『女剣闘士の死』第四幕:閉じてゆく残酷な環
オリジナル小説『女剣闘士の死』第四幕。ローマの法廷で、真実は死者の名誉と秤にかけられる。首席巫女は女剣闘士を差し出すことで姪を救い、その夜、聖火のかたわらで、語り終えていなかった物語を語る。
4.1 書き換えられた真実
冬のローマでは、大理石が氷のように冷たく硬い。
あなたは法廷の審判席の前に立っていた。足もとの石から、刺すような冷気がのぼってくる。柵の外では物見高い傍聴人たちがひしめき合い、首を伸ばしてのぞき込んでいた。
ローマの法務官は高いところに座り、黒っぽいトガには塵ひとつなかった。陪審は両側に分かれ、元老院議員と騎士たちがその上に座っている。
その席の配置は、闘技場のサーカスと何も変わらなかった。
全員が席につくと、書記が巻物を広げ、咳払いをした。
マルクス・クラウディウスの父が訴えを起こしていた。
彼はあなたを——元老院議員の娘アエリアを——告発していた。北海の女剣闘士を放任し、ローマの軍団長マルクスを故意に殺害させた、と。
柵の外で誰かがささやくのが聞こえた。
「あれだよ」
「あの海の怪物のために」
「マルクスは、あの娘を助けようとして死んだっていうのに」
誰かが声をひそめ、それでいてまわりに聞かせたくてたまらない調子で言った。「あの娘、前から剣闘士とできてたって話だ」
噂ほど速く伝わるものはない(Fama nihil est celerius)。
あなたは傍聴席を見なかった。
そこにはマルクスの一族が座り、あなたの父の味方も敵も座っていた。法廷の外では、もっと多くの人々が今日の結果を待っている。彼らが好んで語る物語は、もっと単純だった。
若い軍団長が貴族の娘を護送していて、野蛮な女剣闘士に殺された。その貴族の娘はたぶらかされていて、一族はそれをもみ消そうとしている。そして偉大なクラウディウス家は、東方で功を立てるはずだった息子を失った。
けれど……
Quid est veritas?
真実とは、何か?
ひと月前、あなたたちがローマに着いたとき、都は晩秋に入ったところだった。マルクスの遺体は封をされた車に入れられ、ローマに運ばれた。スキュラはあなたの馬車のそばについていた。外套には、洗っても落ちない黒ずんだ血の跡があった。
家に帰ると、あなたは元老院へは直接行かず、父とクラウディア叔母の前ですべてを話した。
アッシリアの反乱。メソポタミアへの道が断たれたこと。マルクスの残兵が無様に撤退してきたこと。夜、山賊を装って一行を襲ったこと。そしてマルクスが、脱走の事実を隠すために、自分をいちばん信頼していた護衛隊長を自分の手で殺しただけでなく、あなたまで殺そうとしたこと。
けれど、最後のひとつだけは隠した。
マルクスがすでに取り押さえられていたことを、あなたは言わなかった。スキュラに彼を縛れと命じたのに、スキュラがその命令に背いて、刃で彼の喉を切り裂いたことも。
あなたは父に、こう告げただけだった。スキュラはあなたを護るために、揉み合いのなかでマルクスを殺した、と。
それはスキュラを守るためではなかった。
少なくとも、それだけのためではなかった。
あれは処刑だった。奴隷の女剣闘士がローマの将校を処刑することは許されない。元老院議員の娘がそれを命じることも許されない。もしあなたが真実を口にすれば、あらゆる目があなたに向けられる。
あなたが命じたのではないか?口封じをしたかったのではないか?貴族の身分を使って、蛮族の手で婚約相手を始末させたのではないか?
真実は、ときに両刃の剣のようなものだ。
それを握る者もまた、傷を負う。
こうして、交渉は前倒しで始まった。
あの数日、屋敷の門は何度も開いた。使者が夜明け前に来て、夜更けに去っていく。あなたは何度か扉の前を通りかかり、なかで低く抑えた言い争いを聞いた。父とクラウディアだった。
あなたの一族は軍旗を、証言を、覆面の兵士たちの装備を、副官の供述を差し出した。せめてマルクスの職務怠慢は相手に呑ませ、「山賊」の襲撃のときのあなたの冷静さと功を認めさせようとした。
相手は一族の名と、勲功と、軍のなかの古い友人たちと、もう口をきくことのできない遺体を差し出した。あなたがたぶらかされていたことを認めさせ、マルクスは犠牲になった英雄だと認めさせようとした。
やがて、交渉は決裂した。
あなたの父は、ほかに手がなく、元老院議員たちのあいだに別の話を流すしかなかった。マルクスは敵を前にして持ち場を捨て、山賊の襲撃を偽装し、口封じのために証人を殺した、と。
刃と刃の突き合わせだった。
マルクスの一族の反撃は、さらに速かった。
彼らは、自分たちの息子を脱走兵にするわけにはいかなかった。
一度認めてしまえば、家名も、人脈も、東方の戦場での手柄も、敵前逃亡の汚名を覆い隠すことはできない。そのうえ山賊を装って総督の娘を襲ったとなれば、クラウディウス家が失うのは、この息子ひとりでは済まなくなる。
彼らは、決して認めるわけにはいかなかった。
ほどなく、彼らはマルクスの逃亡を戦術的撤退と呼び、彼のまわりに残った兵を護送隊と呼び、あなたたちの野営地への夜襲を、国境の盗賊の騒ぎと呼ぶようになった。
では、どうして彼はあなたの天幕のなかで死んだのか。その答えも、彼らはもう用意していた。彼はあなたを護るために天幕に入り、あなたの女剣闘士に刺し殺されたのだ、と。
彼らは弁の立つ演説家を雇い、街頭で民衆にマルクスの功績を語らせた。
尾ひれをつける必要はなかった。サーカスを好むローマの民衆のあいだで、物語はその瞬間から、ひとりでに育ちはじめた。
マルクスは、若く勇敢な軍団長と呼ばれるようになった。
彼はアッシリアの国境をすでに安定させていたのに、総督の娘を護送するために本隊を離れたのだと言う者がいた。死ぬ間際まであなたの前に立ちはだかって護っていたと言う者がいた。あの北海の女剣闘士が凶暴で手に負えないことにとっくに気づいていたのに、あなたを思いやって、人前で恥をかかせまいとしたのだと言う者もいた。
数日後には、酒場で短い歌を歌う者まで現れた。
「マルクス、マルクス、ローマの英雄、帝国のために死んだ」
さらに数日後、クラウディウス家は彼の像を建てると発表した。場所はまだ決まっていなかったが、姿はもう伝わっていた。鎧をまとい、剣を手にし、身をよじって背後の女を護っている姿。
真実が、秤にかけられていた。
一方には死者の名誉。もう一方には生者の証言。
けれど……
Quid est veritas?
真実とは、何か?
法廷に意識が戻ったとき、書記はもう訴状を読み終えていた。
あなたは広間に立ち、両手を外套のなかに隠して、指先を手のひらに食い込ませていた。痛みで深い呼吸を保ち、思考をここにつなぎとめておくために。
マルクスの父が立ちあがった。
かつてあなたがガイウスおじさまと親しげに呼んでいた人は、記憶のなかよりも老け、陰鬱になっていた。黒いトガの縁には幅の広い紫の帯があり、ひげはきちんと整えられ、目は深く落ちくぼんでいた。
彼はまず法務官と陪審に礼をし、それから人々のほうへ向き直った。
「諸君」と彼は言った。「わたしの息子は、ローマへ帰る道で死んだ。安全な場所にとどまって援軍を待つこともできた。だが総督の娘が足止めされていると聞くや、ためらうことなく引き返したのだ」
柵の外で、誰かが小さくため息をついた。
マルクスの父は続けた。「山賊と反乱に立ち向かい、息子は一行を護り、婚約者を護った。だが、本当の刃がすぐそばから来るとは思ってもいなかった」
彼の指が、あなたのほうへ向けられた。
「この女は剣闘士を買った。人を殺すために鍛えられた女をだ。その女を同行させ、武器を与え、ローマの将校に近づく機会を与えた。諸君!毒蛇を枕もとに置いておきながら、噛み傷には関わりがないと言う者がどこにいる?」
群衆のあいだに低いどよめきが広がった。
あなたは頭を下げなかった。
「わたしの息子が死んだとき、喉は切り裂かれていた。戦場で正面から斬り結んだのではない。名誉ある死ではない。卑しい剣闘士が、主人の放任のもとで、ローマの軍団長の喉を切り裂いたのだ」
彼はようやくあなたを見た。
その目には悲しみの涙はなく、ただ深い冷たさだけがあった。
「そしてこの女は」と彼は言った。「自分は無実だと、諸君に信じろと言うのだ。だが、この女の保証がなければ、この女の偏愛がなければ、野蛮なものへのこの女の甘やかしがなければ、マルクスは死ななかった」
彼はしばらく間を置き、声をさらに落として、鍛えられた調子で言った。
「この女は、あの剣闘士にたぶらかされたのだ。若く、愚かで、異国の奇談に溺れ、残酷さを自由と取り違え、不服従を尊厳と取り違えた。わたしの息子は危険に気づいていた。だが最後には、救おうとしたその女の目の前で死んだのだ」
あなたは聞いていた。
朝の光が床の上を移り、あなたの外套の裾まで届いた。その布はとうに替えてあった。マルクスの血にまみれた古いほうは一族の蔵に封じられ、裁判で取り出される日を待っていた。
あなたは、天幕のなかに立っていたスキュラを思い出した。手に下げた短い刃から、血が切っ先を伝ってしたたっていた。
けれどいま、この法廷では、すべてが嘘だった。あなたも嘘をついている。父も嘘をついている。ガイウスも嘘をついている。
マルクスの一族は死者の名誉を取り戻したい。あなたの一族はあなたの命を守りたい。そしてスキュラは——
闘技場の地下牢に閉じ込められ、あなたと同じように裁きを待っていた。
4.2 秩序の身代わり
マルクスの父が話し終えると、法廷には短い沈黙が訪れた。
審判席の前に立つあなたの目に、法務官が指先で椅子の肘掛けを叩くのが見えた。書記の尖筆が蠟板をひっかく音が聞こえ、傍聴席では、ひそひそ話が少しずつわきあがっていた。
あなたの父が立ちあがった。トガのひだが重かった。父は反論することもできたし、証言や証拠を出すこともできた。けれど、どの証拠にも別の危険がついていた。スキュラはあなたが飼っていた凶器だとマルクスの一族が言い張るかぎり、証拠が多ければ多いほど、あなたが前もって仕組んでいたように見えてしまう。
理由や動機など、どうでもよかった。
「あの娘が奴隷に殺させたんだ」
「剣闘士と通じていたんだ」
「軍の機密を知っていて、山賊の名を借りて婚約者を殺したんだ」
そういう噂が、とっくに人々のために物語を完成させていた。
傍聴席で誰かが小声で言うのが聞こえた。「無実なら、どうしてあの奴隷は法廷に出てこないんだ?」
別の誰かが答えた。「剣闘士を法廷に出す?野蛮人がローマの元老院議員と並んで立つっていうのか?」
あなたの指先が、小さな硬いものに触れた。母の古い本から外した、革紐の栞だった。家を出る前に、衣の内側に忍ばせておいたのだ。革紐は歳月にすり減って柔らかくなっていて、まるで母の手のようだった。
父が陳述を始めた。
父はゆっくりと、慎重に話した。マルクスの隊の人数が編成と合わないこと。いわゆる山賊が野営地の様子を知り尽くしていたこと。護衛隊長の命を奪ったのは盗賊の短刀ではなく、ローマの短剣だったこと。
けれど父がひとこと言うたびに、マルクスの一族は問いをあなたに押し返した。
隊がおかしかったのなら、なぜ最初に指摘しなかったのか?
それほど危険な状況だったのなら、なぜあなたのそばの女剣闘士が、混乱のなかでマルクスに近づけたのか?
マルクスがすでに取り押さえられていたのなら、なぜ生きたまま軍法廷に引き渡さなかったのか?
最後の問いが落ちたとき、あなたはスキュラがいるべき場所を見た。
彼女は法廷にいなかった。闘技場の地下の石室に閉じ込められ、日の差さない暗闇のなかで、この裁判の結果を待っていた。
マルクスの父がふたたび口を開いた。
「この女が何も知らなかったと言うのなら、それはあの奴隷にたぶらかされたということだ。知っていたのなら、共犯だ」
あなたは口を開きたかった。けれどいまは、どんな弁明も別の問いに巻き込まれてしまう。スキュラがあなたを救ったと認めれば、人殺しをかばうのかと言われる。スキュラが命令に背いて殺したと言えば、ではなぜいままでかばってきたのかと問いつめられる。
あなたが口を開くより先に、傍聴席のうしろのほうで衣ずれの音がした。
大きな音ではなかった。それなのに、法廷じゅうの人が振り向いた。
クラウディアが入ってきたのだ。
その瞬間、法廷のひそひそ話がすべて消えた。静けさのなかで、法務官までもが少し背筋を伸ばした。
ウェスタの首席巫女が、こんな刑事の争いに関わるべきではなかった。ましてや貴族の婚約と、軍と、奴隷の殺人が絡んだ事件に。彼女が守るのは聖火であって、醜聞ではない。
法務官が眉をひそめた。「クラウディアさま」
彼女は彼に小さくうなずいた。
「ここが神殿でないことは承知しています」と彼女は言った。「わたしの身分が、俗世のために使われるべきでないことも」
誰も言葉を返さなかった。
彼女が傍聴席から下りてくると、群衆はひとりでに細い道を開けた。マルクスの父は彼女を見つめ、その顔に初めてためらいが浮かんだ。
クラウディアはあなたのかたわらで立ちどまった。
彼女の衣から、ほのかな灰と乳香の匂いがした。幼いころ熱を出したとき、この匂いが寝台のそばに近づいてきて、一夜また一夜と、あなたを安心させてくれた。
そしていま、それがふたたびあなたのそばに来ていた。
「けれど今日、ひとりの若い娘を人殺しに仕立てようとしている者がいる」と彼女は言った。「みなさんが物語をお聞きになりたいのなら、わたしも別の物語をお聞かせしましょう」
マルクスの父がすぐさま口を開いた。「巫女さま、この件は——」
「あの女剣闘士は、アエリアのせいで来たのではありません」
クラウディアは陪審席のほうを見た。
「スキュラ。北海の奴隷で、本名はシフラ。かつてのふたりの女剣闘士、アマゾニアとアキリアに育てられた子です。みなさんのうち年長の方は、あのウェスタ祭の試合を覚えておいででしょう。彼女はその後、ローマの奴隷の仕組みのなかを転々として、今日の剣闘士になったのです」
あなたは彼女の隣に立ち、心臓が肋骨を一度また一度と打つのを感じていた。
彼女は、突きとめていたのだ。
「調べておく」と言ったとき、彼女が突きとめたのは北海の伝説でも、あなたの母が助けた奴隷のことでもなかった。スキュラとあのふたつの名とのつながりだったのだ。あなたは、焚き火の前でスキュラが言ったことを思い出した。
「ふたりは、わたしの母だ」
いま、その言葉がクラウディアの口から出たことで、それはもう夜の打ち明け話ではなく、誰もが使える証拠になっていた。
マルクスの父はすかさずそれに飛びついた。結局のところ、彼が欲しいのはあなたの命ではなく、一族の名誉なのだ。
「復讐だ」と彼は言った。「諸君も聞いただろう。この奴隷は、やはり復讐のために来たのだ」
クラウディアは否定しなかった。
「彼女はローマを憎んでいます」と彼女は言った。「不思議なことではありません。ローマは、彼女にそれだけの理由を十分に与えてきたのですから」
法廷の何人かが眉をひそめた。
彼女は続けた。声は変わらず落ち着いていた。「けれどアエリアは、マルクスを殺せと彼女に命じてはいません。アエリアがスキュラを買ったのは、旅の護衛のためです。スキュラがのちにマルクスを殺したのは、古い恨みのため、混乱のため、彼女自身の荒々しさと復讐の意志のためなのです」
あなたは振り向いて彼女を見た。
彼女はあなたを見なかった。
その瞬間、あなたはようやく彼女が何をしているのかを理解した。彼女はあなたを刃の前から押しのけ、そしてスキュラを人々の前へ押し出していた。いちばんきれいで、いちばん効き目のあるやり方で、あなたの罪を晴らしていたのだ。
それが真実だからではない。ただ、それが誰もが受け入れられる結末だったからだ。
奴隷にたぶらかされた貴族の娘なら、赦すことができる。
復讐に駆られた蛮族の奴隷なら、処分されなければならない。
法務官は長いあいだ黙っていた。
陪審席では蠟板が回され、また集められた。小声で相談する者もいれば、クラウディアを見て、それからあなたを見る者もいた。マルクスの父はもう反対しなかった。彼にとっては、この物語で十分だった。マルクスは英雄の名を保ち、アエリアは愚かで哀れな娘になり、あらゆる過ちはひとりの奴隷が背負う。
火鉢の火が消えかけたころ、法務官が判決を読みあげた。
マルクス・クラウディウスは、ローマを護るために死んだ将校である。クラウディウス家は彼の像を建てることを許され、碑文は一族と軍が共同で定める。
傍聴席で誰かが小さく安堵の息をつくのが聞こえた。
続いて、あなたの名が呼ばれた。
アエリア。恐怖のもとで判断を誤り、異国の奴隷を将校に近づけることを許した。今後は一族の監督下に置かれる。
最後がスキュラだった。
彼女は法廷に立ってはいなかった。地下の石室で、ふたりの兵士に見張られていた。自分の判決を聞くことさえできなかった。
書記官が読みあげた。女剣闘士スキュラ、本名シフラ。ローマの将校を殺害し、公の秩序を乱し、復讐の名のもとに都市の名誉を傷つけた罪により、闘技場へ差し戻す。闘技場にて九日間連続の戦いを課す。毎日、彼女は砂の上に押し出され、獣と、罪人と、職業剣闘士に立ち向かう。
死ぬまで。あるいは、九日目を生き延びるまで。
傍聴席から満足げなささやきが漏れた。彼らはパンが好きで、サーカスも好きなのだ。
「それがいい」
「闘技場で借りを返させろ」
「海の怪物は、もともと砂の上で死ぬべきなんだ」
あなたはクラウディアを見た。
彼女はもとの席に戻り、両手を重ねていた。あなたを見ることもなく、マルクスの一族を見ることもなかった。白い頭布の下で、その目がゆっくりと閉じられた。
法廷の外では、冷たい風が列柱のあいだに吹き込み、うなりながら冬の布告を運んできた。
通りを行く人々はマルクスの像の話をしていた。彫刻家はもう呼ばれていて、石材ももう選ばれているという。若い将校は鎧をまとった姿でフォルムに立つのだ。トラヤヌスの記念柱のように、人類の永遠の時間の果てまで。
通りかかる人は彼を仰ぎ見て、子どもはあれは誰かと尋ね、大人はこう答えるだろう。
あれは、ローマのために死んだ英雄だよ。
そして次のウェスタ祭に、スキュラはふたたび闘技場へ歩み入る。
同じ都市が、そのふたつのことに拍手を送るのだ。
4.3 憎しみと負い目のあいだ
裁判が終わると、時は速く過ぎた。人々は嘘を覚え、噂をこしらえ、けれどもう真実には関心を持たなかった。
あなたはフォルムへ行った。
ローマの夕暮れが、列柱の影に、石の上の水の跡に隠れていた。
フォルムはがらんとしていた。演説家の見世物もなく、盛大な祭りもなく、人影さえまばらだった。その中心で、トラヤヌスの記念柱がゆっくりと形をなしつつあった。
巨大な石材がひと節ずつ積みあげられ、石工の槌が打ちおろされるたびに、灰白色の石の粉が落ちて風に吹き散らされる。いくつもの場面がすでに石の上にくっきりと現れていた。行軍する隊列、川を渡る兵士、ひざまずく捕虜、高みに立ち、片腕をわずかに上げた皇帝。
石はその偉業を永遠に覚えているだろう。けれど焦土の匂いも、苦しみの叫びも記しはしない。
鎖でつながれた女や子どもも、道ばたで叩き割られた小さな祠も、宿駅の乾ききらない血も、刻まれはしない。
ローマ人は仰ぎ見るのにふさわしい物語だけを柱にひと巻きずつ巻きつけていき、後の世の人々は、文明と、勝利と、皇帝の権威の横顔だけを見ることになる。
少し離れたところで、マルクスの像の工事も始まっていた。
台座のまわりにいくつか献花が置かれ、もうしおれかけていた。像はまだ粗削りだったが、胸甲は厚く、肩は広かった。鼻筋と頬骨はざっと彫られ、目のあたりには深い溝があらかじめ刻まれている。一族の求めに合わせてさらに仕上げるのだと、石工は言った。
もっと若く。
もっと毅然と。
目は東を望むように。
まるで、一度もあの土地から逃げたことがないかのように。
そして彼の背後で、あなたの姿は、うろたえたひとつの影にまで抽象化されていた。
あなたはそこに立って、その像の未完成の顔を見つめた。マルクスの父はすでに、死後に人々の記憶に残る姿を息子に勝ち取らせていた。鎧をまとい、剣を手にし、ローマの貴族の女を護り、帝国の辺境のために死んだ姿を。
以前読んだ一文を思い出した。
Simulacra vultus imbecilla ac mortalia sunt, forma mentis aeterna.
顔の像はもろく、いずれ朽ちる。魂のかたちだけが永遠に残る。
けれど目の前のこの石は、彼に別の魂を与えようとしていた。
石工の槌が打ちおろされるたびに、偽りのしるしが一段深く刻まれていく。本当に起きたことは、生きている者の身体のなかにしか残らない。夜の夢のなかで聞こえる音のように。刃がマルクスの喉に入っていく、あの音のように。
あなたはあの一瞬を、いまも覚えていた。
血が顔にかかったとき、感じたのは恐怖だけではなかった。
マルクスの顔が見えた。いつも余裕に満ちていたあの顔が、ついにすっかりゆがみ、制御を失った。その瞬間、あらゆる衝撃と寒気と嫌悪の下で、何かひどく素早く、ひどく明るいものが、あなたを貫いていったのだ。
彼は死んだ。
もう彼に嫁がなくていい。
遠い属州へ送られることもなく、彼の妻になることもなく、前線の総督府の食卓について、彼が逃亡を勇敢さに、恐怖を策略に語り直すのを聞かされることもない。
あなたは狂喜したのだ。そしてその喜びは、彼の血よりもずっと耐えがたかった。
もう自分をごまかすことはできなかった。あなたはマルクスの死を思い描いたことがあった。そしてスキュラが、それを代わりに実現したのだ。
いつのまにか、背後から足音が聞こえていた。柔らかく、聞き慣れた調子だった。
クラウディアがあなたの隣で足をとめた。
彼女は何も言わず、ただ静かにそこにとどまって、あなたと一緒にその像を見ていた。石工が彼女に気づき、槌と鑿を置いて頭を下げた。
「石工は、あの人の目をもっと上手に彫るでしょうね」とあなたは言った。
クラウディアは見上げた。
「一族がそう求めるでしょう」
「あの人たちの勝ちね」
「守るべきところを守った、というだけよ」
あなたは横を向いて彼女を見た。
「叔母さまもね」
彼女は反論しなかった。
風がフォルムを吹き抜け、石の粉と枯れた花の匂いを運んできた。石工が槌をしまって去ると、夕風のなかで、フォルムは不意に静かになった。
「真実を知ったわ」とあなたは彼女に告げた。
視界の端で、クラウディアの肩がかすかに震えるのが見えた。
「どの部分を?」
「母の死のこと」あなたは顔を上げ、像の向こうの、血のように赤い夕日を見た。「スキュラは叔母さまに嘘をついていた。あのとき、逃げるために、母の行き先を山賊に教えたのよ」
クラウディアは目を伏せた。
あなたは続けた。「母は彼女を助けた。でも最後に、彼女は生き残って、母は死んだ」
その言葉は、像と夕日のあいだに落ちて、こだまを返さなかった。
口にしたら苦しいだろうと思っていた。けれど本当にその時が来てみると、あなたの声は落ち着いていた。まるでこの事実のいちばん鋭いところが、歳月にすり減らされてしまったかのように。それはまだ重かったけれど、もう人を刺すことはなかった。
「知っているわ」とクラウディアが言った。
あなたは彼女を見た。
「知っていたの?」
「知ったのはつい最近よ」と彼女は言った。「あなたより少し早かっただけ」
あなたの心臓が、ひと拍とまった。
「だから、法廷であんなことを言ったのね」
「そうよ」
「彼女を差し出した」
「そうよ」
答えがあまりに落ち着いていて、あなたはかえって一瞬、言葉を失った。
あなたはマルクスの未完成の顔に視線を戻した。本当の表情は見て取れないのに、いずれの荘厳さを思い描くにはもう十分な顔だった。
「叔母さまは、彼女が誰なのかをとっくに知っていた」とあなたは言った。「だから裁判で、彼女はあのふたりの女剣闘士の子だと言ったのね」
クラウディアは否定しなかった。
フォルムの向こう側、トラヤヌスの記念柱の前で、石の槌がまた打ちおろされはじめた。一打ちごとに、暮れていく空気を打っていく。
あなたは続けた。「記録を読んだの。アマゾニアとアキリアは北海の出で、姉妹だった。ふたり一緒にローマへ売られて、剣闘士として鍛えられた。記録によれば、ふたりは長いあいだ同じ試合に出るのを避けていた。でも最後には、祭りのために、見世物の効果のために、対戦相手にされた」
あの日のウェスタ祭の日差しがまたあなたの顔に降り注ぎ、あの年の熱気と喧騒までもが押し寄せてくるようだった。
「スキュラは、ふたりが自分の母だと言っていた」
クラウディアが小さくため息をついた。
「わたしは彼女が憎い」とあなたは言い、それから深く息を吸って、声の震えが消えるまで待った。「でも、彼女はあのときまだ十四歳だった。自分の母親を助けたかっただけ。ほかの誰かでも、同じ愚かなことをしたかもしれない……それでもわたしは彼女が憎い。彼女は母をあの山道で死なせた。最初からわたしが誰だか知っていたのに、何も言わなかった」
空気には石の粉と塵の匂いがして、苦かった。
「ときどき、彼女が闘技場へ送り返されればいいと思う。獅子に胸を裂かれて、獣に心臓も肝臓も肺も引きずり出されて、観客席の人たちが見たいだけ見ればいいって……」あなたはゆっくりと息を吸い、続けた。「そうすれば、彼女に救われたことを考えなくて済む。毎晩天幕の外で見張ってくれたことを考えなくて済む。彼女がマルクスを殺したとき、自分のなかに狂喜したところがあったことも、考えなくて済む」
最後の言葉を言い終えたとき、握りしめた拳の指は、力を入れすぎてこわばっていた。
クラウディアの目には、咎めもなく、憐れみもなかった。彼女はただ聞いていた。神殿で、途中で止まってしまった懺悔の続きを待つように。
「でも、彼女は本当にわたしを救ったの」
遠くで誰かが小さな荷車を押して通り過ぎ、石畳の上でからからと音を立てた。
「彼女がいなかったら、マルクスはわたしを殺していた。ローマに帰ってきて、この像の代わりに人々に仰ぎ見られていた」
あなたは顔を上げて叔母を見た。
「彼女とどう向き合えばいいのかわからない。でもわたしたちは、同じ日に母親を失ったのよ」
その言葉が口から出た瞬間、フォルムは一瞬でがらんと広くなったようだった。あらゆる音が記念柱と足場と像のうしろへ縮んでいき、静けさだけが残った。
あなたはここに立って、すべてを言葉にした。けれど、法務官のようにスキュラにひとつの身分を割り当てることはできなかった。
人殺し。
恩人。
奴隷。
娘。
海の怪物。
クラウディアは長いあいだ黙っていた。
光が少しずつ暗くなっていった。像の眼窩がひとかたまりの暗い影になったころ、彼女はようやく口を開いた。
「アエリア」と彼女は言った。「ついていらっしゃい」
「どこへ?」
「神殿へ」
クラウディアは背を向け、白い長衣が石段の縁をかすめた。
「ひとつ、物語があるの」と彼女は言った。「まだ話し終えていない物語が」
4.4 海辺の子
夜のウェスタ神殿は、昼間よりも静かだった。礼拝と喧騒が去ると、そこには炎の燃える音だけが残る。
長い回廊を進むと、外側を守っていた巫女たちが下がった。クラウディアにどこへ行くのかと尋ねる者も、あなたがなぜ入ってくるのかと尋ねる者もいなかった。
彼女が首席巫女であり、ここに三十年いる人だったからだ。
彼女の住まいは、想像していたよりも質素だった。
寝台がひとつ、木の戸棚がひとつ、銅の灯りがひとつ。窓はとても小さく、遠くから見ると、外の暮色は深い青の瑠璃のようだった。奥の聖所から聖火の匂いがしみ出してきて、炭の灰と、羊毛と、月桂樹の苦い香りが混じり合っている。
彼女は侍女を下がらせ、自分の手で扉を閉めた。
それから小さな木箱を取り出して、机の上に置いた。その手は、あなたのよく知っている手だった。細長く、青白く、爪はきちんと整えられている。
この何年ものあいだ、その手はあなたの手を引き、あなたの襟を整え、そしてつい先日は、法廷からあなたを連れ出した。
「巫女がどうやって選ばれるかは、知っているわね」と彼女は言った。
あなたはうなずいた。
「貴族と良民の家から選ばれる。六歳から十歳まで、身体に欠けたところがなく、家柄が清いこと。選ばれれば、俗世の権力を離れて、女神の権力のなかへ入る」
そう語る彼女は、古い律法を暗誦しているようだった。
「わたしたちは聖火に仕え、ローマを守る。わたしたちは都のなかの、女神ウェスタの声なの。だから、わたしたちの身体はもう自分のものではない。ましてや、どんな男のものでもない」
炎がかすかに跳ねた。
彼女は木箱を開けた。なかには封をした羊皮紙の巻物が入っていた。
「わたしたちには多くの特権がある。法廷で証言するとき、先に誓いを立てる必要はない。わたしたちの存在そのものが誓いだから。自分で遺言を作ることができ、自分の財産を処分することができ、財産をほかの女に遺すこともできる」
あなたはその羊皮紙を見た。
「これはわたしの遺言よ」と彼女は言った。「わたしの名義の財産は、すべてあなたに遺すことにした」
灯りが封蠟を照らし、炎の紋がかすかに光った。
「闘技場では、巫女の手ひとつで、人の生き死にが変わる。人々はそれを、ひとりの女の判断だとは思わない。神の声が彼女の身体を通って、この世に届いたのだと信じたがる」
クラウディアは木箱を閉じた。
「でも、そのすべてにはひとつの前提があるの」
あなたは彼女を見つめた。
「巫女は、決して純潔の誓いを破ってはならない」彼女は一語一語区切って言った。「純潔を失うことは、誓いが壊れること。そして一度そうなったら、もう取り返しはつかない」
あなたたちはふたりとも黙った。聖火の燃える音だけが、遠くから聞こえていた。
クラウディアは灯りの炎を見ていた。ずいぶんたってから、彼女はふたたび口を開いた。
「これから、ひとつ物語を聞かせるわ」
その視線はあなたを越えて、壁の何もないところに落ちた。クラウディアの声が、ゆっくりと部屋を満たしていった。
ずっと、ずっと昔、ひとりの若い巫女がいた。
十六歳で、白い衣をまとってもう六年になっていた。聖火の前で祈ることも、人々に自分の沈黙から神聖さを読み取らせることも、とうに覚えていた。けれど白い衣の下では、彼女はまだ若く、衝動的だった。
そのころ、世界は彼女にとって、ぼんやりとした霧のかたまりのようなもので、はっきりとは見えなかった。
その年、ローマの夜の雨はひどく激しかった。
神殿のなかの火はよく守られていたけれど、扉の外では水が階段を伝って流れ落ちていた。雨は泣き声を覆い隠し、痛みは恐れを連れ去った。
聖火はすぐ近くにあった。火の光が扉の隙間から漏れ込んで、血に濡れた亜麻布の上に落ちていた。彼女は布を噛み、声を上げることもできなかった。信頼する人が外の部屋で見張っていて、その足音は何度もとまり、また遠ざかった。痛みで転げまわり、泣き叫びたかった。だから亜麻布を噛み、白い衣をかきむしり、そして……
彼女は、その子を産んだ。
子どもが手のなかに落ちてきたとき、それはまだ形の定まらない肉のかたまりのように小さかった。しわくちゃで、赤くて、泣き声はか細いのに、すべてを壊すには十分だった。
それは罪の証だった。
噂でもなく、敵の告発でもなく、言い逃れのできる誤解でもない。それは彼女自身の血肉であり、彼女が純潔を失った証拠だった。しわくちゃの、赤い、動く小さな命が、手のひらのなかでもがき、泣き、唇が本能で彼女の指を探している。胸が張って痛み、乳がもう白い衣を濡らしていた。彼女はうつむいてその子を見た。青白い指先には、まだ血がついていた。
見つかれば、生き埋めにされる。
だから、彼女は命じた。
この子を連れていって。
始末して。
その言葉を口にしたとき、彼女は泣かず、声を高めることさえしなかった。信頼する人が子どもを抱きあげ、布でくるみ、急いで去っていった。扉がふたたび閉まり、聖火は燃え続けていた。
彼女は寝台の端に座り、身体に残った痛みが、少しずつ骨のなかへ広がっていくにまかせた。
そのあと、彼女は追いかけた。
すぐにではなかった。
まず手を洗った。何度も何度も、指の間が白くなり、皮膚がしわになるまで、やめざるをえなくなるまで洗った。それから着替え、外套で胸を押さえて、にじみ出る乳の跡を隠した。行ってはいけない、見てはいけない、あの子がどこへ連れていかれたのか知ってはいけない、と自分に言い聞かせた。
それでも、彼女は行った。
夜の海辺は湿って暗く、波の音が繰り返し、海水が絶え間なく押し寄せて、つながれた木の船を打っていた。彼女は岩陰に隠れ、北海から来たふたりの女を見た。
ふたりはアザラシの皮と粗い羊毛をまとい、髪を骨の針と紐で束ねていた。顔は赤紫で、手は荒れていて、魚の生臭さとタールの匂いがした。ローマの貴婦人なら鼻を覆うような匂いだった。
それなのに、ふたりがその子を抱きあげたときの手つきは、なんと優しかったことか。
ひとりがうつむいて、額をそっと子どもの顔に寄せた。もうひとりは自分の革の衣を脱いで、子どもをしっかりとくるんだ。子どもは泣きやみ、唇を動かして、知らない、温かな、くすくすという笑い声を立てた。
十六歳の巫女は岩陰に隠れたまま、出ていかなかった。
ふたりの女が子どもを連れ去るのを、ただ見ていた。
それからの年月、彼女は二度と過ちを犯さなかった。
夜の見張りをし、祈り、祭儀に加わり、聖火に仕えた。手はいつも清く、衣はいつも白く、言葉はいつもふさわしかった。人々は、同じ年ごろのほかの巫女よりも大人びて聡明だと言った。一日ごとに、彼女は前の日よりもローマの求める姿に近づいていった。
けれど、死なないものもある。かつて存在したものは、跡を残す。
十数年後、ふたりの北海の女がローマに連れてこられた。見世物の目玉になり、ローマ人を沸かせる新しいサーカスになり、アマゾニアとアキリアになった。
ふたりは、剣闘士になったのだ。
それもまた神の意志であり、運命だったのかもしれない……ふたりの母の姿を追いかけて、あの子もまたローマへ戻ってきた。
その子は土埃のなかを走り、たまたま一台の馬車を呼びとめた。馬車の前にひざまずき、額が地面につきそうなほど頭を下げて、なかの巫女に母を助けてくれと頼んだ。
馬車の垂れ幕が、ひとすじだけ持ちあげられた。
巫女は見た。あの目を、見てしまった。
海の灰色。
光のなかで、かすかな青緑を帯びる目。
それは見知らぬ人間の目ではなかった。北の蛮族にたまたま生まれた色でもなかった。だから彼女にはわかった。自分の罪はまだ生きていて、ローマの街に戻ってきて、馬車の前にひざまずき、自分を見つけて助けを求めているのだと。
Scelera ipsa nefasque sua per se nota ferunt.
罪と禁忌は、みずからを暴く。
巫女は馬車の窓を閉めた。自分の罪までも、馬車の外に閉め出そうとするかのように。
子どもはお付きの者たちに引きずられていき、馬車は先へ進んだ。その日、通りは人でいっぱいだった。異国の子どもひとりのことなど、誰も覚えてはいないだろう。
けれど巫女は覚えていた。神殿に戻り、沐浴し、着替えても、まだ血の匂いがした。十四年前のあの夜、銅の盆でどれだけ洗っても落ちなかった手のように。
そのあと、彼女は闘技場へ行った。
アマゾニアとアキリアが同じ試合に組まれることを、彼女は知っていた。ローマはそういう結末が好きだからだ。同じひとりの子を育てた北海の姉妹が、衆人環視のなかで、互いの死の原因になる。
観客席は民衆で埋まり、花と硬貨がいっしょに砂の上へ落ちていった。
太鼓が鳴った。人々は巫女が闘技場に入ってくるのを見て、あらゆる目が、白い衣の下の手を待ちはじめた。
巫女は、ふたりを救うことができた。
手ぶりひとつで、民衆にこれは神の意志だと信じさせることができた。あのふたりの女を砂から去らせることができた。あの子に希望を見せてやることさえできた。
けれど、けれど、あの海の灰色の目は、もうローマの街まで来ていた。
あの子がもう一度助けを求めたら、誰かがあの子をもう一度でも見たら、十四年前の夜が、いつ聖火のかたわらから飛び出してきてもおかしくなかった。
クラウディアはそこで言葉を切った。白い壁を見つめて我を忘れていた。壁の漆喰を透かして、奥の聖所で燃えさかる聖火が見えているかのように。
彼女は目を閉じ、声を落とした。
「そして、その巫女は手を差し出した。下に向けて」
その瞬間、闘技場の何万もの叫びがひとつに重なるのが聞こえたような気がした。
処刑。
神の意志。
「アマゾニアとアキリアは死んだ」
クラウディアは言った。
あなたは彼女の向かいに座ったまま、声を出さなかった。幼いころに見た、あの夕暮れの砂がまた見えるようだった。肩に傷を負いながら、それでもまっすぐ立っていたふたりの女。よく似た赤い紐が落ちて、血に浸っていくのが見えた。
あなたはようやく思い出した。あのふたりの結末が、なぜ記憶のなかではっきりした絵にならなかったのかを。あの日、あなたは最後まで見ていなかった。父があなたを連れ出したのだ。なぜなら——母の身に、何かが起きたから。
クラウディアの声がふたたび響いたとき、それは空の果ての遠雷のように低かった。
彼女は言った。
同じ日、巫女の姉が山道で死んだ。
遺体がローマに運ばれてきたとき、その子はまだ小さかった。黒い服を着て、家の中庭に座り、泣きもせず、話しもせず、ただ扉を見ていた。巫女が歩み寄ると、その子は顔を上げた。
その目は、母親とそっくりだった。
巫女はその子を見て、幼いころの姉が、歳月を隔てて自分を振り返っているように思った。
それからというもの、巫女はよくその子に会いに行った。
叔母がかわいそうな姪の面倒をみているのだ、と人々は言った。神殿は黙認し、ローマもそれを認めた。けれどあの屋敷に足を踏み入れるたびに、巫女はわかっていた。自分は愛を施しに来ているのではない、と。
終わっていない神の意志のなかで立ちどまり、自分の罪を振り返り、自分の敬虔さがすべてを終わらせてくれるようにと祈っていたのだ。
けれど運命は定まらない。彼女の罪は、何年もたってから、やはり彼女のもとへ戻ってきた……
捨てられたあの子、シフラもまた、剣闘士になっていた。
新しい名前を持っていた。スキュラ。
ふたたび会ったとき、確かめる必要はもうなかった。あの目が、もっと大人びた、もっと角の鋭い顔についていた。巫女はその顔のなかに、若いころの自分さえ見ることができた。彼女は悔やんだ。胸に熱いものがこみあげ、この子を一度だけ、そっと抱きしめたくてたまらなかった。
けれど、遅すぎた。あまりにも遅すぎた……真実を告げることはできない。血のつながりを口にすることはできない。過去を認めることはできない。
それに、あの子が自分を受け入れないことも、彼女は知っていた。あの子のふたりの母はもう死んでいる。闘技場で死んだのだ。あの日、巫女が差し出した手の下で。
巫女は、あの子に自由を与えようと決めた。
ひそかに奴隷の契約を調べ、古いつてを使い、自分の姉の遺した娘さえ利用した。幼いころ自分の手を引いて、いつも跳ねるように歩いていたあの娘を……一度だけ、と彼女は自分に言い聞かせた。あの娘に嘘をつくのは、この一度だけ。
だから彼女は、闘技場の入場札をひそかに若い将校に渡し、姉の娘を誘うようにそそのかした。剣闘士養成所の主人に無礼な口をきかせ、姉の娘があの子を買うように仕向けた。
そうしておいて、自分が進み出て、あの子に出ていく道を示した。
彼女はあの子の目を見つめた。ほんの少しのあいだしか、見ることができなかった。それから、あの子に言った。行きなさい、ローマを離れて、あなたの北海へ帰りなさい。アマゾニアとアキリアがかつて信じた、海風と潮の女神のもとへ。そこに、あなたの母たちの魂が眠っているのだから。
アエリアを東方の属州まで送り届けさえすれば、あなたは自由になれる。
あの子は何も言わず、そのまま旅に出た。巫女は昼も夜も願っていた。あの子が二度とローマに戻ってこないことを。
けれど、あの子は行かなかった。
ここにとどまって、別の人の娘を守っていた。
クラウディアは疲れきったため息をついた。彼女はようやく話し終え、沈黙に沈んだ。
あなたは彼女を見つめた。多くのことが、この瞬間にゆっくりと閉じ合わさっていった。スキュラの目。マルクスが死ぬ前に残した言葉。剣闘士養成所のあとのクラウディアの沈黙。そして法廷での、あの一言——「彼女はアマゾニアとアキリアの子です」。
クラウディアは立ちあがり、水盆の前へ歩いていった。
彼女は両手を水に浸した。水面が彼女の顔を映し、それから指先にかき乱された。彼女はゆっくりと洗った。指の間も、手のひらも、手首も、どこひとつ見逃さずに。
澄んだ水は、色を変えなかった。
彼女は小さな声で言った。あなたに言っているようでもあり、自分に言っているようでもあった。
「Cheires men hagnai, phrēn d’ echei miasma ti.」
わたしの手は清らか。けれど、魂は汚れている。
水のしずくが彼女の手の甲から盆のなかへ落ち、音もなく波紋が広がった。
これが、物語のすべてだった。
聖火のかたわらでひそかに子を産んだ巫女は、クラウディアだった。
捨てられ、北海の女たちに抱かれていった子どもは、スキュラだった。
アマゾニアとアキリアは、クラウディアの手ぶりによって死んだ。
そしてあなたの母は、若いころのスキュラの逃亡によって死んだ。
神を汚した者は、そこにいた。それなのに聖火は消えず、神殿は崩れず、ローマは一夜たりとも止まらなかった。
灯りがクラウディアの白い長衣に影を落とし、歳月のなかに埋められていたもの——血も、乳も、海の塩も、砂も、母の本のページの墨の跡も、スキュラの目の灰青色の光も——すべてが、布の織り目の奥からにじみ出てきた。