところへ行く。
風が横から吹き、牛の群れのあいだで鈴が低く鳴っていた。
「牧場に戻ったら」とあなたは言った。「また会いましょう」
口に出したとき、自分でも少し驚いた。けれどジョセフはあなたを見て、うなずいた。
「ああ」
隅のほうで、あなたの父はそのすべてを見ていた。
彼は叱りはしなかったが、あなたたちのほうをより頻繁に見るようになった。その沈黙は言葉より重い。溜まっていく怒りだと、あなたには分かっていた。ふさわしい機会を待っているだけの。
隊は進みつづけた。
晩夏の光が影を長く引く。鉄道はまだ現れないのに、すでに誰の心のなかにも形を取っていた。馬の背に揺られ、蹄と風の音を聞きながら、ふいに気づいた。この道の終点は、もう無視できないほど近い。
そしてあなたは、終わりそのものに不安を感じはじめていた。
3.4 父の決断と、手綱を離れた馬
九月に入ると、空気は明らかに変わっていた。
朝の冷えはもう一時的なものではなく、太陽でも完全には追い払えない。鉄道の町が地平線に現れた日、空はとても高く、雲は速く流れ、風は北から金属と石炭の煙の匂いを運んできた。あなたたちは町の外で群れを止め、数えと取引を待った。線路が遠くまで伸びている。まっすぐで冷たく、草原を切り分ける一本の線のようだった。
ここが終点だった。
牛はここで売られる。金はここで清算される。道もここで終わる。
父はいつもより無口だった。その目はいつも人の群れを越えて、線路の向こうを見ている。心はもう別のところにあるのだと、あなたには分かった。
夕方、父は人を避けて、あなたひとりを呼んだ。相談の口調ではなく、通知だった。
「牧場は売った」と彼は言った。
声は高くない。すでに置かれた石のようだった。
一瞬、意味が分からなかった。
「売った?」とあなたは繰り返した。
「戻らない」と彼は言った。「これが片づいたら、おまえとデイヴィッドを連れてニューヨークへ行く」
その名前は、雷より重く落ちてきた。
ニューヨーク。
それがどんな場所かは知っていた。十九世紀のアメリカで、あれより大きな都市はない。港、工場、銀行、新聞社、移民街。毎日船が着き、ヨーロッパから、別の世界から人を運び込む。通りは混み、空気は濁り、機会と貧困が並んで育っている。
資本と工業の中心だ。そして父の目には、未来だった。
「あそこには医者がいる」と彼は言った。「学校もある。デイヴィッドを一生牧場に置いておくわけにはいかん」
そこで分かった。この決断はあなたのためではない。デイヴィッドのためだ。反論しようとして、喉が締まった。父の言うことが事実だと分かっていたからだ。デイヴィッドは身体が弱く、冬にはいつも病気になる。牧場に必要なのは風雪のなかで立っていられる人間で、世話をされる子どもではない。父はもう判断を下していた。
「行かない」とあなたは言った。声が少し乱れた。
父はあなたを見て、眉をゆっくり寄せた。
「おまえに選択肢はない」と彼は言った。「いますぐ嫁いで、ここに残るなら別だがな」
その一言は刃のようだった。
嫁ぎたくない。別のやり方で残されたくもない。
都市が嫌いだった。人のあいだに押し込められる暮らしが嫌いだった。あなたが欲しいのは安定ではない。あえて言うなら、母がかつてそうしたように——離れて、選んで、西へ行くことだ。
あなたは襟からあのペンダントを引き出した。金をあしらった貝殻が、暮れの光のなかで一度光った。
母が遺した唯一のものだ。母はヨーロッパから来た。広い意味で言う「第二の波」の大移民のころの移民で、アイルランドの草地から来た。アメリカの草もアイルランドの草も、たいして違わないだろうと思っていた。初めてアメリカ大陸に立った日、母は海辺でこの貝殻を拾った。そしてそれを持って西へ西へと進み、見慣れた草原と、見慣れた牧場に来て、そこであなたの父と出会った。
そしてふいに気づいた。もう母の顔が思い出せない。声もぼやけている。それでも心の底で声がしていた。牧場さえあれば、あの土地さえあれば、母は完全には消えていない、と。春に草が伸びるころには、家に帰れと呼ぶ母の声を思い出すだろう。その声は西部の風のなかに残っている。夏に小川が勢いを増すころには、水辺で洗濯をしながら低く口ずさんでいた母を思い出すだろう。水の音がすべてを運び去り、あのわずかなやさしさだけを岸に残していく。秋になって風が干し草の山を渡るころには、母が戸口に立って、あなたと父が遠くから狩りの帰りに馬で戻ってくるのを見ているような気がするだろう。そして冬の雪が畑を覆うころ、あなたはようやく理解する。母はとうに土地の一部になっていて、どこか一か所にいるのではなく、あなたがまだ生きているすべての季節のなかにいるのだと。
「売らないで」とあなたは言った。「あれは母のものよ」
声は高くないのに、張りつめていた。金をあしらった貝殻が指のあいだでかすかに揺れる。その縁は歳月に磨かれて丸くなっていた。手のひらに握り込むと、金属の冷たさが少しずつ肌に染みてきた。まだつかんでいられる唯一のもののように。
父はそれを一度見た。
ほんの短い一瞥だった。
表情は変わらなかった。苛立ちもなければ、迷いもない。彼はもう、この件を心のなかで片づけていた。
「思い出は人を食わせない」と彼は言った。
とても静かな言い方だった。 静かだからこそ、返す言葉がなかった。
ふたりのあいだの空気が一気に張りつめた。ふいに気づいた。同じ土地の上に立っていながら、あなたたちはもう、まったく違うふたつの世界のために算段をしている。
あなたはそれ以上何も言わなかった。
これ以上の言葉は、懇願か、取り乱すことにしかならないと分かっていたからだ。そうはなりたくなかった。背を向けて歩き出した。速く、けれど行き先はなかった。ブーツが砂利と枯れ草を踏んで、乱れた音を立てる。背後で父が誰かに指示を出しているのが聞こえた。口調はもう、いつもの落ち着きに戻っていた。
この話は終わったのだと、あなたには分かった。
ひとり野営地のはずれまで来たとき、鉄道の町の灯りがもう瞬きはじめていた。光は切れ切れで、夜に切り刻まれている。あなたは低い土の丘に腰を下ろし、顔を両手に埋めた。風が草原の奥から吹いてきて、冷たさと埃の匂いを運んでくる。ふいに無力感に襲われた。これまでの年月で、もう慣れたと思っていたはずの感覚に。
牧場。 母。 永遠に離れることはないと思っていたあの土地。
それらが少しずつ抜き取られていくのに、あなたには何もできない。
あなたはジョセフを思い出した。
彼女の話してくれた森を、川を、柵のない世界を思い出した。ほとんど無意識に振り返ってその姿を探し、見えたのは長い線に伸ばされた牛の群れだけだった。彼女は、あなたの目の届く範囲にいなかった。
理由はすぐに分かった。
父が彼女を移したのだ。
群れの反対の端へ。野営地から離し、あなたから離した。それが父のやり方だった。説明もいらないし、正面からぶつかる必要もない。引き離してしまえば、それで足りる。
胸が沈んだ。
行きたかったが、そうすれば事態が悪くなるだけだと分かっていた。その場に座って、遠くの群れの低い物音を聞き、夜のなかで見回りをしている彼女の姿を想像した。そして気づいた。さっきのことを、彼女に伝える暇さえなかったのだと。
夜がゆっくり降りてきた。
野営地の火が灯り、一つずつ消えていく。人の声が減り、ときおりの足音と馬の鼻息だけが残った。あなたは野営地のはずれに戻り、荷馬車にもたれて座り、上着をきつく巻いた。
そのとき、風が変わった。
雲が動きはじめ、星の光を遮った。気温が急に下がる。見えない何かに押さえつけられたようだった。顔を上げると、遠くではもう雷が転がっていた。
馬たちが落ち着かなくなった。
頭を振り、足踏みをし、鼻息が重くなる。荷馬車の綱が引っ張られ、車軸が圧に耐えかねて細く耳障りに軋んだ。あなたは立ちあがった。不吉な予感が浮かんだ。
次の瞬間、雷が炸裂した。
稲妻が地面すれすれに落ち、野営地全体を真っ白に照らした。父の馬が激しく嘶き、前脚を上げる。恐怖がそのまま身体に流し込まれたようだった。綱が一気に張る音が聞こえ、反応する間もなく、馬は荷馬車を引きずって走り出していた。
向かう方向は、涸れ谷だった。
「止めろ!」
叫び声が混乱して上がる。
荷馬車は揺れのなかで制御を失い、車輪が石にぶつかって耳障りな摩擦音を立てた。父は振り飛ばされ、地面に強く叩きつけられた。あなたが駆け寄ったとき、彼はもう立てなかった。
荷馬車はどんどん遠ざかっていく。そのなかには、あなたたちのすべてが積まれていた。
金。 衣類。 母の遺したもの。 デイヴィッドの未来。
雷が頭上で転がり、風は人を倒しそうなほど強い。すぐに追いつける乗り手はいなかった。誰もがその場に縛りつけられ、怯えた馬が運命を引きずって、暗い涸れ谷へ突っ込んでいくのを見ているしかなかった。
あなたはそこに立っていた。心臓が激しく打っている。
自分にはできると、あなたは知っていた。
馬を知っている。速さを知っている。こういう地形でどう追いつくかを知っている。すべて知っている。かつて教えられ、そして禁じられたからだ。
そしていま、その禁じた人が地面に倒れ、意識を失っている。
ついに、あなたは彼の命令を待たなくてよくなった。振り返り、いちばん近い馬へ走り、飛び乗った。鞍具は冷たく、けれど手綱は手のなかであまりにもなじんでいた。
雷がまた炸裂し、蹄の音が風を裂き、涸れ谷が前方に口を開けた。
この瞬間から、もう戻せないものがあると、あなたには分かっていた。