The Song of Inanna イナンナの歌

資料室

坑内のいちばん深い場所で働いた女たち——日本の女性鉱夫の実像

明治の日本の炭鉱では、女性が坑内のいちばん深い場所で、二人一組になって石炭を掘っていた。日本の女性鉱夫の実際の歴史。

明治から昭和前期の日本の炭鉱では、採炭はしばしば二人一組で行われました。前で炭層を掘る人を「先山」、掘り出した石炭を坑道の外へ運ぶ人を「後山」といいます。九州の筑豊などの炭鉱では、この「後山」をほとんど女性が担っており、「先山」そのものを務めた女性もいました。蒸し暑く風の通らない坑道のなかで、腰に一枚布を巻いただけの姿で一日の重労働を始めることも多く、彼女たちは日本の近代工業化のいちばん重く、いちばん語られてこなかった部分を支えていました。

地下の蒸し暑い坑のなかで、彼女たちは働きながら労働歌『炭坑節』を歌いました。この歌はのちに整理され、広まって、やがて日本じゅうに知られ、盆踊りでおなじみの曲のひとつにまでなっています。

明治期の白黒写真。筑豊炭鉱の選炭場で、並んで石炭を選り分ける女性たち

一、明治の鉱山の信仰——山の神は女神である

明治時代、鉱夫のあいだにはこんな信仰がありました。落盤や事故が起きるのは、誰かが山の神を怒らせ、「山の神の祟り」を招いたからだ、というものです。山の神を怒らせる行いには、入ってはいけない時期に無理に山や坑へ入ること、山の神が目をかけているもの(たとえば動物)を傷つけたり汚したりすること、そして「不浄なもの」、つまり血を持ち込むことなどが含まれていました。

女性の生理の出血も、そこで「不浄」とみなされます。そのため、生理中や産後の女性鉱夫は、ふつう坑内に入ることを禁じられていました。

けれど興味深いことに、人々は同時にもうひとつのことも信じていました。山の神そのものは、女性の神なのだ、と。

二、「山の神さまも女なのだから、分かってくださる」

身体のことや出産で坑に入れなくなれば、女性はその日の収入を失います。当時、多くの鉱夫の賃金は日ごとに支払われていました。暮らしのために、こっそり坑へ入りつづける女性鉱夫は少なくありませんでした。草鞋や新聞紙のようなものを簡単に当てて身体の状態を隠し、いつもどおり坑へ下りる人もいれば、妊娠していてもなお働かざるをえず、坑内で出産した人さえいました。

「山の神を怒らせるのではないか」という言い方に対して、女性鉱夫たちには彼女たちなりの受け止め方がありました。山の神そのものが女性なのだから、生理も妊娠も出産も分かっているはずで、女性の身体の自然なはたらきのために怒って災いを下したりはしない、と信じていたのです。

山の神さまも女なのだから、分かってくださる。

この考え方には心を打たれます。ひどい環境に置かれていても、女性はただ決まりを受け入れていただけではありませんでした。自分のやり方で世界を理解し、息のできる場所を自分のために少しだけ確保していたのです。

三、いまも山あいにある小さな祠

いまでも日本の山には、小さな神像や祠があちこちにあります。供え物を上げれば、この山の神の化身が守ってくれると、いまも覚えているお年寄りは少なくありません。

日本の山道のわきにある木彫りの山の神像。前の石の台に、参る人の供えた硬貨が置かれている

林のなかの岩の上の石像。前に花と、茶碗がふたつ供えられている

シダの茂みの前にある、風化した小さな石像。台の前には燃え終えた線香が残っている

四、鉱山の女たち

1920年代の筑豊炭鉱では、労働者に占める女性の割合が25%から30%に達した時期もありました。一日の労働時間は12時間を超えることが多く、背負ったり運んだりする重さは50キログラムを超えることもしばしばでした。いまの人から見れば、ほとんど想像しがたい労働の強さです。しかも当時、子どもを連れて働いていた女性も少なくありませんでした。

明治期の白黒写真。白い布を頭に巻いた女性鉱夫が、選炭場で石炭を洗い分けている

白黒の古写真。斜面で腰をかがめて石炭を積み込む女性鉱夫たち

五、危険で、つらくて、それでも自分の労働を誇っていた

女性鉱夫の仕事はきわめて過酷で、怪我や死の危険とつねに隣り合わせでした。それでも同時に、自分の仕事に強い自負と誇りを持っていた人は多くいました。ひとつには、実際にきわめて重い労働を担っていたからです。もうひとつには、炭鉱の仕事はつらいけれど、相対的に高い収入をもたらしたからでもあります。当時の多くの働く女性にとって、これは危険ではあっても、自分を支えてくれる仕事でした。

大橋弘『1972 青春軍艦島』の記述によれば、体重が40キログラムほどしかない女性が、70から80キログラムの坑木を担ぐこともあったといいます。石炭を竹籠に入れ、坑道から少しずつ運び出し、それを小さな車に積んで、人力で波止場まで押していき、船に積み込みました。

色あせた古写真。波止場で、労働者たちが石炭を次々と停泊中の運炭船へ積み込んでいる

六、そのあと、彼女たちは描かれ、書かれ、残された

日本の女性鉱夫の歴史については、実は少なくない資料が残っています。市井の画家・山本作兵衛は炭坑を題材にした絵と記録を大量に描き、筑豊炭鉱の労働の場面を実際に記録しました。そこには、女性が上半身裸で重いものを運ぶ姿、狭い坑道を這って進む姿、炭鉱での暮らしの様子が含まれています。これらの作品はのちにユネスコの「世界の記憶」に登録されました。

山本作兵衛の絵。低い坑道を這って進み、石炭を満載した竹籠を引く女性鉱夫

山本作兵衛の絵。つるはしを振るって採炭する鉱夫

さらに、作家の森崎和江は、福岡の最後の世代の「後山」の女性鉱夫たちに聞き取りを行い、その口述を『まっくら 女坑夫からの聞き書き』としてまとめました。この本はおおむね1960年前後の取材によるもので、女性鉱夫自身が語る坑内の暮らしと、彼女たちが自分の労働と身体と運命と時代をどう見ていたかを記録しています。

森崎和江『まっくら 女坑夫からの聞き書き』(岩波文庫)の表紙

七、ひとつの「保護」と、奪われた誇り

この本によれば、1933年に日本は『改正坑夫雇傭規則』を出し、女性と16歳未満の未成年が坑内で働くことを禁じました。どこかで見たような場面です。ほかの国の女性鉱夫を紹介した記事にも、同じことが出てきました。

この規定は、一見すると女性を守るもののように見えます。けれど当時の女性鉱夫の状況から見れば、それは同時に、重要な働き口と収入源を失うことを意味していました。

自分の労働を誇りにしてきた女性鉱夫たちに最後に残ったのは、職業としての立場を奪われた痛みでした。

物語の背景

この記事は、オリジナル小説『パンとバラ』のための調査ノートです。『パンとバラ』は1910年の南ウェールズの炭鉱地帯を舞台に、落盤事故とストライキ、そして炭鉱の女たちのあいだの労働と階級と友情を描きます。この記事の中国語原文は她们曾在矿井最深处工作:日本女矿工的真实历史にあります。

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