The Song of Inanna イナンナの歌

小説

『女剣闘士の死』第三幕:帝国の血

オリジナル小説『女剣闘士の死』第三幕。東への道で、トラヤヌスの勝利の代償が目の前に広がる。血の匂いのしない軍団長が戻ってきて、ローマを目前にした最後の夜、スキュラはふたりの母の物語をようやく語りはじめる。

3.1 灰と塩の道

あなたがローマを離れたのは秋だった。その日、城門が背後で閉じ、その轟きがあなたを見送った。

マルクスはすでに先に東方へ向かっていた。使者の話では、メソポタミア属州の沿道に兵を置き、あなたの一行を迎えるということだった。父はまだローマに残り、元老院の務めを引き継いでいた。

あなたはそのふたりのあいだに挟まれていた。家から送り出されたのに、まだ受け取り手の手元に届いていない、高価な品物のように。

道中、一行はローマ街道を進んだ。

道は平らでまっすぐだった。一ローマ・マイルごとに石の標柱が現れ、皇帝の名と距離が刻まれている。

ローマはいつもそうだった。すべての道をローマへ通じさせ、ローマの秩序をその道にのせて、世界じゅうへ流し広げていく。あなたが書物で読んできた、あの道理のとおりに。

けれど東へ進めば進むほど、道ばたの景色はさびれていった。

最初はいくつかの焼け落ちた小屋。さらに進むと、村がまるごと焼けて更地になっていた。道ばたにはときどき異教の小さな祠があり、神像の顔は叩き割られていた。誰も取り替えず、誰も持ち去ろうとはしなかった。

川のほとりを通ったとき、死んだ羊か何かの獣の死骸に蠅がたかっていて、腐った匂いが熱風にのって車のなかまで運ばれてきた。お付きの奴隷がすぐに垂れ幕を下ろし、あなたの視界をふさいだ。

けれど腐臭が減ることはなかった。

あなたは手を伸ばして垂れ幕の端を持ちあげ、遠くに捕虜の列が現れたのを見た。

最初は、両手をうしろで縛られ、足に鉄の輪をはめられた男が何人か。それから、鎖でひとつなぎにされた一団がまるごと。老人も、女も、背丈が大人の半分ほどの子どももいた。彼らは道の端を歩き、鎖がちゃらちゃらと鳴っていた。

彼らは奴隷として、西へ連れていかれるのだ。

管理人が言った。「パルティアの旧い民もいれば、征服された蛮族もいます。税を納めない、あるいは納められない自由民もいる。軍団は決まりどおりに処理するんです」

それは生きた人間だった。宴の席で蛮族と呼ばれるときのような、ぼんやりしたものではなかった。ひとりの女の頭巾の縁には細い青い糸で刺繍がほどこされ、針目がとても細かかった。ひとりの老人の胸には銅のお守りが下がっていて、縁がすり減って光っていた。ひとりの子どもは、腕のない木の人形の半分を抱いていた。

彼らの目を見てしまうと、もう父の書斎の地図に書かれた注記のようには思えなかった。ローマ人の地図の上では、奴隷は馬や羊毛や木材や鉛の鉱山と並べられ、奪うに値する資源のひとつにすぎないのだった。

スキュラは一行の横の、うしろのほうについて進んでいた。

彼女はあまり口をきかなかった。道がいちばん暑くなる時間には、自分の水袋を馬丁に渡し、自分はほんの少ししか飲まなかった。泉や川に行き当たると立ちどまり、流れる水に指を差し入れた。

一度、何を見ているのかと聞いたことがある。

「水がどこから来るのか。水は道を覚えている」と彼女は言った。

あなたはどう返せばいいのかわからなかった。

ある夜、野営地は干上がった川床のそばに張られた。風が空き地を吹き抜け、家畜の糞と灰と野草の匂いを運んでくる。兵士たちは遠くで火をおこし、スキュラはひとり岩に座って短剣を研いでいた。

月の光が刃を照らし、冷たい霜が降りたようだった。

ほとんど無意識に、あなたは尋ねていた。「北海って、どんなところ?」

彼女の手が一瞬とまった。

「寒い」

拒絶に近いほど短い答えだった。

「日が沈むと、潮がずっと遠くまで引いていく」彼女は刃で靴底の泥をこそげ落とした。「岩が現れて、魚が浅い潮だまりに取り残される。子どもたちが貝殻を拾いに走っていくと、年寄りが呼び戻す。ぐずぐずしていると、潮がうしろから追いかけてくる」

「あなたも小さいころ、拾いに行ったの?」

「行った」

そう言うと、それ以上は何も付け加えなかった。短剣が革の靴底をこすって、かすれた音を立てた。

それが彼女の故郷の語り方だった。長い話もなく、論評もなく、嘆息もなく、感情さえあまりない。あるいは、ラテン語を使うとき、彼女に言えるのはそれだけだったのかもしれない。

水を見れば、海の潮の満ち引きの話をした。風が冷たくなれば、海の霧の話をした。宿駅の人が塩漬けの魚を出してくれると、北の干し魚は硬くて、刃の背で叩き割らなければならないのだと言った。

まるで……もうひとつの世界の小さなかけらを、あなたの目の前に置いてくれるだけのようだった。結晶の粒を舌の先にのせて、それが砂糖なのか海の塩なのかを、自分で味わわせるように。

数週間後、一行はさらに不穏な土地へ入った。

駐屯地に着くたびに、誰かがあなたに挨拶に来た。総督の娘のことを恭しく口にし、クラウディウス家のマルクスが先で万事整えている、と言った。

彼らの口から、あなたは何度も皇帝トラヤヌスの名を聞いた。

皇帝は東方を征服された!元老院は、ローマに皇帝の記念柱を建てると決議した!石にはすべての征服が刻まれる!ローマの偉大さは千代万代に輝くのだ!

そのときには、浮き彫りの記念柱が大地からそびえ立ち、天まで届いて、後の世の人々に仰ぎ見られるのだろう。

それは永遠に変わらない石になるのだろうか。あなたは想像せずにいられなかった。あの巨大な柱は長い歳月を越えて、人類がたどり着ける時間の果てまで残るのだろうか。ウェスタ神殿の聖火のように——そう聞いてみたかった。

けれどクラウディアはそばにおらず、答えてくれる人はいなかった。

想像の外で、あなたはローマの偉業とは違う石を見た。

焼け落ちた家の壁の下の礎石。古い墓のそばに倒れた境界石。兵士たちが隠された穀物を探してこじ開けた石臼。

ある村の外で、土地の人々が何人か、将校の前にひざまずいていた。税は払う、穀物も財物も差し出す、けれど自分たちの小さな神殿は壊したくない、子どもにラテン語の祈りを習わせたくない、と。

将校は通訳の言葉を聞き終えると、手を振って祠を引き倒せと命じた。石像が地面に落ちて、ふたつに割れた。

ひとりの老女が泣き叫びながら飛びついた。爪が土埃をつかみ、指の間は黒い泥だらけになった。兵士たちが彼女を引きずっていった。

あなたは垂れ幕を下ろし、目を閉じた。泣き声と、懇願と、鞭と、鉄の鎖の音がすっかり消えるまで。

けれどその日は、どうしても眠れなかった。

一行は塩の荒れ地のそばで止まっていた。夕日が沈むと、地面は橙がかった赤に光った。遠くでは捕虜の列が西へ歩いていて、鎖の音が途切れ途切れに、荷を運ぶ獣の鈴の音と混じり合っていた。

スキュラがあなたのうしろに立っていた。

あなたは彼女に聞いた。「あの人たちにも、自分たちの神がいるの?」

「いる」

「自分たちの言葉も?」

「ある」

「自分たちの家も……」

スキュラは遠くを見ていて、その問いには答えなかった。答える必要はなかった。

あなたは不意に、ローマ人がよく口にする言葉を思い出した。戦争は自らを糧として続いていく(Bellum se ipsum alet)。以前は戦場での判断を示す文句のように聞こえた。短く、力強く、すばやく考える助けになる。

けれどいま、その言葉には顔があり、牙があった。

戦争は穀倉を食べ、子どもを食べ、道の両側の村を食べる。食べ尽くしたあとは、残った人間を売りに出し、次の戦争の軍資金に換える。

皇帝トラヤヌスの遠征は、まだ終わっていなかった。もしかしたら、とあなたは思った。どんな遠征も、自分から終わることはないのかもしれない。

やがて……自分自身を食べてしまうまでは。

夜、使者が前方からの報告を届けた。新しい属州の情勢は不安定で、ローマの役人が襲われ、小さなローマの駐屯部隊が行方不明になっているという。

「新しい属州にはよくある揺り戻しですよ」と護衛隊長が言った。「マルクス軍団長が迎えに来てくだされば、すべて落ち着きます」

暗闇のなかで、一行は黙り込み、誰も答えなかった。

あなたは手を伸ばして地図を閉じた。そこの蠟はまだ乾ききっておらず、指の腹に少し赤い色を残した。拭っても取れず、その色が皮膚の筋にそってさらに深く沈んでいくのを、ただ見ているしかなかった。

夜明け前に、また前方から使者が着いた。

書記が封蠟を受け取り、その顔が松明の下でゆっくりと白くなった。

書かれていたのは、ふた言だけだった。

メソポタミア一帯の反乱は拡大。

マルクス軍団長の駐屯地へ通じる本道は、すでに断たれた。

3.2 乱れた軍旗

それからは、知らせが山のように押し寄せてきた。

東方のアッシリア属州で反乱が起き、その地を守っていたローマの将が殺され、いくつかの宿駅が陥落し、道が断たれ、補給の荷車が奪われた。

続いて、あなたたちが向かうメソポタミア属州でも、反乱軍が動いていた。本道は断たれ、迂回する小道には危険が満ちている。次の水場がまだローマ人の手にあるのか、山あいに反乱軍が潜んでいないのか、誰にも保証できなかった。

一行は先へ進めず、国境近くの打ち捨てられた宿駅に足止めされた。

三日目の夕暮れ、西の道の果てに、ひとつの軍旗が現れた。

鷲の旗を掲げたローマ兵の一隊だった。元気がなく、軍団を表す旗竿の赤い布は、風に吹かれていまにも落ちそうだった。

お付きの誰かが声を張りあげた。「マルクスさまだ!」

その一言で、みんなが一瞬でほっと息をついた。奴隷たちはささやき合い、書記は慌ててトガのひだを整え、何人かの護衛は剣の柄から手を離した。ローマの軍旗は、秩序と、補給と、安全を意味していた。

マルクスは馬に乗って先頭を進んでいた。

彼はまだ将校の外套をまとい、胸甲は磨かれ、剣もきちんと下げていた。遠くから見れば、あの貴族席で光り輝いていた軍団長のままだった。けれど距離が縮まると、あごの無精ひげが乱れ、目がくぼんで隈が黒ずみ、外套の裾が一か所裂けて、縁に乾いた泥がついているのが見えた。

馬を下りる動作は、あいかわらず見事だった。

「アエリア」彼は礼をした。「神々のご加護だ。やっと見つけた」

あなたの護衛隊長がほとんどすぐさま言葉を継いだ。「軍団長がご一緒なら、われわれは安全です」

「この先はどうなっているの?」とあなたは聞いた。「混乱している」と彼は言った。「アッシリアの反乱がまわりのいくつもの地域を巻き込んでいる。ぼくはいま、兵を立て直すために前線から部下を連れて引いてきたところだ。きみたちを護衛して、反乱軍の勢力を避けて通る」

声は高くないが、まわりの人には十分に聞こえる声だった。

「まずローマへ戻って、総督どのと合流しよう」

言い終えるなり、お付きの者たちがわっと彼を取り囲んだ。マルクスは手を上げてみんなをなだめた。その身ぶりは、まだ事態を掌握している人間のものだった。

「あなたの兵は?」あなたはさらに聞いた。

彼は一瞬、言葉に詰まった。

「散らばって、各地の駐屯部隊と連絡をとっている。わかるだろう、辺境の道はローマとは違う。命令が伝わるのが遅いんだ」

マルクスはまた笑顔を見せた。

「心配はいらない。ここはぼくが引き受ける。明日は合流して南西へ迂回し、まずローマへ戻って元老院に報告しよう」

軍団長の段取りを、一行の人々は深く考えもせずに受け入れた。兵士たちは見張りの当番に組み込まれ、馬は編成し直され、護衛隊長はいちばんいい天幕をマルクスに譲った。焚き火には薪が足され、鍋では肉の汁が煮えた。明日の道筋を話しはじめる者がいて、ローマへ帰る話になると、その声にはいくつもの笑いさえ混じった。

マルクスは人々のあいだで、金を象嵌した銅の杯に酒を注ぎ、ひとりずつ杯を上げてみせていた。

けれどあなたは、ずっとあの軍旗を見ていた。

それは野営地の真ん中に立てられていて、見張る旗手もいなかった。旗には埃がついていたが、飛び散った血の跡はなく、火に焙られた匂いもなかった。

スキュラはあなたの天幕の外に座り、静かに剣を研いでいた。

彼女は一日じゅう何も話さず、その目は一度もマルクスから離れなかった。

あなたが隣まで来て、ようやく彼女はあなたのほうへ視線を移した。

「何が見えたの?」とあなたは聞いた。

彼女は布で刃を拭きながら、低い声で言った。

「あの男からは、血の匂いがしない」

あなたは眉をひそめた。

「あいつの兵にはある」とスキュラは言った。「でも、あいつにはない」

あなたは闘技場でのあの日を思い出した。貴族席で、彼女がマルクスに言った言葉。本当に人を殺したこともない。

「後ろで指揮をとっていたのかもしれないわ」

スキュラは反論しなかった。立ちあがって、野営地の天幕のあいだに視線を走らせた。

マルクスは書記と話していた。姿勢は正しく、手には杯を持っている。けれど書記のほうは見ていなかった。ときおり焚き火の光を越えて、スキュラのいる場所を見ている。

一度。

二度。

三度目には、あなたにも見えた。

それは貴族が奴隷を見る傲慢なまなざしでも、将校が護衛の力量を値踏みする目でもなかった。何かを警戒している目に近かった。

夜風が吹き、あなたの背中に冷たい汗が浮いた。

「あの人、あなたを見ている」とあなたは言った。

「知ってる」

「どうして?」

スキュラは答えず、ただ刃を拭き続けた。

あなたはしばらく黙っていた。遠くで兵士が咳をしていた。一度、また一度と、押さえきれない疲れのように。

嫌な予感がうごめきはじめた。もしマルクスが撤退してきたのではなく、戦場から逃げてきたのだとしたら、話はまるで違ってくる。

トラヤヌスは戦争を尊ぶ皇帝で、みずから兵を率いて領土を征服してきた戦略家だ。手に入れたばかりの新しい属州で退くことがあれば、どんなものであれ皇帝の怒りに火をつける……

もしマルクスが本当に脱走兵なら、ローマに戻れば十分の一刑に処される。

十人のうちひとりをくじで選び、残りの九人の手で死刑を執行する。それが規律であり、この国の防壁なのだ(Disciplina praesidium civitatis)。

それが、彼があなたたちを「引き受け」なければならない理由なのだろうか。

その考えは氷の塊のように、あなたを凍りつかせた。

焚き火の向こうを見ると、マルクスは何か軽い笑い話でもしているように、低い声で笑っていた。そばの何人かが調子を合わせ、しきりに杯を上げていたが、マルクスの杯の酒はほとんど減っていなかった。

夜が更けると、野営地はようやく静かになった。

天幕のなかで、スキュラがあなたを見た。

「ここを出るべきだ」と彼女は言った。

「どこへ?」

彼女は答えなかった。

ローマまではまだ距離があり、外の情勢はあいかわらず混乱していた。

「しばらくはマルクスと一緒に行くわ」とあなたは言った。「一時しのぎよ」

スキュラはわずかに頭を下げた。

「ローマの支配地に入ったら、すぐに彼らと別れる」とあなたは続けた。「管理人に、人数と日付と道筋を書き留めさせる。あの人に何か問題があるなら、元老院に報告するわ」

「もし、あいつがあなたを帰さなかったら?」

スキュラは聞いた。

あなたは答えなかった。

その夜、スキュラはあなたの天幕の外で見張りをした。

何度か目を覚ますたびに、天幕の布に落ちる彼女の影が見えた。彼女は座らず、木の杭にもたれて立ったまま、短剣を手元に横たえていた。風が火の光を揺らし、その影もゆらゆらと揺れた。かつては夜の影が怖かった。今度は、恐怖を追い払ってくれるクラウディアの物語はなかったのに、その影はあなたを安心させた。

それから数日、あなたたちはマルクスと一緒に進んだ。

昼間の彼は、あいかわらず礼儀正しく、ふるまいに隙がなかった。道筋を説明し、どの村なら信用できるか、どの水場には留まらないほうがいいかを教えてくれた。お付きの者たちには穏やかで、負傷兵には寛大で、あなたには婚約者としてしかるべき気づかいを見せていた。

けれど、隠しきれない細部もあった。兵士たちは元気がなく、上の空だった。そしてマルクスは野営のたびに、水場や見張りのことより先に、うしろの道から誰かついてきていないかを尋ねるのだった。

同時に、彼はずっとスキュラを見ていた。

最初は嫌悪だと思った。あとで、そうではないとわかった。マルクスの視線はしばしばあなたを素通りしてスキュラの顔に落ち、遠慮なく彼女を眺めまわした。まるで目を物差しにして、彼女の眉や目の形を測ろうとしているかのように。

スキュラはもちろん気づいていた。けれど何も言わなかった。

夜になると、彼女は天幕の外で見張った。馬車のそばに座って刃を研いでいるときもあれば、野営地をひとまわりするときもあった。

四日目の夜、マルクスから知らせが届いた。夜が明けたら南の小道へ向きを変え、反乱軍に断たれた本道を避ける、と。

書記はそれでいいと思い、護衛たちもうなずいた。けれど実際には、その道のほうが危険で、遠回りで、ローマが押さえている宿駅からも遠かった。

スキュラは天幕の外に立って、そのすべてを聞いていた。

あなたが外へ出ると、彼女はマルクスの天幕をじっと見ていた。火の光が天幕の布越しに透け、なかで揺れる何人かのぼやけた人影を映している。マルクスはひどく声を落としていたが、ときおりいくつかの言葉が聞こえた。「証人」「総督の娘」「北の女」。

あなたは足をとめた。

スキュラがあなたの前に腕を差し出した。

「行くな」

その腕はあなたに触れず、ただ宙に横たわっていた。月の光が彼女の傷跡を光らせていた。

「聞こえたの?」とあなたは聞いた。

「一部だけ」

「あの人、何をするつもりなの?」

スキュラは答えなかった。あなたを見るその目には、闘技場での冷たい硬さも、中庭で誓ったときの静けさもなかった。

そこにはもっと重い、ぞっとするような何かがあった。沈黙の下に隠されて。

「今夜は、わたしの目の届かないところへ行かないで」と彼女は言った。

3.3 都の手前の夜

その夜、丘の斜面からはローマのほうの灯りが見えた。

平原と、低い丘と、夜霧と、まだ眠らない野営地を隔てて、消えかけの炭火のような、かすかな灯りがいくつか。

一行はローマの管轄地まで、あと一日の道のりだった。前方の宿駅を越えれば、ローマの強大な秩序に守られ、一族の出迎えもある。

だからこそ、ローマで起きてはならない災いがもしあるのなら、これが最後の機会だった。

あなたは眠らなかった。

天幕のなかで、スキュラがあなたの向かいに座っていた。

剣を膝の上に横たえ、片手を鞘にかけ、もう片方の手を火のそばに置いている。火の光が彼女の海の灰色の目を照らし、揺れる輝きがきらめく潮のようだった。

聞きたいことはたくさんあった。

ローマからここまで、どうして毎晩あなたの天幕の外で見張ってくれるのか。どうしてクラウディアと一度話しただけで、あなたの護衛を引き受けたのか。どうしてマルクスに見られたとき、災いの影を見分けたような顔をしたのか。

それから、いちばん最初のあの言葉。あなたの目は、わたしが知っている人に似ている。

けれどそれらの言葉は喉まで来ても、ひとつも口から出てこなかった。あなたはただ、ワインを割った水の杯を手に、少しずつ飲んでいた。喉につかえた言葉を流し込めればいいと願いながら。

スキュラは焚き火を見ていた。声にならなかったそれらの音を聞きとったかのように、ゆっくりと口を開いた。「ずっと昔、北海に一艘の船があった」

あなたの手が、長衣の縁の上でとまった。

「船には女がふたりいた」と彼女は言った。「ふたりには自分たちの名前があって、自分たちの言葉があって、自分たちの神がいた——ネハレンニア。ひとりは風向きと潮の流れを読むのがうまくて、ひとりは網を編んで魚を獲って帆を繕うのがうまかった。ふたりは一艘の船を分け合っていた。冬は南へ下り、夏は北へ帰った」

彼女は一語一語、とてもゆっくりと話した。

「毎年冬になると、ふたりは南へ品物を運んできた。アザラシの皮と粗い羊毛をまとって、髪は骨の針や紐で束ねていた。風が肌を乾かし、日が顔を赤く焼き、綱が手のひらを裂いた。人々はふたりを蛮人と呼んだ。でも、蛮人が持ってくるのはいいものばかりだった……アザラシの皮、鯨ひげ、琥珀、粗い羊毛、獣脂、海の獣の長い牙」

あなたは彼女を見つめた。

「それから竜涎香」火が彼女の目に映っていた。彼女は続けた。「あれは大きな獣の腹から掘り出すものなんだ。引きあげたばかりのときは、ひどく生臭い。でも陶の壺に入れて、布でくるんで、蠟を引いて、ローマの貴婦人や神官や皇帝の手に届けると、みんな喜ぶ。額に塗るだけじゃなく、自分たちの神々にも捧げる」

彼女の口の端が動いた。けれど笑みはなかった。

「北海の女たちは、それがおかしかった」

焚き火のなかで炭がひとつ崩れ、かすかに割れる音がした。

「でもそのあと、鉄の鎖が首に巻きつくと、ふたりはもう笑わなくなった」

あなたは目を上げた。

スキュラは話し続けた。「北から南まで、人を捕まえる者がいて、人を売る者がいて、ローマの銀貨でふたりを港から港へ運んでいった。ふたりはあらゆる手を尽くして、ずっと一緒にいようとした。ずっと、ずっと……ローマに着いたとき、ふたりはまだ一緒だった。でも、蛮人の名前はなくしていた」

彼女は手を上げ、自分の手首の、ひと巡りの傷跡に触れた。

「ふたりは、アマゾニアとアキリアになった」

あなたの手が長衣の布をつかんだ。

「ふたりは、わたしの母だ」

スキュラは言った。

あなたは何年も前のウェスタ祭を思い出した。熱と血の匂いを放っていた、あの砂を。日の光のなかに立っていたふたりの女。肩に傷を負い、歯に血をにじませて。髪には赤い紐が編み込まれていた。もしかしたら、互いのために自分の手で編んだものだったのかもしれない。

あの日が、ふたりの最後の戦いだった。ローマの観客席から、花と硬貨がいっしょに降ってきた。

あなたは何も言わなかった。

スキュラも話すのをやめなかった。

「知らせを聞いたとき、わたしはもうローマの外まで来ていた。その年のウェスタ祭で、ふたりが同じ試合に出るという話だった。女剣闘士は少ないし、ローマ人はそういうサーカスが好きだから。北海の女ふたりが、物語みたいに自分たちのために死ぬのを見たがっていた」

彼女の語りが少しゆっくりになった。

「わたしは闘技場に入れなかった。金がなかった。たくさんの人を呼びとめたけれど、誰も足をとめなかった。そのうち……巫女の馬車が見えた」

あなたは目を上げた。

火の光が、彼女の目のなかでひとつ揺れた。

「わたしは道にひざまずいた」と彼女は言った。「あなたたちの言葉で、母たちを助けてくれと頼んだ」

クラウディアの白い長衣が、下ろされた垂れ幕が、通りの両側に下がっていく民衆が、頭のなかをよぎった。北の子どもが土埃のなかにひざまずき、ひとつの手の慈悲を求めて見上げている姿を、あなたは思い浮かべた。

その手が上を向けば、彼女の母たちは命を拾えた。

「引き受けてくれたの?」とあなたは聞いた。

スキュラは長いあいだ答えなかった。

風が天幕に吹き込み、灯りが片側に傾いた。

あなたは目を閉じた。答えはわかっていた。別の道筋からではあったけれど。

その瞬間、あなたは子どものころに戻ったようだった。闘技場の砂の上に立つふたりの女を見ていた。ふたりは顔を上げて観客席を見まわし、笑っていた。何年もたって、あなたはようやく理解した。あの笑みは血に飢えたローマ人に向けたものではなかった。観客席のどこかにいるかもしれない、ひとりの子どもに向けたものだったのだ。

「そのあと、ひとりのローマの貴婦人が、巫女の馬車の前からわたしを連れていった」スキュラはまだ話していた。「水を飲ませて、パンをくれて、服をくれて、人に言ってわたしの蚤を洗い落とさせた。わたしの名前を聞いたけれど、わたしは言わなかった。それでもぶたれなかった……あの人は、長いあいだ、わたしの目を見ていた」

焚き火のなかで、最後の細い枝が折れた。

「あのころ、わたしはあの人を信じていなかった。ローマ人は奴隷を捕まえるだけだと思っていた」とスキュラは言った。「ただ帰りたかった。逃げ出せさえすれば、まだふたりを助けられると思っていた。その道には山賊がいた。やつらが話しているのが聞こえた。通りがかりの者を襲う相談をしていた。だから夜のうちに、わざと、あの貴婦人の行き先をやつらに教えた……」

あなたの杯が、指のあいだから滑り落ちた。

銅の杯がフェルトの敷物の上に落ちて、鈍い音を立てた。残っていた水がしみ広がり、フェルトの色がみるみる暗くなった。

スキュラはあなたを見なかった。

「やつらは来た」と彼女は言った。「護衛を殺して、馬車を奪って、それから……」

耳に残ったのは、炭がはぜるかすかな音だけになった。

その貴婦人が誰なのか、あなたにはわかった。

この道中のあらゆる謎が、叔母の間が、スキュラが初めてあなたに会ったときの唐突な言葉が、この瞬間、すべてかみ合った。

スキュラがようやく顔を上げ、あなたを見て、言った。

「あのとき、あの人があなたの母親だとは知らなかった」

あなたはそこに座ったまま、動かず、答えなかった。血に近い鉄の味が喉からこみあげてくる。父の書斎で何年も誰も口にしなかったあの山道を、家の棺のそばの乳香を、幼い自分の、黒い布に包まれた肩を思い出した。

多くの人が、あれは不運な襲撃だったと言った。あの道に突然山賊が現れ、道は険しく逃げ場がなく、護衛も手が足りなかった。思いがけないことがいくつも重なって、あの事故になったのだと。

けれど「事故」という言葉は、いつだって多くの真実を埋めてしまえる。

「次に巫女に会ったとき」と彼女は言った。「あの人はわたしに気づいた」

あなたは顔を上げた。

「クラウディア?」

「あのとき馬車の前にひざまずいた子どもだと、気づいた」とスキュラは言った。「わたしがあなたの母親と一緒にいたことを知っていて、あの襲撃のことを聞いてきた。わたしは事故だったと言った。山賊に引きずっていかれて、そのあと売られたのだと」

「ほかに何か言われた?」

「昔の償いをしたい、何が欲しいか、と」

「何が欲しいと言ったの?」

「自由」

スキュラの手は剣の鞘に置かれ、身じろぎもしなかった。

「あの人は約束した」とスキュラは言った。「ローマの都を出て、あなたを属州まで送り届けさえすれば、わたしは自由になれる。契約書は焼かれ、名前は奴隷の名簿から消される。ウェスタの火にかけて誓った」

あなたは深く息を吸い、しばらく間を置いた。

「だから、わたしを護ってくれたのね。そのために」

「最初は、そうだった」

彼女は目を伏せ、膝の上の剣を見た。

「ローマを出てしまえば、自由はもうすぐそこだった。国境は混乱している。逃げるのは難しくない。馬も、刃物も、水袋も、手に入れられた」

「じゃあ、どうして行かなかったの?」

彼女は長いあいだ、とても長いあいだ黙っていた。夜風が天幕の入口の垂れ幕を吹きあげ、夜をなかへ送り込んでくるまで。

「あなたの目が、あなたの母親に似ていたから」

その一言のあと、彼女はもう何も話さなかった。

3.4 偽りの賊と真の刃

その夜、マルクスが動いた。

あとになって知ったことだ。夜の見まわりに紛れて、彼は腹心の一隊に軍服を脱がせた。盾と剣と兜を荷車の下に隠させ、粗い麻の外套をはおらせ、黒い布で顔を覆わせ、短剣と斧を持たせたのだ。

彼らの計画では、罪はあとで山賊に着せる。天幕は火で焼き払い、書類は混乱のなかで失われる。

そしてあなた——元老院議員の娘で、未来の総督の血縁で、彼の無様な撤退を見た人間——は、誰もが納得する辺境の襲撃のなかで死ぬことになっていた。

生き残った副官が、のちにさらに詳しいことを白状した。

マルクスの筋書きでは、彼は剣を抜いて戻ってくる。

残った者を救い、一行をまとめ、生き残りを護衛してローマへ帰る。

元老院の前で、彼は語るだろう。反乱が四方で起こり、山賊が混乱に乗じてのさばっていたと。自分がどれほど血まみれで戦ったか、どうやって婚約者を失ったか、どれほどの悲しみと最後の栄光を抱いてローマへ帰ってきたかを。

彼は自分だけの戦いを、あまりにも欲しがっていた。だから戦争を、天幕と、夜の闇と、ひとりの女の死のなかに設計したのだ。

そのために、彼はわざわざあなたの天幕を野営地の端へ移させていた。

理由は、そこのほうが退きやすいから。夜に何か起きても、護衛がすぐにあなたを乱戦から連れ出せるから。マルクスの口ぶりには非の打ちどころがなかった。護衛隊長も聞いて、行き届いた配慮だと思った。

しくじりは、まさにそこにあった。

彼は考えていなかった。端こそ、スキュラがいちばんよく知っている場所だということを。

闇に近く、騒ぎからは遠い。人の足が枯れ草を踏むかすかな音でさえ、彼女には十分はっきり聞こえた。

夜になると、彼女はあなたに上着を脱がせ、天幕の隅へ押しやった。箱と毛布を積みあげ、厚い毛布をあなたにかぶせて、細い隙間だけを残した。

「出てこないで」と彼女は言った。

彼女があなたの長衣を手に取るのを、あなたは見ていた。

「何をするの?」

彼女は答えず、そのままあなたの服を身につけた。

布は彼女の肩に合っていなかった。貴族の娘の長衣は彼女には滑稽なほど似合わず、帯もきつく締めすぎていた。うつむいて整える手つきはぎこちなかったが、迷いはなかった。

頭布で顔を半分隠し、あなたの銀の留め金を胸につけた。

薄暗い火の光のなかで、彼女は見間違えられるに足る、もうひとりのあなたになった。

あなたは荷物のあいだに隠れ、毛布に押さえつけられて、隙間から外の火の光を見、夜の野営地の物音を聞いていた。

夜半を過ぎたころ、まず馬が怯えた。

続いて短い叫び声。誰かが口をふさがれ、声を切り取られたような。

それから武器のぶつかる音と入り乱れた悲鳴が四方から上がり、誰かが「山賊だ!」と叫びはじめた。

毛布の下で押さえていた手の指先が、落ちていた留め針に触れた。針先が手のひらに刺さったが、緊張のあまり手を離すのも忘れていた。

天幕の外で誰かが倒れた。鎧が石にぶつかって、うつろな音を立てた。重く、のろい音だった。不意に、護衛隊長の声が聞こえた。外でマルクスの名を叫んでいる。

「軍団長!こちらです!」

彼は最後までマルクスを信じていた。軍団長はあなたを救いに来てくれた人なのだと。

けれど次の瞬間、その叫びがぷつりと途切れた。

天幕の垂れ幕が持ちあげられた。

マルクスが入ってきた。

剣から血がしたたっていた。血は刃を伝って切っ先まで滑り、敷物の上に落ちた。顔には埃がつき、息は荒かった。それは戦場で血路を切り開いた者の勇ましさではなかった。生涯でいちばん難しいことをようやくやり終えて、すぐさま、手の震えがあまりにあからさまで見苦しかったことを悔やんでいる人間の顔だった。

あとで知った。彼は護衛隊長を殺したのだ。

それが、彼が生涯で自分の手にかけた、ただひとりの人間だった。

誰よりもマルクスを信じ、「軍団長がわれわれをローマへ連れて帰ってくださる」とまわりに言い続けていたその人は、うしろから脇腹を刺され、心臓を貫かれた。

彼は火鉢のそばの、あなたの上着をはおった人影を見た。

「アエリア」

スキュラは彼に背を向けたまま、すぐには振り返らなかった。

マルクスが一歩前に出た。

「残念だよ」と彼は言った。「もっときれいに片づけさせるつもりだったんだが」

スキュラはまだ何も言わなかった。

「きみは見てはいけないものを見た」彼の声から宴の席での落ち着きが失われはじめ、苛立ちに変わっていった。「きみの父上に必要なのは英雄だ。疑問を抱えてローマに帰ってくる娘じゃない。きみが死んだら、ぼくがきみの代わりに一行を連れて帰る。父上には、きみはとても勇敢だったと伝えるよ」

そう言いながら、彼は剣を振りあげた。

その瞬間、あなたは毛布をはねのけそうになった。けれどこらえた。歯を食いしばると、口のなかに血の味が広がった。マルクスが剣を突き出し、スキュラが身をひねってかわすのが見えた。

あなたの長衣が剣先に切り裂かれた。次の瞬間、スキュラは何かをまっすぐ投げつけ、マルクスの視界をふさいだ。マルクスはうろたえた。そのわずかな隙を、スキュラはつかんだ。

彼女は逆手でマルクスの手首の骨を押さえ込み、膝を腹に叩き込んだ。マルクスはよろめいて後ずさり、剣が手から抜けて地面に落ちた。

争う音を聞いて、覆面の男がひとり飛び込んできた。何が起きているのか見きわめる前に、スキュラの短い刃がその首筋を切り裂いた。

男が倒れるとき、天幕の布が裂けた。

マルクスはその隙に、落とした剣を拾おうともがいた。けれどその手首はもうスキュラに踏みつけられていて、骨が乾いた音を立てた。

「縛りなさい」あなたはこらえきれずに毛布をはねのけ、箱につかまって立ちあがり、大声で命じた。「ローマへ連れて帰る。軍法で裁かせるのよ」

スキュラの短い刃がマルクスの喉もとに押し当てられ、刃の下の皮膚からはもう血がにじんでいた。

マルクスは仰向けに倒れたまま、胸を激しく上下させていた。彼はあなたを一瞥し、それから火の光に照らされたスキュラの顔を見た。

頭布は争いのなかでずり落ち、火の光が彼女の海の灰色の目に落ちていた。

マルクスの顔に、異様な興奮がひらめいた。

「わかったぞ……」彼は不意に声を立てて笑い、血の泡をスキュラの顔に吐きかけた。「この卑しい奴隷め、北海の雑種が!」

スキュラの短剣がわずかに動いた。彼を黙らせようとするかのように。

「スキュラ」あなたは手を上げた。「やめて」

マルクスは狂気に陥ったかのように、声を一気に張りあげた。

「おまえの秘密はわかったぞ!雑種め、おまえ、おまえたちは——」

言葉は最後まで続かなかった。短い刃のほうが速かった。

スキュラが、彼の喉を切り裂いた。

あなたはそこに立っていた。手はまだ上げたままだった。

血があなたの手に、スキュラの顔に噴きかかり、天幕のなかのあらゆるところに飛び散った。

マルクスは両手で首をかきむしり、指のあいだは赤く染まった。しばらくもがいたあと、その手はだらりと落ちた。

あなたはその場に立ち尽くしていた。

さっき下した命令の余韻が、まだ残っていた。縛りなさい。ローマへ連れて帰る。裁かせる。

そしてスキュラは、それに背いた。

彼女はゆっくりと身を起こした。手の短い刃は地面を指し、血が、糸の切れた珊瑚の玉のようにしたたり落ちていた。

彼女は弁解もせず、赦しを乞いもしなかった。あなたの長衣が彼女の肩にかかり、裂け目から彼女自身の鎧がのぞいていた。ふたつの身分が、同じ一太刀で切り開かれたかのように。

マルクスの死体が、あなたの天幕のなかに横たわっていた。そして遠くで、ローマのほうの灯りが少しずつ目立たなくなっていった。

夜が、明けようとしていた。

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