The Song of Inanna イナンナの歌

小説

『女剣闘士の死』第二幕:承——檻のなかの獣と、果てのない海

オリジナル小説『女剣闘士の死』第二幕。新しい属州のために取り決められた婚約、「調べておく」と約束する巫女の叔母、そして剣闘士養成所で買い取った、どんな問いにも問いで返す女剣闘士——あなたの海は、どこにある?

2.1 書物の外の海

あとになって知った。マルクスがたまたま闘技場に足を運んでいたわけではないことを。

彼は、あの場所を愛していた。

貴族の付き合いでしかたなく好むのでもなく、皇帝や元老院議員のお供をするために調子を合わせて好むのでもない。名の知れた剣闘士ひとりひとりの戦い方を知り、蛮族ひとりひとりの癖を知っていた。

そういう話をするとき、彼の目には明るい辛抱強さがあった。

パンとサーカスがローマを養っている、と人は言う。彼はまさに、よく養われた類の人間だった。

あの日のあと、彼はスキュラの話を何度も持ち出した。珍しい異国の短剣について語るような、弾んだ口調で。

「よかったら」ある宴のあとで、彼はあなたに言った。「剣闘士養成所に連れていってあげるよ。闘技場の地下よりずっと面白い。彼らがどう稽古して、どう食べて、どうやって死ぬ前に人を沸かせることを覚えるのか、見られるから」

最後の一言を言うときも、彼は笑みを浮かべていた。

夜風が吹き込んで、水気と湿った土の匂いを運んでくる。宴の灯りが彼の肩の深紅の外套を照らし、あなたの手の銀の杯で揺れる酒を照らしていた。

あなたは杯を低い卓に戻した。

「行かないわ」

マルクスは少し間を置き、すぐに笑顔を取り戻した。

「見るだけだよ。怖がることはない」

「怖いわけじゃないの」

そう言い終えると、あなたは彼に一礼した。作法には一分の隙もなかった。

「もちろん」と彼は言った。「あそこは、たしかにあなた向きの場所じゃない」

彼はそれを見事に言ってのけた。一度も断られたことがないかのように。

あのころの彼は、まだあなたの父に気に入られ、叔母に気に入られ、誰の目にも寛大で節度があり、未来の姻戚にふさわしく見える必要があった。

けれど家に帰っても、マルクスの言葉は胸に残っていた。

スキュラ。北海から来た女剣闘士。

その名が頭のなかを旋回していた。

夕刻の書斎は蒸し暑かった。窓は半分開いている。あなたは地図を広げた。

ローマの地図は、世界の真ん中の海を囲んで描かれている。道も、属州も、軍営も、徴税区もはっきりと記された、文明の海。けれどさらに北、荒々しい海のあたりまで行くと、そこにはもう霧と、潮と、寒さと、空白しかない。元老院の知る秩序もなく、ローマのまっすぐな道もない。ただいくつかの簡単な言葉が記されているだけだった。

塩の霧、沼地、蛮族、琥珀、毛皮、奴隷、嵐。

けれど、スキュラが獅子の目を覆ったあの手を説明できる言葉は、ひとつもなかった。

あなたの指先が、その空白の上でとまった。

ネハレンニア。

あなたはその名を蠟板に書いた。

窓の外で太鼓が鳴っていた。ウェスタ祭の行列の稽古をしているのだ。中庭では奴隷たちが銅の盆を運び、水の音が石の壁に当たっていた。もうすぐローマは、聖火と、花輪と、オリーブと、麦の束と、清らかな塩の菓子で身を飾るだろう。

クラウディアがやってきたのは、そのときだった。

彼女が門をくぐり、白い長衣が石の床をかすめると、家の奴隷たちはいっせいに下がって頭を垂れた。

ほかの人々にとって、彼女は首席巫女さまだった。十歳のときからウェスタ神殿の聖火を守り、三十年が過ぎて、二年前に首席巫女に昇った。彼女が生きているかぎり、ローマの繁栄を担うあの聖火は決して消えない——人々はそう信じていた。

けれどあなたにとって、彼女は……

「クラウディア叔母さま」

あなたは親しみをこめて呼んだ。

彼女は広げられた地図を見て、それから蠟板の上のあの名を見た。

「北のことを調べているのね」

「何もわからないの」とあなたは言った。

「ローマ人が遠い土地のことを書くときは、たいてい自分たちに役立つ部分しか書かないものよ」

そう言いながら、彼女はあなたの隣に腰を下ろした。気楽に、くつろいだ様子で。

普段の彼女は、一挙手一投足が誰かに見られているかのように、端正さと厳かさを保たなければならなかった。けれど今夜は灯りが低く垂れ、窓の外の人声は遠く、首席巫女という身分は夜の色に溶けてしまったようで、あとには、あなたのよく知る、そしてよく知らない叔母だけが残っていた。

あなたは子どものころのように、彼女に身を寄せた。

母が死んでから、屋敷の夜はいつも長すぎた。夜風は泣き叫び、水の音は恐ろしく、壁の影は盗人がこっそり覗いているように見えた。あなたは眠ろうとせず、乳母が抱き、奴隷があやし、父はときどき外から帰ってきて、酒と埃の匂いのする衣の裾のまましばらく座り、また出ていった。

そのころ、クラウディア叔母が来て、あなたの面倒をみてくれた。

彼女はウェスタの巫女だった。本来なら、私的な肉親にそれほど多くの夜を割くべきではなかった。神殿が彼女を必要とし、ローマが彼女を必要とし、聖火が彼女を必要としていた。

けれど彼女とあなたの母の生まれた一族は、十分に古く、十分に力があった。財産、護民官、神官たちとのつながり、元老院の議席、代々の血筋が広い網を織りあげていて、夜ごとあなたを見守ることを許していた。

彼女はあなたの寝台のそばに座っていた。灯りのなかの白い衣は、ひとひらの静かな月の光のようだった。アイネイアスが燃えるトロイアをどう逃れたか、狼がどう双子に乳をやったか、ウェスタの聖火が消えたらローマ人の都がどう滅びるか……彼女はそんな話をしてくれた。

そしていまも、彼女はあなたに物語を聞かせていた。

「若いころ、港であの北の人たちを見たことがあるの」

彼女は言った。

「彼らは瀝青を塗った黒い船に乗って海から来た。肌は風で赤くなって、髪は骨の針や銅の輪や、自分で編んだ紐で束ねていた。アザラシの皮や粗い羊毛をまとって、潮と脂の匂いをさせていたわ。持ってくるのは、アザラシの皮、鯨ひげ、琥珀、粗い羊毛、それに大きな海の獣の長い牙」

あなたが見つめていると、彼女は続けた。「それから竜涎香。灰がかった白で、陶の壺に入れて、外を布でくるんで、布に蠟を引いてあるの。祭壇の前で人々が使う香油は、あれから作られているのよ」

あなたは耳を傾けながら、地図の北の端の空白に目をやった。

書物にはこういうことは書かれていなかった。瀝青で継ぎ目をふさいだ黒い船も、アザラシの皮にこびりついた硬い塩の霜も、船乗りの衣から抜けない魚の匂いも。

「彼らはネハレンニアを信じているの?」とあなたは聞いた。

「信じている人もいるわ」とクラウディアは言った。「海の女神よ」

あなたは闘技場の地下で聞いた、あのぎこちないラテン語を思い出した。

陸で死んだものにも、帰る道がいる。

あなたはいつものように、闘技場で見たことを彼女に話した。

「あの女剣闘士が獅子の目を覆ったのは、その魂を送り出すためだったの。彼女が帰るべきだと思う場所へ——海へ、そして女神の腕のなかへ」

あの獅子はアフリカから来て、ローマの砂の上で死んだ。

一度も北海を見たことはなかった。ローマ人はその血肉を神々に捧げたけれど、スキュラはその魂を、やはり自分の海の女神のもとへ送ったのだ。

ふたつの秩序が、目の前で一瞬触れ合った。どちらも、相手に譲ろうとはしなかった。

「それから」あなたは小さな声で言った。「わたしの目が、彼女の知っている人に似ているって」

クラウディアの呼吸が一瞬とまった。長い間ではなかった。ずっと彼女を見ていなければ、ほとんど気づかなかっただろう。

「ほかに何か言っていた?」とクラウディアが聞いた。

「いいえ。マルクスが戻ってきたから」

あなたは地下でのことを話した。マルクスの愛想のよさ、女剣闘士の沈黙。クラウディアは聞いていたが、顔にはっきりした変化はなかった。

あなたが話し終えるのを待って、彼女はようやく口を開いた。

「多くの人がそう言ってきたわね」と彼女は言った。「あなたはお母さまに似ているって」

「彼女は母に会ったことがあるの?」

「あなたのお母さまは、生前、何人もの奴隷を助けたの」と彼女は言った。「東から来た人も、北から来た人もいた。市場で人を買って帰るのは嫌いだったけれど、売り買いのあとで口を出すのはいつものことだった。身代金を払ってやったり、管理人に言って田舎の荘園へ移してやったり。そのために元老院議員と何度か言い争ったことさえあったわ」

あなたは彼女を見た。灯りがちらつき、灰色の目が光のなかで、ごく淡い青緑を帯びた。

「スキュラが、母に会ったことがあるかもしれないの?」

「あるかもしれない」とクラウディアは言った。「あるいは、誰かから聞いたのかもしれない。奴隷たちのあいだでは、いろいろなことが語り伝えられるものよ。ひと組の目を覚えていても、不思議はないわ」

「聞いただけ、という感じじゃなかった」

クラウディアが目を上げた。

「生きのびるために、剣闘士は檻のなかでいろいろな言い回しを覚えるの。誰が大事な人間なのか、ちゃんとわかっている」

あなたは答えなかった。

彼女もそれ以上、忘れなさいとは言わなかった。ただ蠟板を手に取り、ちらりと見た。

「調べておく」

その言葉は、彼女の口から出ると、いつも重みを持った。

幼いあなたが熱を出したときも、彼女はそう言った。初めて一族の宴に連れていかれ、扉の前で入るのをいやがったときも、そう言った。そしてそのあと、ものごとはいつも彼女に持ち去られ、あなたの見えないところへしまわれた。翌朝目覚めると、水は新しく、衣はしわひとつなく、去るべき人は去り、黙るべき人は黙っていた。

あなたはうなずいた。

その瞬間、書斎はほとんど静まり返った。窓の外の祭りの前のざわめきが、壁越しにかすかに聞こえてくる。

クラウディアが立ちあがった。

帰るのだと思って、あなたも立ちあがった。けれど彼女は扉へは向かわず、奥の部屋へ歩いていった。壁際に一族の祭壇があり、あなたの母の小さな像がそこに置かれている。

クラウディアは祭壇の前で足をとめた。

彼女はその小さな像を、ふだんの礼拝よりも少し長く見つめていた。

「アエリア」背を向けたまま、彼女はようやく口を開いた。「あなたは、もうすぐローマを離れることになる」

2.2 都を離れる代償

数日たって、あなたはようやくクラウディアの言葉の意味を理解した。

旅に出るとか、父について属州から来たどこかの役人を訪ねるとか、そういうことだと思っていた。

少し前、皇帝トラヤヌスは東方で勝利をおさめていた。パルティア人の土地がローマの名のもとに組み入れられた。アッシリア、メソポタミア、アルメニア。ローマは三つの新しい属州を手にしたのだ。

そしてあなたの父は、メソポタミア属州の総督に任じられた。

それからというもの、さまざまな人が家を出入りするようになった。父の上着が椅子の背にかけられ、その裾には元老院から持ち帰った埃がついている。父は夜遅く帰り、朝早く出ていき、顔には疲れが貼りついていた。

その任命は栄誉であり、同時に危険でもあった。

遠い都市はまだローマに完全には服していない。だから政令より先に軍が着き、最初の鎮圧を行う。そのあとで、総督が赴任するのだ。

到着する前に、婚姻と血縁の壁を築いておかなければならなかった。

家のただひとりの子として、あなたの縁談を父が持ち出すのは、ごく自然なことだった。

ローマ第二十七軍団の軍団長、マルクス・クラウディウス。

彼のことを話す父の口調は、ふだんの世間話のようだった。

マルクスはクラウディウス家の出で、父の代が東方遠征の後期に功を立て、あなたの父とも非常に親しかった。マルクスの父、前の軍団長のことは覚えている。あなたは彼をガイウスおじさまと呼んでいた。今度は、ガイウスがすでに道を敷いていた。マルクスは新しい軍団長として赴任し、新しい属州の鎮圧と治安の維持を担うのだ。

「だから、あの男はもうすぐ出発する」と父は言った。「ローマを発つ前に、婚約を決めておかなければならない」

あなたは奥の部屋の真ん中に立って、それを最後まで聞いた。

衣掛けにはもう晩餐会で着る長衣がかけられ、金の留め針と帯がそのそばに置かれている。召使いが床にひざまずき、香油を捧げ持ったまま、顔を上げられずにいた。

「じゃあ、このあいだの闘技場も、段取りの一部だったのね?」

父は否定しなかった。

「おまえは、あの男を知っておく必要があった」

「もう知っているわ」あなたは一語一語区切って言った。「あの人の隣に座って、午前中ずっと剣闘士と獅子の話を聞いたもの」

父の目が、ようやく手紙から上がった。

「わたしは行かない」

あなたは招待状をまっすぐ押し返した。

召使いの手が震え、香油の箱が床に軽く当たった。

父は机の端に手を押しつけた。板をへし折ろうとするかのように。

「これはただの晩餐会ではない」

「知っているわ」

「おまえは知らない」

「わたしをあの人に差し出すつもりなのは知っている」あなたは遠慮なく言った。「自分には軍の後ろ盾があると、みんなに見せるために。そしてその贈り物が、アエリウス家の娘というわけね」

あなたが口にしたのは母の一族の名だった。部屋は一瞬で静まり返った。

父がとうとう立ちあがった。

「アエリア」

あなたはようやく、父の抑えきれない怒りを聞いた。

「おまえの母の一族は、わたしに多くのものを与えてくれた。わたしはそれを忘れていない。おまえにも忘れないでほしい」

「忘れていない?」あなたは父に向き直った。「あなたは母の家名と財産で元老院に入った。そして母が死んだいま、その娘を差し出そうとしている。それ以上何が欲しいの?元老院議員では足りないの?」

父の手が机を離れ、両手が握り合わされた。言いすぎたのはわかっていた。母が死んでから父は再婚せず、あなたはふたりのただひとりの子だった。

けれど、ここで引くわけにはいかなかった。

「口を慎め」父が声を張りあげた。「おまえはわたしの娘だ」

「母の娘でもあるわ」あなたは譲らなかった。

父の顔が一瞬、寂しげになった。けれどその表情はすぐに押し戻され、父はもう母のことを口にしなかった。

「着替えなさい」それは命令だった。

あなたは動かなかった。

扉の外で足音がした。

クラウディアが入ってきたとき、取り次ぎの声はなかった。あるいはあったのに、部屋の誰も聞いていなかったのかもしれない。彼女はウェスタの巫女の白い長衣をまとい、白い頭布が肩に垂れて、顔を半分隠していた。

父が彼女のほうを向いた。

「クラウディア」

彼女は父をちらりと見て、それから衣掛けの長衣を、机の上の招待状を、床にひざまずいた召使いを見た。

「マルクスには、わたしから人をやって伝えます」と彼女は言った。「アエリアは今夜、出席できません。暑気あたりです。ウェスタ神殿の医術奴隷が証言するでしょう」

父の顔色がとうとう変わった。

「クラウディア、これは小さなことではない」

「小さなことではないからこそ」クラウディアの声は高くなかった。「この子をこんな顔のまま宴席に座らせるべきではないのです。マルクスに伝えなさい。これはウェスタの首席巫女の言葉だと」

父は彼女をにらみ、何も言わなかった。

クラウディアは灯りの下に立っていた。今度は叔母としてではなく、巫女の名を持ち出して口を開いたのだ。そうなれば、元老院議員である父でさえ、この部屋で彼女を飛び越えることはできない。

しばらくして、父は目をそらした。

「今回だけだ」

クラウディアは答えなかった。

父があなたのそばを通り過ぎた。戸口の垂れ幕が父の手で持ちあがり、また落ちた。

足音が遠ざかってから、クラウディアはようやくあなたを見た。

「外套を羽織りなさい」

一瞬、あなたは反応できなかった。

「どこへ?」

「剣闘士養成所へ」彼女は背を向けた。落ち着いた、ほとんど厳しいほどの口調だった。「あなたはローマを離れる。メソポタミアへの道は、あなたが嫁ぎたくないからといって安全になりはしない。護衛が必要よ」

あなたは一瞬ぽかんとして、それから聞いた。「じゃあ、叔母さまも賛成なのね」

クラウディアは戸口で足をとめ、振り返らなかった。

「あなたが生きてあそこへたどり着かなければならない、ということには賛成よ」

あなたは不意に理解した。彼女が防いでくれたのは今夜の晩餐会、この一夜だけだった。その先の長い道まで、断ってくれたわけではなかったのだ。

ローマにはもう夜が降りていて、通りにはまだ祭りの前後の熱気が残っていた。クラウディアの馬車が脇門の外に待っていて、お付きの者が頭を垂れて彼女を乗せた。あなたはその向かいに座った。垂れ幕が下りると、通りの音は布に隔てられて、ぼんやりとくぐもった響きになった。

車輪が動きだした。

最初はふたりとも何も話さなかった。クラウディアは車の壁にもたれ、顔の半分が影に沈んでいた。

ずいぶんたってから、彼女が不意に口を開いた。「あなたのお母さまは小さいころ、あなたよりずっと隠れるのが上手だった」

あなたは目を上げた。彼女は垂れ幕の向こうのどこかを見ているようだった。

「わたしたち、よく港のほうへ行ったの。主な波止場から外れていくと、岩の洞窟がいくつかあった。満ち潮になると水が流れ込んで、引き潮になると貝殻や小魚が残るのよ。あなたのお母さまはいつもいちばん狭い隙間を見つけて潜り込んで、わたしをひとり外に残して、長いこと探させたわ」

車輪が石畳のでこぼこした継ぎ目を越え、車体が軽く揺れた。

あなたにはもう、海辺の岩の洞窟が見えるような気がした。そして、もっと見たくてたまらなくなった。彼女はいつだって、あなたの心をつかむ方法を知っていた。

「ふたりとも小さなナイフを一本ずつ持って、別々の洞窟に隠れたの」とクラウディアは言った。「岩の内側に字を刻んで、見つからずに先に刻み終えたほうが勝ち」

あなたは、彼女が前に話してくれた北の人々のことを思い出した。あの商船、塩の霧、琥珀、アザラシの皮。港はいつも彼女の話のなかに現れるのに、いつも一角しか見せてくれない。

「何を刻んだの?」

クラウディアは目を伏せた。

「ウェルギリウスの詩のときもあれば、ふたりで作った詩のときもあった。あなたのお母さまは書くのが速いのに、字がいつも片側に傾いていたわ。岩が平らじゃないんだから、わたしのせいじゃないって言っていた」

そこまで話したとき、彼女の口元にかすかな動きがあった。古い跡が顔にそっと触れて、表情のなかにひとすじの思い出を残していったように。

「その字は、まだ残っているの?」

「海水が何度も入ったから。残っているかもしれないし、とっくに塩と海藻に覆われているかもしれない」

車のなかは、また静かになった。

もっと聞きたかった。大きくなってからもまた行ったのか、母は何を書いたのか、叔母は何を書いたのか……

けれどお付きの者が垂れ幕を上げた。剣闘士養成所に着いたのだ。

クラウディアが先に降りた。

あなたも続いた。足が地面についたとき、車のなかで話し終わらなかった港のことを、岩の洞窟にまだ隠れているかもしれない刻み文字のことを、ふと思った。

そして、あの海の灰色の目のことも。

2.3 選ばれた者

剣闘士養成所の門が、あなたの背後で閉じた。

クラウディアは入ってこなかった。

彼女は外の馬車に座り、白い垂れ幕を下ろしていた。首席巫女が夜更けにみずから剣闘士養成所に入り、元老院議員の娘のために人を殺す財産を選ぶのは、ふさわしいことではない。

それでも、どうやら彼女はもう何もかも手配してくれていたらしい。門をくぐるなり、ここの主人が迎えに出てきた。

腹は分厚く、ひげはきちんと整えられ、指には緑の石をはめた指輪がひとつ。あなたの衣の生地と、お付きの者が手にした財布を見るなり、彼の顔には手慣れた恭しさがたちまち積みあがった。

「アエリアお嬢さま」と彼は言った。「クラウディアさまのお申しつけとあれば、もちろんそのとおりにいたしますとも。いい品はいくらでもございます。ゲルマニア人、ガリア人、ヌミディア人。道中で賊に出くわしても、ひと声かければ、あっという間に山道を片づけてみせますよ」

「自分で選ぶわ」とあなたは言った。

「もちろん、もちろんでございます」

彼はあなたを訓練場の端へ連れていった。

場内には十数人がいた。上半身裸で木剣を振りまわしている者、重い鎧をつけて打ち合っている者、そして足に鎖をはめて足さばきの稽古をしているふたり。鉄の輪が地面を引きずられ、途切れ途切れの音を立てていた。

主人はまず、背の高い男を指さした。

「トラキア人でございます。頑丈で、力が強く、山道に強い」

男が顔を上げた。一度折られた、曲がった鼻筋があらわになった。

主人は別の男を指さした。

「ヌミディア人。身軽で、足が速く、投げ槍が使えて、しかも小食でございます」

その男はにっと笑った。歯がとても白く、まだずいぶん若く見えた。

あなたはひとりずつ順に見ていったが、何も言わなかった。

やがて、隅にいるひとつの姿が目に入った。

火の光は彼女の顔を半分しか照らしていなかった。木の杭のそばに座り、手首に革紐を巻き、膝のわきには古い盾がひとつ。獅子に引っかかれた肩の傷はほとんどふさがり、色が黒ずんでいる。髪はうしろで束ねられ、闘技場の地下で見たときより少し短かった。無造作に切られたようだった。

スキュラだった。

叔母の言葉が耳によみがえった。あなたのお母さまは、生前、何人もの奴隷を助けたの。あの女がそれを聞いていて、ひと組の目を覚えていても、不思議はないわ。

主人があなたの視線をたどった。顔の笑みが一瞬引っかかり、すぐにもとに戻った。

「あれはいけません」と彼は言った。「めったにいない女剣闘士で、興行用なんです。それに気性が荒くて、決まりを知らない」

あなたはその言葉に構わず、まっすぐ隅へ歩いていった。

まわりの木剣の音がゆっくりになった。暗がりで誰かが笑うのが聞こえ、それから教官の棒がその笑い声を叩き落とした。

スキュラがようやく目を上げた。火の光のなかの海の灰色の目はひどく淡く、夜の引き潮のあとできらめく岩のようだった。

あなたは彼女の前で立ちどまった。

「アマゾニアとアキリアを知っている?」

背後で主人が乾いた笑い声を立てた。「お嬢さま、そんなことをお聞きになってどうなさるんです?」

スキュラは彼を見なかった。

あなたは続けて聞いた。「十二年前、ハリカルナッソスで、最後の試合。ふたりは同じ砂の上に立った。ひとりは網を持って、ひとりは短剣を持って」

スキュラの指は革紐の上に置かれたまま、動かなかった。

あなたはその目を見つめ、そこにわずかな揺らぎでも読み取ろうとした。あの日、あなたは観客席に座ってあの試合を見ていたのだ。そしてあの日、あなたの母は道中で襲われ、二度とローマに戻らなかった。

「ふたりがどうなったか、知っている?」とあなたは聞いた。

松明の煙がふたりのあいだを漂っていく。あなたは彼女から何かを引き出したかった。あのふたつの名を知っているのか、ふたりの結末を知っているのか、母と、あなたの目と、わざと隠された何かのつながりがあるのか。

スキュラはあなたを見た。

知っているとも、知らないとも言わなかった。視線をあなたの顔の上に置き、それから問い返した。「あなたの海は、どこにある?」

答えではなかった。挑発にも聞こえなかった。

あなたは一瞬、その場に立ち尽くした。

主人が先に笑った。短く、見下すような笑いだった。

「ご覧なさい、あいつはいつもこうなんです。お嬢さまがまともな言葉で話しかけても、返ってくるのはたわごとだ。北海の女なんてのは、頭のなかに水と霧しか入っちゃいない」彼は前に出て、あなたとスキュラのあいだに割って入ろうとした。「お嬢さまに必要なのは、命令を聞く男です。図体が大きくて、鞭を怖がるやつ。女剣闘士は珍品で、長旅には向きません。それに、こいつは殺しすぎてる。夜、馬車のそばで寝かせるなんて、怖くはございませんか?」

そばにいた剣闘士の何人かが、棒が届く前にまた低く笑った。誰かが木剣で盾を叩いた。主人に同意するように。

あなたが叱りつけないのを見て、主人はさらに大胆になった。

「お嬢さまはお生まれが高貴ですから、もちろんこういうことはご存じない。女が護衛を選ぶと、よく見るところを間違えるもんです。この北海の品物は、闘技場じゃ見栄えがしても、場を出れば厄介ごとを起こすだけ。これを買ったら、見張りにもうふたり買わなきゃなりませんよ」

スキュラは何も言わなかった。

ただうつむいて、手首の革紐をもうひと巻き、きつく締めた。紐の縁はすり切れて古傷に食い込み、その裂け目から血の色がゆっくりとにじみ出てきた。

不意に、父の机の上の招待状を思い出した。「人がどうやって武器に仕立てられるか」と話したときの、マルクスの弾んだ口調を思い出した。車のなかでクラウディアが話してくれた、岩の洞窟の刻み文字を思い出した。海水が流れ込み、また引いていき、海藻と塩を残していく。

ほとんど無意識に、あなたは拳を握りしめていた。

主人はまだしゃべっていた。「どうしても女がよろしければ、厨房に刃物の使える奴隷がふたりおります。道中の身のまわりの世話にも向いておりますし。こいつは——」

「いくら?」

主人の口がとまった。

彼はまばたきをした。聞き取れなかったかのように。

「お嬢さま、いま何と?」

あなたは振り向いて彼を見た。

「彼女は、いくら?」

訓練場が一瞬、完全に静まり返った。

主人の笑顔が顔の上で固まり、すぐに別の笑いに変わった。用心深く、そして貪欲な笑い。

「この女は安くございません。この先まだ何試合も出る予定で、評判も大したもの。ウェスタ祭の前後には、こいつ目当てにわざわざ来る客も大勢いるんです。こういう剣闘士を売るとなると……」

「値を言いなさい」

「ただの護衛じゃございません。獅子も殺したし、人も殺した。野性が抜けなくて手に負えない。もしお嬢さまに怪我でもさせたら——」

「値を言いなさい」

あなたの声は高くなかった。けれど二度目にそう言ったとき、ついてきた召使いはもう半歩前に出て、財布を取り出していた。銅の留め具が開くと、なかに入っていたのは細かい小銭ではなく、用意された金貨だった。

その金色は、どんな言葉よりもものを言った。主人はたちまち、相場よりずっと高い額を口にした。

あなたは値切らなかった。

召使いがあなたを見た。あなたがうなずくと、金貨が数えられ、引き渡された。

スキュラが顔を上げたのは、そのときだった。

彼女はあなたを見た。驚きもなく、礼もなく、冷ややかな目で。

あなたは契約書に一族の印章を押した。「Emptor dominus est rei. 買い手こそが、すべての主!」主人が笑いながらおもねった。契約が成立した瞬間、剣闘士の身分は変わった。

「さあ行け、海の怪物。女主人のところで戦ってこい」と彼は大声で言った。

スキュラは立ちあがり、盾を手に取った。取りあげられた剣には手を伸ばさなかった。教官がスキュラの銅の札を外して管理人に放り投げ、ばかにしたような声を漏らした。

スキュラがあなたの前まで歩いてきた。

近くに来ると、薬草と血と古い革の混じった匂いがした。手首の皮膚はすり切れて、深い輪の跡が残っていた。

彼女はあなたのかたわらに立ち、頭を下げて礼をすることはしなかった。まわりで誰かがまた笑った。今度の笑いは慌ただしく干からびていて、口には出せない羨ましさが少し混じっていた。

あなたは彼らを見なかった。

門の外では、クラウディアの馬車がまだ夜のなかに止まっていた。

今夜、あなたは問いに答えようとしない人間をひとり買い、そしてその問いそのものも買ったのだった。

2.4 飼い慣らせない海

秋に入ろうとするころ、マルクスがまた招待をよこした。

今度は猛獣の試合ではなく、模擬海戦だった。

闘技場の砂の上に水が満たされ、木の船が円い深い穴に漕ぎ入れられる。奴隷や捕虜がギリシア人や東方の民の名を与えられて、ローマのかつての勝利をもう一度演じるのだ。マルクスの手紙は控えめで、言葉は穏やかだった。こうした光景はめったにないから、出発の前にあなたといっしょに見たい、とだけ書いてあった。

あなたは断るつもりだった。

けれどそのとき、スキュラは中庭に立って蠟板を見ていた。

屋敷に連れて帰ってから、あなたは彼女にラテン語を習わせていた。まずは自分の名前から。スキュラはローマが与えた名で、シフラが彼女自身の名だった。

旅のために、あなたは作法や地名や道中で要る言葉を教えた。けれどすぐに、ローマの道や、建物や、法や、文明のことまで話すようになっていた。

彼女は覚えるのが速かった。

話を聞きながら、蠟板に指を押し当て、「civitas」という語の上でとめた。

「都市」とあなたは言った。

彼女は目を上げた。

「壁」

あなたは訂正しなかった。彼女にとって、そのふたつの言葉はほとんど同じ意味なのかもしれなかった。

「今夜はめったにない水上の戦いだって、マルクスが」あなたは招待状を見ながら言った。「行く?」

スキュラは鉄筆を置いた。

「あなたは行く」

「ええ」

「なら、行く」

模擬海戦の日、あなたは彼女を連れて入場した。

スキュラを見たとき、マルクスの笑顔は途中で止まった。そばには何人かの将校がいた。先に見送りに来たようでもあり、東方の属州へ赴任する彼の晴れ姿を先に見届けに来たようでもあった。

「あなたの海の怪物を連れてきたんだね」と彼は言った。

「わたしの護衛よ」

「その言葉が、彼女にわかるのかな?」

まわりで誰かが低く笑った。スキュラはあなたのうしろに立ち、目は場内に向けていて、彼らを見なかった。

それでマルクスは、彼女には言葉がわからないのだといっそう確信した。

「かまわないさ。ローマがどうやって陸を海に変えるか、見せてやるといい。故郷の慰めにでもなるだろう」

場内に角笛が響いた。水を満たした闘技場が小さな海をまねている。海の上で小舟がぶつかり合い、木の櫂が折れ、水しぶきが上がった。敵軍に扮した奴隷たちが水に突き落とされる。船べりにしがみつく者、長い竿で肩を打たれて沈み、またもがいて浮かびあがる者。観客席から、喝采が波のように何度も湧きあがった。

水はすぐに濁った。泥と血の色が櫂にかき混ぜられていく。

マルクスがあなたのほうへ身を傾けて説明した。「こういう仕掛けは雑だね。本物の海戦は艦隊の陣形や、風向きや、潮の流れを見るものなんだ。あいにくこの奴隷たちは戦術を知らない。飛びかかって噛みつくことしか知らないのさ」

そう話す彼は、まるで本物の戦場に行ったことがあるかのようだった。

けれど実際には、彼は一族に大事に守られてきた。今度のメソポタミア行きも、一族の跡取りとして、ローマが先に栄光の軍旗を用意してくれていたのだ。

「ほら」彼は場内の一艘の小舟を指さした。「あれが愚かな蛮族の戦い方だ。ローマの技術がなければ、海なんてただの混沌とした水にすぎない」

スキュラが不意に口を開いた。

「あれは海じゃない」

マルクスが振り向き、まわりの人々も振り向いた。

彼女のラテン語は少し粗削りだったが、ひとりひとりの耳にはっきりと届いた。

マルクスが目を細めた。「なんだ、しゃべれるのか」

スキュラは場内の濁った水面を見ていた。

「あなたたちはわたしたちを檻に入れて飼う。海まで飼い慣らしたつもりでいるのと同じように。でも、海は誰にも屈しない(Non vincitur mare)」

彼女はあの一文を覚えていた。もとはあなたの蠟板に書いてあった一文を。なぜか、胸が熱くなった。

スキュラはマルクスを見据えて、さらに言った。「あなたは本物の海を見たことがない。本当に人を殺したこともない。闘技場で見ていただけで、何もかもわかった気になっている」

その瞬間、水の音も歓声も続いていたのに、あなたたちのまわりのひと区画だけが死んだように静まり返った。

マルクスの顔がまず少し青ざめ、すぐに血の色がのぼった。彼は立ちあがり、剣の柄に手をかけた。

「奴隷、ひざまずけ」と彼は言った。

スキュラは退かなかった。

あなたも立ちあがった。「マルクス」

彼はあなたを見なかった。

「この女は、人前でローマの将校を侮辱した」

「彼女はわたしの護衛よ」

「なら、ちゃんとしつけることを覚えるんだな」

場内では奴隷たちがまだ水のなかで命がけで戦っていたが、もう誰も気にしていなかった。まわりの視線が集まりはじめた。小声で何事かと尋ねる者もいれば、もう見物の顔つきになっている者もいた。

そのとき、通路の入口に白い姿が現れた。

クラウディアが来たのだ。真っ白な長衣を見ると、まわりの声はたちまち低くなった。

「軍団長」とクラウディアは言った。

マルクスが礼をした。

「首席巫女さま」

彼女は何があったのかを尋ねなかった。けれどその視線はマルクスの顔から、ゆっくりとスキュラへ移った。その厳しいまなざしに、あなたは首筋が冷たくなるのを感じた。

スキュラはクラウディアの視線を正面から受けとめ、ひるまなかった。

クラウディアがあなたの代わりに約束した。「アエリアに代わって、わたしがこの者をしつけましょう」

「叔母さま」あなたは口を開いた。

「今夜はもう十分に人目を引いたわ」彼女はあなたを見た。「座りなさい」

あなたは言い返せなかった。

クラウディアはスキュラを席から連れ出させた。スキュラはあなたのそばを通るとき、あなたを見なかった。ただ盾を左手に持ちかえ、白い長衣のうしろの影についていって、通路のなかへ消えた。

その夜から、スキュラはあなたの中庭に戻ってこなかった。

家の奴隷の話では、神殿の近くの別邸に連れていかれて、しばらくは戻らないということだった。クラウディアは説明をせず、ただ人をよこして一言だけ伝えてきた。護衛の件はこれまでどおり。

十数日が過ぎた。

出発の日の朝、空はまだ明けておらず、中庭には薄い灰色の夜明けの光が敷きつめられていた。けれど屋敷にはもう旅の箱が積みあげられ、お付きの者たちが馬や水袋を数えていた。

足音とともに、スキュラが門の外から入ってきた。

彼女はきれいな革の鎧に着替え、腰に短剣を下げ、髪を束ねていた。擦り切れてはいるけれど整った赤い外套をまとっている。たぶん、クラウディアが与えたものだろう。

彼女は誰の横も素通りして、あなたの前で立ちどまり、右手を胸に当てた。

「あなたを護る」と彼女は言った。「ローマからメソポタミアまで。道中であなたの命を狙う者がいれば、先にそいつを殺す。あなたを連れ去ろうとする者がいれば、先にそいつの手を断つ」

彼女は少し間を置いた。

「あなたが、お父さんの属州に着くまで」

それはローマ人の誓いではなかった。耳に心地よい決まり文句もなく、家名もなく、恭順な語尾もなかった。

あなたは彼女の目を見つめた。

「どうして?」とあなたは聞いた。「クラウディアは、あなたに何を言ったの?」

スキュラは、やはりその問いには答えなかった。

ただうつむいて、初めてあなたに、ぞんざいな礼をした。作法どおりではなく、少しぎこちなくさえあった。

けれど、彼女は最後までやり終えた。

朝の風が中庭を吹き抜け、池のほとりの灯りを揺らした。あなたは不意に、彼女に問われた言葉をまた思い出していた。

あなたの海は、どこにある?

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