The Song of Inanna イナンナの歌

小説

『女剣闘士の死』第一幕:起——運命の映し身

オリジナル小説『女剣闘士の死』第一幕。トラヤヌス帝のローマ、ウェスタ祭の日。元老院議員の娘と、首席巫女である叔母と、北海から来た女剣闘士。闘技場の砂の上で、ひとつの都市が一本の手を待っている。

1.1 血と聖火の幕開け

ウェスタ祭の日、正午を過ぎたローマは、焼けつく日差しにあぶられていた。

一年でいちばん盛大な祭りだった。数えきれない花輪が神殿の扉にかけられ、月桂樹の葉は日に焼かれて縁を巻き、白い羊の脂が小さな祭壇の上でゆっくりと溶けていく。

遠くの聖なる道では、群衆がコロッセウムへと押し寄せていた。空気にはさまざまな匂いが混じっている。粗挽きのパン、オリーブ、塩漬けの魚、安いワイン、そして汗。それらがかき混ぜられ、熱風に押されてアーケードへ流れ込んでいく。

それでも引き返す者はいなかった。今日の剣闘士の試合は、皇帝トラヤヌスがみずから命じたものだったからだ。

その知らせは、三日前から街じゅうに広まっていた。

闘技場の外に立てられた告知板には、口を開けた巨大な獣として海が描かれ、鱗の鎧をまとった女剣闘士が波の頂から立ちのぼっていた。髪は海藻のように肩に絡みついている。

絵師は彼女の背後に、櫂と果物の籠を手にした異国の女神を描き添え、その横に太く粗いラテン文字でこう書いていた——

海の怪物スキュラ、北海の異神ネハレンニアに愛されし者。

板の前で足を止め、船より大きく描かれた怪物を見上げる者たちがいた。

「あの女は霧のなかから来たんだ」革の帽子をかぶった男が子どもに言った。「北の海の神さまが、あいつの骨を鉄みたいにしてくれた。獅子だって、あいつの血の匂いを嗅いだら後ずさりするのさ」

子どもは目を丸くした。

そばの酒売りが吹き出した。「神さまだって?剣闘士養成所で育てられた雌狼にすぎねえよ」

「今日は皇帝がお命じになった試合だ」別の男が声を落とした。皇帝の名を口にするときの、あの用心深さで。「海から来た怪物がローマの砂の上でどう死ぬか、トラヤヌスはローマに見せたいのさ」

「お嬢さま、おひとついかがです?」

物売りが声をかけてきた。

「今日は海の怪物ですよ。空きっ腹じゃ夕方までもちません」

お付きの奴隷が手を伸ばして遮ると、物売りはそこでようやく、衣の縁の細やかな紫の線に気づいた。それから、すぐ隣に立つ真っ白な長衣にも。彼はたちまち後ずさり、慌てて頭を下げた。

まわりがいっせいに静まった。元老院議員の娘であるあなたには、民衆とは違う道がある。

群衆は善意には道を譲らない。けれど、あなたの家名と、衣の縁と、隣を歩く女の頭布のためなら、ひとすじの隙間を開ける。

それが叔母のクラウディアだった。あなたの左側を歩いている。

長衣は肩から垂れ、白く、重く、裾には塵ひとつついていない。彼女が通り過ぎると、騒がしい群衆は静かになった。男は頭を垂れ、女は目をそらし、子どもは母親に首の後ろを押さえられる。

叱りつける護衛もいなければ、道を開けさせる奴隷もいない。彼女自身が、ローマを代弁するひとつの命令のようだった。

彼女が通り過ぎてから、ようやく人々はささやき合った。

「首席巫女さまだ」

「女神ウェスタの娘」

「今日は最前列にお座りになる」

「あの方の手が、海の怪物の生き死にを決めるんだ」

「そうさ。神々の意志は、清らかな手を通して下される」

清らかな手。

あなたはクラウディアの、脇に垂れた手に目をやった。関節の細長い指、きれいに整えられた爪。日の光のなかで、その肌はほとんど血の気がなかった。

ずっと幼いころ、あなたはこの手に引かれて、水を打ったばかりの神殿の石段をのぼったことがある。あのとき石段は冷たく、聖火の煙が扉の奥から漂ってきて、月桂樹の苦い香りと混じり合っていた。

ウェスタの巫女は聖火を守る。聖火が消えないかぎり、都は神々の加護のもとにある——ローマ人はそう信じていた。あの手は清らかで、神の意志を表していた。そしていま、同じ手が、何万もの目の前で、ひとりの人間の死に方を決めようとしている。

「巫女さま、ご裁定を!海の怪物に手をお示しください!」

広場を抜け、完成したばかりの大きな石像の前を通りかかったとき、花輪をかぶった少年が台座によじのぼるのが見えた。額に汗の粒をびっしりと浮かべ、石像の足にしがみついて、その剣の柄に口づけしている。

「偉大な軍団長の仇を!獅子よ、海の怪物の心臓を引き裂け!」

彼はクラウディアに向かって、声が裂けるまで叫んでいた。

石像の目は、そのすべてを見ているようだった。あなたは思わず袖を上げ、アーケードの奥から流れてくる、甘ったるく生臭い匂いを遮った。砂糖のようで、血のような匂い。

クラウディアが横目でこちらを見た。その視線があなたの手首にとまる。ほんの一瞬、波のなかにひらめく白のような視線だった。

「アエリア」と彼女は言った。「手を下ろしなさい」

あなたは言われたとおりにした。

袖が滑り落ち、熱気と汗の匂いと脂の焦げる匂いと古い血の匂いが、いっせいに鼻の奥へなだれ込んでくる。あなたはあごを引き、胸を張った。

この場所を嫌ってもいい。石像を嫌ってもいい。血を嫌ってもいい。けれど民衆の前で、耐えられないという顔をすることだけはできない。これは民衆のパンであり、民衆のサーカスなのだから。

とりわけ、今日あなたの隣に座るのは、ローマでいちばん清らかな、決して疑われてはならない女なのだ。

観客席へ続く通路は人でごった返していた。石の壁には席の区分が刻まれている。元老院議員の席、騎士の席、平民の席。身分は入口から振り分けられ、ローマは群衆を整然とした層に切り分けていた。

背後で誰かが声をひそめるのが聞こえた。

「あれがアエリアか?」

「元老院議員の娘だ。前にあの海の怪物を助けたことがあるらしい」

「助けた?今日も助ける気か?ローマの軍団長が道中で死んだんだぞ。あの女が向こうで何をしたか、わかったもんじゃない」

「マルクスか?あれはあの娘の婚約者じゃなかったか……」

「しっ。巫女の叔母さまがすぐそばにいる」

声は途切れ、群衆のなかへ紛れていった。

あなたは歩き続けた。袖のなかで拳を握りしめ、爪が手のひらに食い込みそうになる。クラウディアは振り返らず、歩みも変えなかった。そんなささやきは、衣の裾にさえ触れていないかのように。

通路の先の光が、どんどん大きくなっていく。

影から一歩踏み出したとき、闘技場のすべてが目の前に開けた。

中央の砂はすでに一度掘り返されていた。新しい砂が古い血の跡を覆い、外の土埃より色が淡く、湿った錆の匂いがする。

向かいの高いところに皇帝席があった。紫の天幕が垂れ、金の鷲の飾りが日差しにまばゆく光っている。

その下には執政官、神官、貴婦人、将校たちの席。さらにその下では、平民席の熱狂が空気そのもののように燃えていた。どこを見ても振り回される腕と、歓声と、叫び声。花輪も、陶の杯のかけらも、果物の種も、叫びといっしょに砂の上へ降り注いでいる。

太鼓が鳴った。

まず三度。重く、群衆の喉を断ち割るように。

続いて東門の上から角笛が響いた。重い、金属の震えを帯びた音。

柵の向こうからは、鎖の音と、鉄の輪が石の溝をこすって引きずられる音。そのさらに奥、獣の檻のなかには、低い息づかいが潜んでいた。

真紅の外套をまとった触れ役が砂の上に歩み出た。長い杖を掲げ、鍛えられた声で、皇帝の恩恵を、祭りの栄光を、ローマの勝利を、そして神々の見守るもとで行われようとしている殺戮を告げていく。

西の柵がゆっくりと上がった。

最初に出てきたのは影だった。続いて丸い盾。赤い盾の面には血がしみつき、刀傷だらけで、縁の鋲がふたつ欠けている。それから女の腕。むき出しの肌には古傷が走り、新しい傷は粗い麻布で縛られていた。

彼女が影から日の光のなかへ歩み出ると、群衆の声が一気に跳ね上がった。

海の怪物スキュラが、砂の中央に立っていた。

鉄の骨もなければ、海の霧もなく、海の神などどこにもいない。そこにいるのは、ただのひとりの女だった。肩と背はたくましく、革の鎧が身体にぴたりと沿い、前腕には古い革紐が巻かれ、膝の横には新しくふさがったばかりの傷があって、包帯の縁から赤がにじんでいる。髪はうしろで束ねられ、何本かが首筋に張りついていた。日の光がその目に届くと、灰色のなかから冷たい青緑がかすかに浮かびあがった。

彼女は顔を上げた。海の灰色の目が皇帝席をなぞり、神官席をなぞり、腕を振る群衆をなぞり、そして最後に、ウェスタの巫女の白い頭布のところで、一瞬だけとまった。

クラウディアの手は膝の上に置かれていた。手の甲は青白く、皮膚の下に青い血管が伏せている。

その静止を、最初の罵声が引き裂いた。

「人殺し!」

「マルクスさまを殺したな!」

「軍団長の命で償え!」

「ローマの戦士があいつの手で死んだんだ!」

人々は罵りながら、パンや果物の種や骨や陶器のかけらを投げ下ろした。

陶器のかけらが彼女の足もとに落ちて跳ね、砂のなかへ転がった。彼女はよけなかった。ただ盾を少し持ち上げて、飛んできた骨をひとつ払いのけただけだ。骨が盾に当たって、かすかな音を立てた。

すぐに別の声が湧きあがった。酒気と興奮を帯びた声。

「北海の雌犬め!」

「海の怪物!」

「アマゾニアの娘!」

「アキリアの血筋!」

そのふたつの名が灼熱の空気を飛び越えて、あなたに命中した。銀の留め金の上で、指先がとまった。

アマゾニア。アキリア。

あなたは闘技場の中央の女を見つめ、指の腹で石の手すりの、でこぼこした刻み目をなぞった。

一瞬、何年も前のある日を思い出した。あのときも、ここに近い席に座っていた。ただ、足はまだ下の段に届かなかった。隣にはクラウディアがいた。まだ首席巫女ではなかったけれど、それでも叔母で、白い長衣はいまよりもっと白く、もっと冷たかった。

あの日もウェスタ祭だった。沈みかけた夕日の光が砂を照らし、血の跡を塗り広げたように見えた。

群衆はやはり叫び、吼えていた。あの熱狂の声は、この砂の上に永遠に残るのではないかと思えた。

砂の真ん中に、ふたりの女剣闘士が立っていた。ひとりは網を掲げ、ひとりは短剣を引きずっている。ひとりは肩幅が広く、左腕に血のにじんだ布を巻き、もうひとりは細身で、頬に新しい切り傷があった。

ふたりの髪には、安物の赤い紐が編み込まれていた。

観客席からは花が投げられ、賭けの硬貨も投げられた。花びらが彼女たちの足もとに落ち、銅貨が砂に転がって、かすかな音を立てた。

ふたりは顔を上げて笑った。二筋の陽光のように。ただ、歯には血がついていた。

太鼓の音が速くなり、群衆の叫びがはっきりと耳に届いてきて、あなたの意識を思い出から現実へと引き戻した。

砂の中央に立っているのは、海の怪物スキュラだった。

「殺せ、海の怪物を殺せ!軍団長の仇を!」

誰かが叫んでいた。その叫びのなかで、スキュラは剣を掲げ、それから盾を掲げた。

剣で盾を打つ。

一打目は澄んだ音で、近くの罵声をかき消した。

二打目はもっと重く、船べりを鉄で打ったようだった。

三打目が落ちたとき、群衆の一角が、かえって静かになった。

彼女は皇帝に礼をしなかった。元老院議員たちに頭を下げもしなかった。ただ闘技場の中心に立ち、円形の観客席をゆっくりと見渡していく。一寸、また一寸と。

そして、あなたを見つけた。

その視線は長くはとどまらなかった。けれどあなたの上を過ぎるとき、それは冷たい水が指の骨をなでていくようだった。彼女があなたに気づいたのがわかった。そして、何の合図も返さなかったことも。

高いところで長い角笛が鳴った。

触れ役が蠟板を広げ、そこに書かれた布告を読みあげる。「至高なる皇帝トラヤヌスの命により、ウェスタ祭に試合を献ずる——海の怪物スキュラ、北海の娘、軍団長マルクスを殺めし者、ローマの民の前にて戦うべし」

「戦わせろ!」

「戦わせろ!」

「巫女さまのご裁定を!」

声がふたたび沸き立ち、さっきよりも高くなった。誰かが花輪を投げ下ろし、茎が折れて、スキュラの前に落ちた。彼女はそれをちらりと見て、踏まなかった。半歩脇へずれて、土埃に汚れた花をよけた。

そのささやかな動きに気づいた者は、ほとんどいなかった。

あなたは気づいた。

クラウディアも、気づいたかもしれない。

けれど彼女の手は膝の上に置かれたまま、指の関節ひとつ動かなかった。すべての視線が、彼女のもとへ集まりはじめていた。いちばん下の平民から、紫の縁の長衣が並ぶ席へ、そして闘技場の中央の、怪物と名づけられた女へ。

巫女には囚人を赦す力がある。彼女が手を差し出し、親指を上に向けさえすれば。

いま、ひとつの都市が、一本の手を待っていた。

スキュラはまだそこに立っていた。剣先を下に、盾を身体に沿わせて。皇帝を見ることもなく、民衆を見ることもなく。

彼女は、あなたを見ていた。

あの海の灰色の目が、熱気と砂埃と歓声と十数年分の古い影を突き抜けて、あなたの顔の上でとまった。自分の息が胸骨にぶつかる音が聞こえた。短く、痛い。

腰帯の銀の留め金が、手のひらに小さな三日月の跡を残す。胸を突き破りそうな叫びを、こらえなければならなかった。

彼女が、まだ生きているから。

クラウディアの手が、まだ上がっていないから。

1.2 陽の光の亀裂

本当の物語は、その一年前に始まった。同じこの闘技場で、同じこの血の匂いのなかで、あなたは初めて海の怪物スキュラと出会った。

あのとき、ローマの夏は終わろうとしていた。闘技場の日差しは明るく、砂は照らされて焼けるように熱かった。

あのとき、ローマの軍はまだ旅立っておらず、若い軍団長マルクスもまだ生きていた。

胸甲は奴隷に磨かれて光り、観覧席に座ると、肩の留め金の小さな鷲が日差しのなかで金色にきらめいた。

「アエリア」彼はあなたに言い聞かせた。「ローマを書物のなかだけで知るわけにはいかないよ」

あなたは彼のほうへ顔を向けた。ちょうどいい角度で。冷たくもなく、近すぎもせず。

答えはしなかった。

本来、あなたはそこにいるはずではなかった。父に同行を求められたのだ。あなたの受けた教育は、嫌悪を覚えてもうなずき、黙っていても相手に尊重されていると思わせる術を教えるには十分だった。

マルクスはあなたの左に座っていた。

彼はほかの軍人よりも、観覧の作法を心得ていた。背筋を伸ばし、手のひらを軽く膝に置き、ときおりあなたのほうへ身を傾けて場内の段取りを説明する。声は高くないが、近くの数席には聞こえるくらいに。

「こうした見世物は、民衆に帝国の境界を覚えさせるんだ」と彼は説明した。「ここで獅子やヌミディア人や北の海の奴隷を見れば、ローマの道がどこまで届いたかがわかる」

あなたは小さくうなずいた。

この手の話は聞き飽きていた。宴の席で、元老院の外の列柱の下で、家の書斎で、何度となく繰り返される言葉。ローマの大道、帝国の秩序、元首の栄光……そして文明。

あなたが反論しないのを見て、マルクスは続けた。「われわれの経験するすべては、ひとつの長い見世物にすぎない——Totum hoc quod agimus, spectaculum est.

そのラテン語を口にするとき、彼の口元には笑みがあった。教養を示すのにちょうどいい格言を引いてみせるように。

あなたは返事をせず、場内に目を向けた。

奴隷たちが新しい砂を敷いたところだった。前の試合の血を隠すために。観客席からは抑えきれない叫びが上がり、人々は血の匂いに煽られた獅子のように熱に浮かされていた。

あなたはこの場所が嫌いだった。

円形闘技場、剣闘士の試合場。いくつもの名で呼ばれるけれど、変わらないのは、その本質がサーカスだということだ。

ローマ市民はここでパンを受け取り、処刑を眺め、捕虜が獅子の前に引き出されるのを見る。歓声が上がるたびに、都の飢えも、恨みも、借金も、噂も、一瞬だけ忘れられる。

血が乾き、砂がならされ、日がのぼり、翌日もまた続く。

ギリシア語の家庭教師が、かつて蠟板の端に一行書きつけたことがある。Consuetudo oculorum assuescit etiam malis. 目がいったん慣れてしまえば、悪しきことさえ耐えられるものになる。

あのときは幼すぎて、その意味がわからなかった。けれどいま、闘技場に座って、殺されようとしている奴隷に向かって手すりから身を乗り出し、拍手喝采している子どもを見ていると、なぜか、あの一行をまた思い出していた。

マルクスはまだ話し続けていた。

「今日の女剣闘士は特別なんだ。北海の出で、背はいちばん高いわけじゃないが、持久力がめったにない。お偉方に礼をしたがらないし、観客に媚びもしない。だから嫌う者も多い。でも腕はいいから、民衆は一試合だって見逃したくないのさ」

そう語る声には余裕があった。あなたは彼の、磨きあげられた籠手に目をやった。戦場の泥はついておらず、奴隷に拭かれた油の光があるだけだった。

「名前は?」とあなたは聞いた。

「スキュラ」マルクスは微笑んだ。「北海の、海の怪物さ」

角笛が、その先の言葉を断ち切った。

柵が上がり、最初に獅子が追い出されてきた。

アフリカから来た雄の獅子だった。たてがみは汗と古い血に濡れて首の両側に張りつき、尾は低く砂をかすめて、血の跡をすくいあげていた。

群衆が色めき立った。

「あの女を出せ!」

「海の怪物を出せ!」

反対側の鉄の扉が開き、影のなかからひとりの女が歩み出た。

彼女は高いところへ礼をしなかった。

剣闘士なら誰でも観客席の決まりを知っている。皇帝に、元老院議員に、興行の後援者に、その日の貴人に合図を送ること。ほんの少し頭を下げるだけで、負けたあとに赦しを得られるかもしれないのだ。

けれど彼女は立ちどまることさえなく場の中央まで進み、まっすぐ獅子へ向かっていった。

ブーイングと歓声が同時に降ってきた。

「海の怪物!」

「ローマに頭を下げさせろ!」

「引き裂け!」

獅子が飛びかかったとき、マルクスの指が手すりを軽く叩いた。まわりの貴婦人たちが息をのむのが聞こえ、下の段の観客たちがかかとで石段を踏み鳴らすのも聞こえた。

スキュラは身をひねってかわした。盾が獅子の肩甲骨にぶつかり、短剣がその前脚を切り裂く。血が砂に飛び散り、見る間に色を濃くしていった。

獅子が向き直り、また飛びかかる。爪が盾の面をかきむしり、耳障りな音を立てた。スキュラは三歩押し戻され、かかとが掘り返された砂にめり込む。左腕に爪の先がひと筋の傷を開き、血が肘を伝ってしたたり落ちた。群衆の叫びがさらに大きくなった。

あなたは指先で座席の縁を押さえた。けれど目はそらさなかった。

三度目の突進を受けとめたとき、短剣がついに獅子のあごの下に迫った。ほんの一瞬、刃は獅子の脇腹に突き立てられていた。すぐに引き抜かれ、血が砂に噴き出して、いちばん深い赤がひと面に広がった。

獅子はすぐには倒れなかった。

ぐらぐらと揺れながら、荒い息を吐いている。

「あれはもう助からない」とマルクスが解説した。「今のひと突きは、間違いなく心臓を貫いている」

スキュラはそこに立っていた。剣先を垂らし、胸をゆっくりと上下させ、腕から血を流しながら。

「殺せ!」

「喉を切れ!」

「早く!」

叫び声が四方から押し寄せてくる。人々は、女が剣を掲げて獅子の喉を突き通すことを求めていた。

けれど、スキュラは動きを止めた。

獅子は砂の上にひざまずいていた。前脚を折り、目はまだ開いている。金褐色の目で、強い光のなかで瞳孔が小さく縮んでいた。息をしようとするたびに、喉から血の泡がひとつ、またひとつと膨らんでくる。

スキュラが一歩近づいた。

彼女はしゃがみ込み、盾を脇に置いて、左手で獅子の目を覆った。手のひらが最後のわずかな光を隠す。それから頭を垂れ、唇を動かした。

何を言っているのかは聞こえなかった。ただ、額の髪が垂れ落ちて、その影が獅子の鼻筋にかかるのが見えた。

マルクスが眉をひそめた。

「またか」と彼は言った。「あの女はいつもこういう蛮族じみた真似をしたがる」

たちまち、罵声が観客席から雪崩のように転がり落ちてきた。

「殺せ!」

「獣のために祈るな!」

「海の怪物は血が怖いのか?」

スキュラは獅子の目を覆ったまま、短剣を獅子の喉へ送り込んだ。動きは清く、速かった。獅子の身体がひとつ痙攣し、尾がわずかに砂を跳ね上げる。深紅の血がゆっくりとしみ広がり、その身体の下の影と混じり合った。

それでもスキュラはすぐには立ちあがらなかった。もう何も見えなくなったその目を手で覆ったまま、最後の息がすっかり消えるまで待っていた。

観客席はまず沈黙し、それから声がふたつに裂けた。

「あいつを殺せ!ローマを愚弄しやがった!」

「この蛮族を処刑しろ!」

「でも勝ったじゃないか!」

「生かしてやれ!」

手を叩く者、歓声を上げる者、立ちあがって罵る者。

マルクスが身を寄せてきて、ごく小さな声で言った。

「勝つには勝ったが、見栄えがよくない。民衆は逆らわれるのが嫌いなんだ」

あなたは砂の上を見ていた。スキュラがようやく立ちあがった。礼もせず、剣も掲げず、勝利を誰かに捧げることもしない。ただ剣についた血をゆっくりと拭った。何か必要な片づけを終えるように。

マルクスはあなたの声を待っていた。彼があなたの父のお気に入りの若い将校で、この見世物であなたを喜ばせたいと思っていることはわかっていた。けれど彼はたぶん、あなたが群衆の流れに、あるいは彼のまなざしに従うと思っていたのだろう。

あなたは手を上げ、親指を上に向けた。

処刑に反対する。

隣で、一瞬の沈黙があった。マルクスはあなたを見て、すぐに笑った。予想外のことを自分の芝居に取り込むように。彼は立ちあがり、下の群衆に向かって腕を掲げ、あなたの代わりに赦しを呼びかけた。

「勝ったのはこの女だ!ローマは、殺しを知る奴隷ひとりなど恐れはしない。生かしてやれ、次の試合でまたローマのために血を流させよう!」

若い軍団長の声はよく響き、身ぶりは見事だった。ローマ人はそういう見事さを好む。祭りの日は赦しで締めくくるべきだ、勇者はもう一度戦うに値する、と彼は呼びかけた。

群衆はあっという間に変わった。死が娯楽になるのなら、赦しだってなりうる。

最後に、触れ役がスキュラの助命を告げた。

彼女はひざまずいて感謝することもなく、剣をおさめ、背を向けて砂を去った。柵の前まで来たとき、初めて貴族の席を見上げた。その目はマルクスの光る肩当てを越えて、あなたの上でとまった。

海の灰色だった。ローマでなら、それはあなたの叔母クラウディアと同じ目だっただろう。

母がかつて教えてくれた。巫女の海の色の目は、知恵の女神アテナから受け継いだ色で、闇を見通し、すべてを見抜くのだと。

けれどいま、その青が北海の蛮族に現れると、それは怪物の傲慢と野蛮のしるしになるのだった。

1.3 言い尽くせなかった言葉

「彼女を助けたね」とマルクスが言った。

その口調にはちょうどいい分量の驚きがあった。多すぎず、あなたの気分を害さない程度に。少なすぎず、あなたの選択に気づいていると示すのには足りる程度に。

あなたは鉄の扉がゆっくりと下りていくのを見ていた。

「処刑に反対しただけよ」

「ここでは、処刑に反対するのも赦すのも、たいして変わらないさ」彼は少し笑った。「とりわけ、あなたの手から出たものならね。それで——どうして?」

下の砂では、奴隷たちがふたたびそれをならしていた。獣使いたちが鉄の鉤で獅子の死骸を引きずっていき、きれいな黄色い砂が籠からまかれて、血の跡を覆っていく。

あなたはすぐには答えなかった。

マルクスは辛抱強く待っていた。元老院議員の娘が口を開くのをどう待てばいいのかも、自分の沈黙をどうすれば敬意に見せられるのかも、彼は心得ていた。

Sunt lacrimae rerum et mentem mortalia tangunt. ものごとには涙があり、人の世の重荷は心に触れる」とあなたは言った。

彼はわずかに眉を上げた。

「母の本よ」とあなたは付け加えた。「形見のひとつ」

あの本の匂いはいまでも覚えている。没薬の匂いがして、革の表紙は手に擦られて黒ずんでいた。母の字は細いけれど端正で、こっそり詩句を書き写したかのようだった。

幼いころはあの詩の意味がわからなかった。ただ、母がそこまで読むと、ページの端に手を置いたまま、長いあいだめくらずにいたことだけを知っていた。

マルクスは小声でその一行を繰り返した。発音は正確で、語尾も美しかった。

「あなたのお母さまがこれを書き写したのなら、きっと愛していたんだろうね」と彼は言った。「闘技場でこれを思い出せる人は、ここにいるたいていの人間よりも高貴だよ」

実のところ、あの一行はクラウディア叔母の書き込みだった。けれど訂正するのも面倒だった。

マルクスは一言たりとも無駄に地に落とさない人だった。彼はもう身を寄せてきていた。

「あの蛮族が最後に何をしたのか、知りたいんだね」と彼は言った。

あなたは否定しなかった。

マルクスはその沈黙を待っていたかのように立ちあがり、手を上げて、あなたのお付きの者たちに下がるよう合図した。

「興行主とは顔なじみなんだ。試合のあとなら、下もそれほど恐ろしくはない。近くで見てみるといい。あの一行が彼女に使われても無駄じゃなかったと、思えるかもしれない」

断るべきだった。

貴族の娘が理由もなくあんな場所に出入りするべきではない。ましてや若い将校に連れられて、砂から下りてきたばかりの剣闘士を見に行くなど。けれどあなたは、獅子の目を覆ったあの手を、声にならなかったあの言葉を思い出していた。

観客席で、もう手を上げてしまったのだ。いまさら断るのは、少し遅すぎるように思えた。

だからあなたはマルクスの手に自分の手を重ねた。ごく小さな動きで。まわりには礼儀正しく見えるくらいに、親しげには見えないくらいに。

「行こう。彼女はすぐ下にいる」

闘技場の地下通路は観客席よりも低く、そして暗かった。

湿った石の壁に松明が差し込まれ、煙が鼻をつく。鉄の柵に残った血はほとんど黒く変わり、蝶番のそばには獣の毛が何本かこびりついていた。

剣闘士たちは低い腰掛けに座っていた。医術奴隷に肩の傷を縫わせている者、軽石で肌の砂を擦り落としている者、水に浸した粗末なパンを黙って食べている者。ここの匂いは重かった。脂、汗、酢、薬草、血。それらが混ざり合い、観客席の匂いよりもさらに逃れがたかった。

この剣闘士たちは、告知板に描かれた勇者でもなければ、詩のなかの人物でもなかった。

彼らは財産だった。

手首には番号の焼き印があり、すべてがきちんと記録されている。どれだけの豆粥を食べられるか、傷が何日でふさがるか、次の試合にどれだけの賭け金がつくか。強い者は高価な軍馬のように飼われ、弱い者はすぐに消えていく。木剣の稽古でできた青あざが古傷の上に重なり、革帯が腰を擦りむき、鉄兜の内張りは汗を吸いきっていた。

マルクスは剣闘試合の熱心な愛好家で、勝手知ったる足どりで進んでいく。彼に礼をする者もいれば、うつむいて脇へよける者もいた。興行主が迎えに出てきた。顔は脂でてかり、指には太い指輪がふたつはまっている。

「軍団長さま、今日もあの北海の雌狼が騒ぎを起こしましてね。あなたさまがいらっしゃらなかったら、どうおさまったことか」

「でも、あいつはいつも餌代を稼いで返してくれるだろう」とマルクスが言った。

何人かが笑った。

あなたは笑わなかった。彼らの向こう、通路の突き当たりに目を向けていた。

スキュラがそこに座っていた。

盾は足もとに置かれ、剣はすでに取りあげられていた。革の鎧はまだ脱いでおらず、肩の擦り傷から血がにじんでいる。医術奴隷がひとり、水盆を持ってそばに立っていたが、近づいていいものか迷っているようだった。彼女はその奴隷には構わず、うつむいて手首の革紐をほどいていた。

松明の光がその顔を照らし、影が頬骨を横切っていた。暗がりのなかで、海の灰色の目は、深い海の底の氷のようだった。

マルクスは鉄の柵の前で立ちどまり、しばらく彼女を眺めた。

「妙だな」と彼は言った。「あの顔、どこかで見たような気がする」

スキュラは顔を上げなかった。

「ここに連れてこられる人は、長く見ているとみんな似てくるのかもしれないわ」とあなたは言った。

マルクスは微笑んだ。「いや、あの女は少し違う……」そこで言葉を切った。ふさわしいたとえが見つからないらしく、すぐにあきらめた。「まあいい。北の蛮族には、ときどき妙な血が混じっているものだ」

彼はあなたのほうへ向き直り、口調をまた軽くした。

「彼女に何を聞きたい?」

あなたは彼女のほうへ近づいた。

「さっきのあの仕草は、どういう意味?」

スキュラの指が一瞬とまり、それからまた革紐をほどきはじめた。

マルクスが素早く代わりに答えた。「どうせ何かの野蛮な儀式だよ」

あなたは彼を見なかった。

「獅子に、何を言ったの?」

今度は、スキュラの指はとまりさえしなかった。

鉄の柵の両側に沈黙が落ちた。遠くで誰かが罵り声を上げ、医術奴隷の銅の盆がひっくり返って、水が石の割れ目を伝ってこちらへ流れてきた。薄い赤の水だった。

マルクスは小さくため息をついた。続けるに値しない玩具を大目に見るように。

「ラテン語がわかるとはかぎらないよ」と彼は言った。「わかったとしても、あなたが誰なのかは知らない。こういう獣には、一日よけいに生きられたのがあなたのおかげだなんて、わかりはしないさ」

スキュラがようやく、ちらりと目を上げた。

彼を見たのではなかった。

あなたを見たのだ。

とても短い視線で、マルクスは気づかなかった。彼はまだ話していた。「あの女に時間を無駄にすることはない。あなたはもう、あいつが受けるべき以上のものを与えたんだ——」

反対側から足音が聞こえた。細い縁取りのトガをまとった高官が何人か、紫の縁を松明の光に揺らしながらやってくる。皇帝の側近かもしれなかった。

マルクスはすぐに振り向いた。

笑みは跡形もなく切り替わり、彼はあなたに軽く身をかがめた。「少しお待ちを。あちらにご挨拶してくる。すぐに戻るよ」

あなたの返事を待たずに、彼はもう迎えに出ていた。

あなたはその場に残った。

鉄の柵の前には、あなたとスキュラだけになった。

遠くでは観客がまだ彼女の名を叫んでいるのが聞こえた。石の壁に削られたその声は、ひどく深い井戸の底から響いてくるようだった。

あなたは半歩前に出た。

「あの仕草は」ごく小さな声で言った。「どういう意味だったの?」

スキュラはあなたを見て、ようやく口を開いた。ラテン語はぎこちなかったが、声ははっきりしていた。

「その魂が、ネハレンニアの腕のなかへ還りますように」

あなたは彼女を見つめた。

わかっている。彼女はずっと、ラテン語がわかっていたのだ。

松明がひとつ火の粉を吐き、湿った石の上に落ちて、たちまち消えた。

ネハレンニア。聞いたことはあった。北海の異神の名で、人々が子どもを脅かすときに持ち出す名前だ。

「ネハレンニア」とあなたは小さく繰り返した。

「海の女神」と彼女は言った。「霧と、潮と、帰りの航海。陸で死んだものにも、帰る道がいる」

そう言い終えると、彼女はまた黙った。

もっと聞きたかった。どこから来たのか、どうして獣を殺す前に送りの言葉をかけるのか、どうして皇帝席に礼をしないのか——ラテン語が話せるのに、なぜ黙っていたのか。

目の前にあるのは、あの沈黙した海の灰色の目だけだった。母の本のページにあった、別の書き込みを思い出した。本文よりも淡い墨で、書いた人が長いあいだ手をとめていたかのような一行。

「顔は黙っていても、目は語る。(Facies muta, sed oculi loquuntur)」

スキュラが不意に顔を上げた。

「あなたの目は」と彼女は言った。「わたしが知っている人に似ている」

理由もなければ前置きもない、刃物のように唐突な言葉だった。

あなたは一歩後ずさった。

子どものころから、何人もの人にそう言われてきた。髪を梳いてくれる奴隷の女も言ったし、酔って黙ってあなたを見つめる父も言った。あなたは母の目をしている、ほとんどそっくりだ、と。あの目は、棺のそばの蠟燭の明かりのなかで誰もが思い出し、そして誰もが、あなたの顔のなかにもう一度見つけ出したのだった。

あなたは鉄の柵をつかんだ。

「誰に?」とあなたは聞いた。

スキュラは答えなかった。その視線は、あなたの肩の向こうへ移っていた。

通路の向こう端から、マルクスの笑い声が聞こえてきた。何人かの高官と連れ立って、こちらへ戻ってくる。

あなたは出かかった言葉をのみ込んだ。貴族の娘が剣闘士に憐れみの言葉をかけるのはかまわない。けれど人目のある場所で、ひとりの奴隷の記憶を問いつめるべきではない。

とりわけマルクスのそばで、興行主のそばで、あらゆる沈黙を噂の種に変えてしまう貴族たちの前では。

あなたは半歩下がり、鉄の柵から手を離した。

錆が指の腹に、赤茶けた跡を残した。

マルクスがあなたの隣に戻ってきた。口調は丁寧になっていた。「待たせてすまなかった。ここは匂いがひどい。外まで送ろう」

あなたはそれ以上何も聞かず、マルクスについて背を向けた。

けれどあの言葉は、湿った通路を抜けても、まだ消えない観客のこだまを抜けても、松明の煙と黒い血の匂いを抜けても、あなたについてきた。

爪の間に刺さったささくれのように、それはその後の静かなひとときに何度も、あなたにあの海の灰色の目を思い出させたのだった。

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