『女剣闘士の死』第五幕:海の怪物への供物
オリジナル小説『女剣闘士の死』第五幕(完結)。海の洞窟に刻まれたふたりの姉妹の幼年時代、スキュラが拒んだ皇帝への上訴、暗がりで剣を握る巫女。そして九日間の最初の日、ただひとりに向けられた敬礼。
5.1 海のない港
冬のローマは、夜の訪れが早い。
ウェスタ神殿を出たとき、世界はもう真っ暗な闇に沈んでいた。
門を守る巫女はまだ祈りを捧げていて、白い長衣が石段の縁から垂れていた。あなたは階段を下り、通りにそってそこを離れた。神殿も、法廷も、フォルムも、父の屋敷も、すべて背後に置き去りにして。
けれど、耳にはまだいくつかの言葉が残っていた。
十六歳で聖火のかたわらで子を産んだ巫女は、クラウディアだった。
海辺に捨てられ、北海の女たちに抱かれていった子は、スキュラだった。
アマゾニアとアキリアは、罪が暴かれることへのクラウディアの恐れによって死んだ。
あなたの母は、若いころのスキュラの逃亡によって死んだ。
スキュラはあなたの姉だった。彼女の血には、あなたとよく似た血が流れている。
それなのに、彼女はあなたの母の死に絡んだ人間でもあった。
あなたはすべてを知った。けれど世界は、それで変わりはしなかった。通りでは熱い酒を売る屋台に人が群がり、陶の杯から甘酸っぱい酒の匂いが立ちのぼっている。蜂蜜菓子の半分を手にした子どもがあなたのそばを駆け抜け、うしろの女に小声で叱られた。
ローマは、まだ回り続けていた。
商船が港に着き、荷が下ろされ、税吏が記録をつけ、奴隷が運んでいく。エジプトの穀物も、ギリシアの酒も、パルティアのガラスも、北の琥珀や毛皮も、あいかわらず一隻また一隻と、この都に入ってくるのだろう。
空の月と星は変わらずそこにあった。神々は一度も、この世の乱れを見下ろしたことがないかのように。
あなたは川岸に立って、海岸のほうを、黒い水の上の火の光を見た。
何年も前、アキリアとアマゾニアもこうして遠くから来たのだろう、と思い描いた。船板には黒い瀝青が塗られ、帆には塩の霜がつき、船倉には毛皮や、鯨ひげや、琥珀や、粗い羊毛や、海の獣の長い牙があって、そしてローマ人が華やかな陶の壺に詰めることになる竜涎香があった。
ふたりは北海から、たくさんのものを運んできた。そして持ち去ったのは、ローマが存在を許さないひとりの子どもだった。
ここはローマ。世界の中心であり、法の中心であり、聖なる火と道の中心だ。
それなのになぜ、あなたは神殿に救われ、あなたとよく似た血の流れるスキュラは砂の上へ送られて、九日間の戦いであらゆる人の罪を償わなければならないのか。
あなたは岸にそって歩き続けた。
どれほど歩いたのかわからない。足もとの平らな石畳が、湿った岩肌に変わっていった。主な波止場から離れるにつれて、波の音は耳を刺すように鋭くなり、岩の洞窟が月の光の下に潜んでいた。見上げると、洞窟の入口は潮と風に磨かれて丸くなっていた。なかはとても暗く、横から月の光が斜めに差し込んでいるだけだった。
あなたは、クラウディアが話してくれたことを思い出した。
彼女とあなたの母は幼いころ、ここでかくれんぼをした。それぞれ小さなナイフを一本ずつ持って、別々の洞窟に隠れ、岩の内側に短い言葉や、詩の一行や、ふたりにしかわからない印を刻んだのだと。
あなたは身をかがめて、なかへ入った。
岩は湿っていて、海藻は滑りやすかった。歳月がすべてを持ち去ってしまったかのようだった。けれど手を上げて岩肌の細かい砂を払うと、指の腹がくぼんだ刻み目に触れた。
本当に、字があった。
灯りをかざすと、いちばん下の数行はとても浅く、明らかに幼い子の手によるものだった。文字は傾き、途中まで刻んで詰まってしまったものもあった。
Luna super aquam ridet. 月が、水の上で笑っている。
そのそばに、ふらふらとした字でもう一行書き足されていた。刃の跡は深くなったり浅くなったりしている。
Si luna cadit, ego capiam. 月が落ちてきたら、わたしが受けとめる。
あなたは一瞬、息をのんだ。その字は、きっと母のものだ。
その隣の一行はもっと端正で、筆づかいは細く、落ち着いていた。
Parva manus saxum vincit, si cotidie redit. 小さな手でも、毎日鍛えれば、石を砕ける。
それはクラウディア叔母だった。彼女の字は、いつもこんなふうにきちんとしている。
そしてその下に、傾いた字がぴったりとくっついて言い返していた。
Saxum durum est. Claudia durior. 石は硬い。でもクラウディアのほうがもっと硬い。
あなたは小さく笑った。
母の肖像画の静かな顔を思い出した。母の本のページの、細やかな書き込みを思い出した。
母も、岩にこんないたずらな言葉を刻んでいたのだ。袖のなかにこっそり隠した小さな貝殻のように、クラウディアにしか見つけられない言葉を。
端正な字が書いていた。
Si ventus vocat, respondebis? 海風に呼ばれたら、答える?
その隣に、ふらふらした字が応えていた。
Respondebo, sed mater audit. 答えるよ。でも、お母さんが聞いてる。
いまでは、ふたりの姿がほとんど見えるようだった。
小さなクラウディアが岩の前にひざまずき、正しい持ち方でナイフを握り、眉を少し寄せて、一文字ずつ手本どおりに刻もうとしている。あなたの母はそのそばにしゃがみ、衣の裾を海水で濡らして、クラウディアが夢中になっている隙にこっそり一行多く刻み、振り向いて歯を見せて笑っている。
クラウディアは世界でいちばん賢い女の子だった。
ずっと幼いころ、母がそう話してくれたのを覚えている。詩を覚えるのがいちばん速くて、字がいちばん上手で、神官に何を聞かれても答えられた、と。人々はいつも、クラウディアのほうが姉みたいだと言った。一つ年上なのは母のほうだったのに。
そう話すとき、母はいつも少し悔しそうだった。子どものころのあの競争が、まだ終わっていないかのように。
あなたはさらに灯りをかざしていった。
いくつかの刻み目のそばには年齢が記されていた。五歳、六歳、七歳。
ウェルギリウスの詩もあれば、ホラティウスの名句もあり、明らかにふたりで作った短い言葉もあった。
端正な一行。
Duae sorores, unus ventus. ふたりの姉妹、ひとつの風。
傾いた字が、それにぴったりと寄り添っていた。
Si ventus fugit, currimus. 風が逃げたら、わたしたちが追いかける。
さらに先では、クラウディアの字はもっと小さく、もっと美しくなっていた。
Ignem time, sed noli umbram amare. 火を畏れなさい。でも、影を好きになってはだめ。
そしてあなたの母はそのそばに、岩を痛がらせようとでもするように深く刻んでいた。
Ego umbram amo; ibi ludere licet. わたしは影が好き。あそこなら遊んでいいから。
あなたはその字をなでた。
ふたりはかつて、ただの小さな女の子だった。ひとりは真面目で、ひとりはいたずら好き。ひとりはいつもきちんと書き、ひとりはいつもそのそばに冗談をひとこと付け足す。
ふたりはここで大人たちの目を逃れ、詩も、言い争いも、小さな勝ち負けも、岩のなかにしまい込んだ。潮は来ては去り、何年もたったのに、まだあのころのふたりを完全には連れ去っていなかった。
それから、あなたは端正な字が突然途切れているのに気づいた。
その年、クラウディアは十歳だった。
彼女はウェスタ神殿に選ばれたのだ。
それからは、壁には母の字しか残っていなかった。妹がいなくなったあとも、母はここへ来ていたらしい。月に一度くらいか、あるいはもっと少なく。その字は以前よりさらに傾き、場所も低くなっていた。刻む人がもう、いちばんいい場所を誰かと奪い合う必要がなくなったかのように。
そこには、気まぐれな日付や、とりとめのない言葉や、警句や格言が刻まれていた。
最後の一行まで。
Sola ludo. Roma te tulit. ひとりで遊んでる。ローマがあなたを連れていったから。
あなたはその一行の前に、長いあいだ立ち尽くしていた。
ローマはクラウディアを聖火のそばへ、白い衣のなかへ、人々の畏敬のなかへ連れていった。それからの彼女はウェスタのもの、都のもの、決して破られてはならない誓いのものになった。
そのあと何が起きたのか、クラウディアは話さなかった。
あれほど賢く、あれほど慎重な人だった。神殿の優等生で、どう立ち、どう黙り、どう過ちを覆い隠せばいいのかを誰よりも知っていた。赦されないことを犯したときでさえ、賢い彼女は、それを始末するいちばん完璧な方法を探したのだろう。何年もたって、その罪が別のかたちで彼女の前に戻ってくるまで。
そしてあなたの母は、それほど賢くもなく、それほど真面目でもなかったから、ローマにもとの場所へ置き去りにされた。
母はのちに嫁ぎ、あなたを産み、あなたの記憶のなかの、声が柔らかく、袖から薬草の香りのする女になった。けれどこの岩の上では、母はいまも、字の傾いたあの小さな女の子のままだった。潮が引いたあとの洞窟に潜り込んで、ひとりで遊んでいる。
落ちてきた月を受けとめて、影と遊んで、そしてほかの誰もが奴隷を品物として扱うときに、馬車を止めて、ひとりの子どもにどこから来たのかと尋ねる人。
あなたは不意に思った。母が、もう少しだけ慎重だったらよかったのに。
もう少し慎重だったら、何かおかしいと早めに気づいていたら、スキュラのあの目がクラウディアとこれほど似ていることに気づいていたら、見知らぬ子どもをあれほど簡単に馬車に乗せたりしなかったら。もしクラウディアが話していてくれたら、たった一言でも……
けれど、クラウディアは話さなかった。
クラウディアは幼いころからそういう人だった。真面目で、ひとりで立ち、黙って、すべてを自分の背に負う。たとえ背中にローマじゅうがのしかかっていても、背筋を伸ばして、ローマが必要とするかたちになる。
そしてあなたの母は、ローマを選ばなかった。
あなたの母になることを選んだのだ。
あなたは額をそっと岩に押し当てた。湿り気が肌にしみ込んで、冷たい手のようだった。あなたは母が最後に残した一行をなでた。その刃の跡は、母がかつてこの世に残した小さな裂け目だった。一族の系譜にもなく、父の書斎の文書にもなく、ローマの記念柱にもない。
ここにだけある。
潮が満ちて、また引いていく、この場所に。
立ちあがろうとして岩に手をついたとき、指先が思いがけず隅に触れた。そこに、もっと細かな刻み目がひとかたまりあった。
塩の霜にほとんど覆われていたけれど、ほかよりもはっきりしていた。字はとても小さく、とてもきちんとしていて、岩の内側のいちばん目立たない場所に隠れていた。刻んだ人が、残しておきたいと思いながら、見られるのを恐れていたかのように。
あなたは身をかがめて、灯りを近づけた。
Vade ubi Roma non est, parva unda.
行きなさい、わたしの小さな波。ローマのない場所へ。
それは、クラウディアの字だった。
5.2 成り立たない上訴
また冬が過ぎ、また夏が来ようとしていたころ、あなたは地下牢で、あの目にふたたび会った。
海の灰色。
松明の光は弱すぎて、かつてのあの青緑を照らし出すことはできなかった。夏が近いというのに、地下牢は冷えきっていた。鉄格子にも石の壁にも水滴がびっしりとつき、濡れた藁は黒ずんでいた。
空気はかびくさく、吐き気をもよおす匂いがした。
通路の突き当たりの牢の、その暗がりのなかに、スキュラが壁にもたれて座っていた。
日の差さない牢暮らしは、彼女をほとんど打ちのめしていた。肩はまだ広かったけれど、以前のように、いつでも立ちあがって刃に飛びかかれる人には見えなかった。手首には古い傷の上に新しい傷が重なり、唇はひび割れ、短く切られた髪は乱れて伸び、首筋に張りついていた。
足音を聞いても、彼女は最初は顔を上げなかった。あなたが鉄格子の前まで来るまで。
その瞬間、彼女の目が光った。
喜びではなかった。
驚きだった。
牢番は金を受け取って、向こう側の錠を見まわるふりをしていた。松明は壁に残され、あなたとスキュラの影を、湿った冷たい床に映していた。
「来るべきじゃなかった」とスキュラは言った。
彼女のラテン語は、初めて会ったときよりずっとなめらかになっていた。牢のなかでも、彼女はこの言葉を忘れなかった。むしろひとつひとつの言葉が、いっそう鋭くなっていた。
あなたは鉄格子に近づいた。
「あなたを連れ出しに来たの」
彼女は目を上げてあなたを見た。
「ここから?」
「ローマから」
スキュラはあなたを見つめ、何も言わなかった。
あなたは袖から一巻の文書を取り出した。判決のあとの数か月、あなたは母の遺した人のつながりを使った。軍の帳簿を、属州どうしの手紙を、マルクスの父の東方遠征後期の軍務の記録まで調べ、人に頼んで手に入れた。
父には頼まなかったし、クラウディアにも言わなかった。力を貸してくれたのは、たいてい、母が生前に救った奴隷たちだった。
彼らは黙っていて、名もなく、けれど巨大な地下水脈のように、ローマのすみずみまでしみ込んでいた。
「マルクスの父親は、清廉なんかじゃなかった」あなたは単刀直入に言った。「東方遠征のあいだ、軍の食糧を着服して、傷んだ麦やかびた豆を部隊に配っていた。そのあと、その駐屯部隊が反乱を起こすと、責任を土地の反乱民に押しつけて、下級の軍吏を何人も処刑した。マルクスが逃げ出した駐屯地は、もともとそのせいで兵の心が揺らいでいたのよ」
スキュラはまだあなたを見ていた。
あなたはいつもより早口で話し続けた。すべてを彼女の前にぶちまけてしまいたかった。
「帳簿係の写しを見つけたの。追放された書記がひとり、証言すると言ってくれている。これをマルクスの逃亡と結びつけさえすれば、陪審のこのあいだの判決は揺らぐわ」
松明がぱちりと音を立て、壁の影が震えた。
「あなたは上訴しなければならない」とあなたは彼女に告げた。「そして、わたしが証言する。いい?あの法廷にじゃない。皇帝に、よ」
スキュラの目がわずかに細くなった。
「皇帝」
彼女は繰り返した。
「そう。皇帝の御前での裁きよ」
あなたは文書をいっそう強く握った。
「トラヤヌスがみずから裁くの。あの人は軍のなかの腐敗や陰謀を憎んでいる。記念柱ももうすぐ完成するから、あの失敗した東方遠征が清らかなものであってほしいはず。マルクスの一族は軍功で成り上がった家よ。父から子まで軍の規律を腐らせていたと証明できれば、これはもう、剣闘士がひとり人を殺したというだけの話じゃなくなる」
あなたは鉄格子に身を寄せ、指が冷たい鉄に触れた。
「あなたは前に、わたしの海はどこにあるのかと聞いたわね」
スキュラの視線がとまった。
「ここには海がない」あなたは彼女を見つめ、彼女に答えた。「だったら、わたしがここを海にしてみせる」
地下牢はしばらく静かだった。
火の光が壁に映り、かすかに揺れていた。スキュラはゆっくりとうつむき、自分の手首を見た。笑いもせず、あなたが思い描いていたどんな表情も見せなかった。
「それはできない」と彼女は言った。
「できるわ」
「できない」
「まだ最後まで聞いてもいないじゃない」
「全部聞いた」
彼女は目を上げた。その目はあいかわらず澄んでいて、ほとんど残酷なほどだった。あなたがいま持ってきた希望が、そこにはひとかけらもなかったから。
「あなたは、あなた自身を送り込むことになる」
彼女は言った。
「巫女のクラウディアを送り込むことになる。あなたの母親の名前も送り込むことになる。皇帝はマルクスのことを聞けば、わたしのことも聞く。わたしがあの山道で何をしたのかも聞くし、クラウディアがわたしに自由を約束したことも聞く。最後には、あいつらはわたしを見逃さないし、あなたたちのことも見逃さない」
「なら、聞かせればいい」
「真実が皇帝の前に出れば、刃物みたいになると思ってる?」
あなたは答えなかった。
スキュラはあなたを見て、声を低くした。「ローマの刃は、自分が切りたいところしか切らない」
あなたは鉄格子を握りしめた。
「あなたが闘技場で死ぬなんて、受け入れない」
「わたしはあそこで、もう何度も死んでいる」
「今度は違う」
「そう」と彼女は言った。「今度は、あなたが見ている」
あなたの顔色が変わった。
スキュラは目をそらさなかった。その言葉は長いあいだ彼女の胸のなかをさまよっていて、いまようやく口に出せた、というふうだった。
彼女は顔を上げ、その目があなたの上にとまった。
「マルクスは死んだ。英雄の像はもうすぐ彫りあがる。わたしの九日間の戦いも、もう布告に書かれた。いまさら石の割れ目に水を注いでも、石は海にはならない」
彼女は一語一語、口にした。
「わたしは、とっくに死ぬべきだった」
あなたは鉄格子をつかみ、言い返そうとした。けれど彼女のまなざしに遮られた。
「あなたの母親は、すぐには死ななかった。少しのあいだ、まだ生きていた」
彼女は続けた。
冷たい鉄の格子が、手のひらに食い込みそうだった。
「言わないで」
彼女はあなたに構わず、話し続けた。
「山賊に襲われたあと、馬車は坂を転げ落ちた。護衛は死んで、御者も死んだ。わたしは車の板の下敷きになって、脚が動かなかった。でも、あの人はまだ生きていた」
あなたの呼吸が途中でとまった。
「あの人は這い出して、山賊が下りてくる前に逃げることもできた」とスキュラは言った。「でも、そうしなかった。わたしを板の下から引きずり出して、自分の身体で覆いかぶさって、外套をわたしの頭にかけた」
そう話すとき、スキュラはあなたを見なかった。
「それから……あの人はたくさん血を流した。血がわたしの顔に落ちた。動くな、声を出すなと言った。そのあと誰かが近づいてきて、あの人はわたしの頭を自分の胸に押しつけた」
あなたの指が、鉄格子から少しゆるんだ。
「あの人は、わたしの目を見た」スキュラはあなたを見た。「そして言った。『あなたは、お母さんと同じ目をしているのね』」
沈黙。時間が凍りつくほどの沈黙だった。水がしたたり落ちて、一滴、また一滴と、石の床を打っていた。
あなたは目を開けた。
松明の下で、スキュラの顔はほとんど透きとおるほど青白かった。
「あの人はわたしを自分の下に隠した。山賊が行ってしまったころには、もうほとんど話せなかった。それでも、生きなさいと、ずっとつぶやいていた」
スキュラはゆっくりと、ひとつ、またひとつと言葉を吐き出した。あなたに話しているようでもあり、自分に話しているようでもあった。
「わたしは手のひらであの人の目を覆って、こう言った……怖がらないで。あなたの魂は、ネハレンニアの腕のなかへ還る」
「もうやめて」
「最後に、あの人はこう言った」スキュラはあなたを見た。「ローマに帰ってはいけない」
炎が燃えていた。ローマのすべての炎は、ウェスタ神殿のあの消えることのない大いなる聖火の子どもたちなのだと、人々は言う。
それらは母なる炎から飛び出して、燃えて、燃えて、ずっとずっと遠くへ向かって、燃え続ける。
あなたは知っていた。何もかも知っていた。
ローマに帰ってはいけない。
小さな波。
ローマがあなたの母を連れていったから。
あなたは何もかも知っていた。あの浜辺も、あの岩の洞窟も、あの一行の上でとまった自分の指先も。
Vade ubi Roma non est, parva unda.
行きなさい、わたしの小さな波。ローマのない場所へ。
それは、姉妹の遊びのなかの詩ではなかった。
十歳の巫女が家を離れる前に残した別れの言葉でもなかった。
それは何年もあとの、ある夜、海辺まで追いかけてきたクラウディアのものだった。北海の女たちが捨てられた子どもを抱いていくのを見て、彼女は声を上げず、出ていかなかった。
もしかしたら、ふたりが去ったあと、彼女はこの洞窟に来たのかもしれない。手にはまだ乳の甘さと血の生臭さが残り、身には母のものではない白い衣をまとって。暗闇のなかで刃の先を岩に当て、いちばん端正な字で、あの言葉を刻んだのだ。
あなたの手は、あの岩肌をなで、あのくぼみをなで、あの歳月をなでた。それはずっと、ずっと長いあいだ、そこにあった。
そして、そのすぐ隣に、もう一行、傾いた字が残っていた。
長い歳月が波と海藻を運んできて、その一行を埋め、沈めてしまっていた。もしかしたらクラウディアさえ、一度も戻ってきてこの字を見たことはなかったのかもしれない。
Tu ignem custodi, ego undam tuam servabo.
あなたは火を守って。わたしは、あなたの小さな波を守るから。
母は知っていた。何もかも知っていた。それでも何も尋ねず、何も言わなかった。
あの日、洞窟の外で潮が岸を打つ音が聞こえていた。一度、また一度と、遠くから誰かが扉を叩いているように。あなたは手のひらを母の最後の傾いた字に重ね、それからゆっくりと、クラウディアの小さく端正な刻み目へと移した。
ふたつはとても近く、そしてとても遠かった。
ふたりの女の字が、歳月を隔てて手をつないでいるようだった。
あなたは鉄格子につかまった。格子の錆が手のひらの熱でとけ、湿り気が肌に貼りついた。
スキュラはあなたを見ていた。あなたを透かして、もっと深く遠い何かを見ているように。言葉では言い表せない何か——まるで……人類の時間の果てまで燃え続ける、古い炎のようなものを。
あなたは彼女にすべてを告げた。胸に詰まっていた言葉を、ひと息に吐き出した。
「シフラ、あなたは一度も捨てられてなんかいなかった。クラウディアがあなたを波に託したとき、わたしの母が岸辺で両腕を広げていたの。
「母はずっとあなたを見ていた。あなたがアマゾニアの子になるのを見ていた。あなたがアキリアのように、血まみれでローマへ戻ってくるのを見ていた。
「あなたは母の仇なんかじゃない。あなたは母がいちばん愛した人の血肉で、母が生涯、最後の息まで守り通した、いちばん大切な秘密だったのよ」
彼女の手を握りたかった。時間を踏み越えていって、このすべてを、何もかも彼女に伝えたかった。
クラウディア。
あなたの母。
アマゾニア。
アキリア。
シフラ。
そして、あなた。
あなたたちの運命はもつれ合っていて、どの一本もひとりではほどけず、誰ひとりひとりでは逃げられなかった。
あなたはほとんど叫ぶように、ほとんど懇願するように、あの鉄の扉を隔てて、あの炎を隔てて話した。スキュラは何も言わなかった。ただ静かにあなたを見て、最後まで聞いていた。
「教えて、姉さん。わたしはあなたのために、何ができる?」
それが、あなたの最後の問いだった。
スキュラはあなたを見た。その目つきが変わった。
彼女はもうあなたを見ていなかった。あなたを越えて、通路の奥の、火の光が届かない暗がりを見ていた。
あなたは振り向いた。そして初めて、石の壁の影のなかに誰かが立っていることに気づいた。外套の下からひとすじの剣の刃がのぞき、松明の光を受けて、押さえつけられた一筋の炎のように光っていた。
スキュラは鎖を引きちぎらんばかりにして、鉄格子越しに、あなたの前に立ちはだかった。
「剣を下ろせ」
彼女はその人に向かって、低く唸った。
5.3 聖火の前夜
また、明るい夏の日。また、ウェスタ祭。
ここから、物語は始まる。
ローマの栄光は聖火のなかで永遠に生き続ける、と神官たちは言う。
あの円形の闘技場で、声の波がひとつ、またひとつと押し重なっていた。血の匂いが烈日に蒸しあげられ、汗と、脂と、埃と、酒の匂いに混じって、石のあらゆる隙間に入り込んでいく。
その匂いに喉を焼かれて、人々の叫びは平民席から転がり落ち、元老院議員の席にぶつかり、神官席にぶつかり、さらに皇帝の紫の天幕へぶつかっていった。
皇帝トラヤヌスは高みに座り、この巨大な帝国を代表して、ひとりの女剣闘士の死を見物していた。
いま、スキュラは砂の中央に立っていた。
彼女はローマの英雄を殺した人殺しだった。
彼女は北海の蛮族の戦士だった。
彼女は異神ネハレンニアの信徒だった。
彼女は九日間の連戦を言い渡された剣闘士だった。
死ぬか、あるいはもっと先まで引き延ばされてから死ぬか。今日はまだ一日目で、そのあとにまだ八日が残っている。これがこの物語の始まりであり、この物語の終わりでもあった。
軍団長マルクスの名を叫ぶ者がいた。
海の怪物の名を叫ぶ者がいた。
アマゾニアとアキリアの名を叫ぶ者がいた。
古い名も、新しい罪も、神の意志も、復讐も、帝国の栄光も、この瞬間、すべてが同じ砂のなかに、同じ叫びのなかにかき混ぜられていた。
スキュラはその渦のまさに真ん中に立っていた。剣先を下に、盾を身体に沿わせて。日差しがその目を照らし、あの海の灰色が熱気を突き抜けて、あなたの顔の上に落ちた。
彼女は剣の平で盾を打った。
一打目は、近くの罵声をかき消した。
二打目は、船べりを鉄で打ったようだった。
三打目が落ちたとき、群衆の一角が、かえって静かになった。
彼女は皇帝席に礼をしなかった。元老院議員の席に頭を下げもしなかった。ただ闘技場の中心に立ち、観客席をゆっくりと見渡していった。
そして、あなたを見つけた。
あの目が、熱気と砂埃と歓声と十数年分の古い影を突き抜けて、あなたの顔の上でとまった。
彼女が、まだ生きているから。
クラウディアの手が、まだ上がっていないから。
ひとつの都市が、一本の手を待っていた。
いちばん下の博打打ちたちがそれを待っていた。元老院議員の席の、用心深い顔つきの人々がそれを待っていた。マルクスの一族がそれを待っていた。皇帝の天幕の下のまなざしも、それを待っていた。あの手が上がれば、それは巫女の裁定になる。あの手が下りれば、神の意志に向きが定まる。
法廷であなたを救い、何年も前にアマゾニアとアキリアを死に追いやったその手は、いま、衣のひだの上に重ねて置かれていた。指の関節は青白く、青い血管が皮膚の下に伏せていた。
昨夜、この手は剣を握っていた。
あなたは目を閉じた。ほんの一瞬の思いで、地下牢の松明の煙がまた鼻の奥へ戻ってきた。
「剣を下ろせ!」
スキュラの怒声のなかで振り向くと、通路の突き当たりに人影が見えた。
そこに立っていたのは、ほかの誰でもない、クラウディアだった。
白い長衣ではなく、普段着の上に外套をはおっていた。もしかしたら、あの聖なる白に血が飛ぶのを恐れたのかもしれない。手には短剣を握り、刃はもう鞘から抜かれていた。
あなたはまず、その剣を見た。
それからようやく、彼女がずっとあなたのあとをつけていたのだとわかった。
あなたが彼女に隠れてマルクスの一族の古い帳簿を調べたことを、彼女は知っていた。軍需品の横領も、傷んだ食糧が引き起こした反乱も、偽造された軍の報告も、あなたが証拠を見つけたことを知っていた。あなたが皇帝に上訴しようとしていることも知っていた。スキュラを御前会議の前に立たせ、トラヤヌスみずからに裁かせようとしていることも。
計画が彼女の目を逃れたことを、あなたはひそかに喜んでいた。そんなはずがあるだろうか。彼女はローマでいちばん賢い女なのだ。母もかつてそう言っていた。どんな小細工も、あの人の目からは逃れられない、と。
あなたのしていることが、封じられていたすべてをふたたび開いてしまうことを、彼女は誰よりもよくわかっていた。
「クラウディア……」
あなたは彼女の目を見た。スキュラとこれほどよく似た、あの目を。
そうなれば、マルクスの逃亡はふたたび取り沙汰され、クラウディウス家の嘘は引き裂かれる。けれど、もっと深いところにあるものまで明るみに出てしまう。
あの海の灰色の目。二十六年前のあの出産。アマゾニアとアキリアの死。クラウディアがかつて差し出した手。
マルクスが死ぬ前に言い終えられなかった言葉を、誰かが代わりに言い終えることになる。
クラウディアは剣を握り、地下牢の影のなかに立っていた。あなたにも、スキュラにも、何ひとつ説明しなかった。
あの剣が、彼女の説明だった。
スキュラは彼女を見た。
退かなかった。
あなたは鉄格子の前に一歩出た。
「叔母さま」
クラウディアの視線はあなたを越えて、スキュラの顔の上に落ちた。そのまなざしには、かつての落ち着きはなかった。松明の光が彼女の目のなかでひとつ揺れた。水面に小石が投げ込まれたように。
彼女は言った。「聞こえていたわ」
地下牢が静まり返った。
スキュラの指がわずかに動き、鎖が鉄格子に軽く当たった。
クラウディアが前に進んだ。一歩、また一歩。剣はまだ手のなかにあった。
「あの人は、あなたの目を見たのね」とクラウディアは言った。
スキュラは答えなかった。
「あの人は、知っていた」
その言葉のあと、クラウディアの指がほどけた。短剣が落ちて床にぶつかり、その音が通路の奥まで響いていった。
彼女は手を伸ばし、鉄格子を握った。
「わたしが、あのふたりを死なせた」と彼女は言った。
スキュラは彼女を見た。
「知ってる」
「アマゾニア……アキリア」クラウディアはそのふたつの名を口にした。喉の奥に埋まっていた骨を、ようやく吐き出すように。「あのふたりはあなたを抱いていって、育ててくれた。それなのにわたしは闘技場で手を差し出して、神がふたりの処刑を望んでいると民衆に思わせた」
「知ってる」
「馬車の窓を閉めて、お付きの者にあなたを引きずっていかせたのも、わたし」
「知ってる」
あなたはクラウディアの横顔を見て、ふと思い出した。神殿であの物語を語ったときも、彼女はこうしてあなたを見なかった。聞き手さえ見なければ、すべてをどこかの古い言い伝えとして扱えるとでもいうように。
けれど、スキュラはいま彼女の目の前にいた。
あの目も、彼女の目の前にあった。
クラウディアは言った。「わたしの姉は、あなたを自分の下に隠したのね」
スキュラの手がゆっくりと握りしめられ、鎖がかすかに鳴った。
「あの人はいつもそうだった」と彼女は言った。「小さいころ、字を曲がって刻むと、岩が平らじゃないからだって言うの。誰かが泣いていたら、いちばん先に駆け寄っていった。水に落ちた子どもを見たときは、まだ泳げもしないのに、飛び込んでいった」
彼女は言葉を切った。ずいぶんたってから、ようやく続けた。「でも、あの人はわたしより、ずっと、ずっと勇敢だった」
あなたはそばに立って、何も言わなかった。
地下牢の火の光は低く、通路の奥までは届かなかった。あなたは、岩の洞窟のあの一行を思い出していた。あなたは火を守って。わたしは、あなたの小さな波を守るから。
クラウディアは鉄格子を握っていた。手の甲の青い血管が、火の光のなかにかすかに見えた。
「明日、わたしは巫女の席に座る」と彼女は言った。「手を差し出すわ」
彼女はあなたを見なかった。床の剣も見なかった。その言葉を、彼女はとても落ち着いて口にした。祭儀の段取りを決めるように。いつ入場し、いつ立ちあがり、いつ手ぶりを何万もの目の前に落とすのかを。
「みんな、止まるでしょう」とクラウディアは言った。「少なくともその一瞬は、みんな止まる」
スキュラが立ちあがった。鎖が藁のなかから引きずり出され、ざらついた音を立てた。彼女は鉄格子の前まで来て、腕一本ぶんの距離でクラウディアと向き合った。
「手を差し出さないで」
クラウディアの指は、まだ格子を握っていた。
「わたしには、できる」
「それは、わたしのためのものじゃない」
クラウディアはようやく彼女を見た。
「わたしが最後にできることなのよ」
スキュラは首を振った。その動きはとても小さく、とても小さかった。
「わたしには母がいた」とスキュラは言った。「ふたり」
彼女は少し間を置いた。
「それから、山道の下でわたしを血のなかに押さえつけて、あなたはお母さんと同じ目をしている、と言ってくれた女がひとり」
スキュラの声はとても軽く、とても軽かった。
「そして十二年後に、わたしはその人の娘を救った」彼女は少し間を置き、それからうつむいた。「それで、十分」
地下牢の壁を水滴がひとつぶずつ流れ落ちていく。ささやかな海流のように。松明は空気のなかで静かに燃えていた。かすかな聖火のように。
クラウディアは彼女を見つめた。その海の灰色の目には、涙もなく、懇願もなく、何もなかった。
「そして、あなたはローマの首席巫女」
彼女はクラウディアに言った。
「あなたは、子どもを産んだことなど一度もない」と彼女は言った。「誰のためにも、手を差し出すべきじゃない」
さらに一歩前に出た。鎖が床を引きずられて、ざらついた音を立てた。彼女は手を伸ばし、鉄格子越しにクラウディアの手首を握った。
彼女はクラウディアの手を見た。白い肌に、ひとつの錆の跡がにじんで広がっていくのを見た。
「明日は、あまり長く見ないで」
彼女はそっと言った。
クラウディアの喉が動いた。
スキュラは頭を垂れ、その手に口づけた。
とても軽い動きで、ほとんど口づけには見えなかった。むしろ唇をそっと当てて、この手にたしかにぬくもりがあることを確かめているようだった。呼び名もなく、名乗りもなく、頼みごともなかった。
彼女の唇が触れたその錆の跡は、そのままそこに残った。
クラウディアは手を引かなかった。
ふたりはそうして鉄格子を隔てて、しばらく立っていた。地下牢の外の遠くから太鼓の音が聞こえてくるまで。剣闘の開幕のために、誰かが太鼓の具合を試しているようだった。重い音が、一度、また一度。
最後に、先に手を放したのはスキュラだった。
鎖が藁のなかへ垂れ落ちた。彼女は壁ぎわに戻り、石の壁に背をもたせて、暗闇のなかに沈んでいった。
クラウディアはうつむいて、自分の手を見た。
そこに傷はなかった。うっすらとした錆の跡があるだけだった。
彼女はそれを拭わなかった。
身をかがめて床の剣を拾い、鞘に戻した。剣が鞘におさまる音は短く、半分は水滴の音にかき消された。彼女は通路の出口まで歩いていった。そこで一瞬立ちどまった。まだ一言、背後に落としていったものがあるかのように。
スキュラは顔を上げなかった。
クラウディアも振り返らなかった。
その一瞬は、そのまま長い闇のなかに溶けていった。
それから彼女は歩き続け、足音は石の通路を遠ざかっていき、最後にはウェスタ祭前夜の太鼓の音と混じり合った。
あなたは鉄格子の外に立っていた。手のひらの封蠟は、握りしめられて形が崩れていた。地下牢には、松明と、藁の敷物と、鎖と、壁ぎわに座るあの人だけが残っていた。
もう誰も、上訴のことを口にしなかった。
5.4 九日目の敬礼
闘技場が凍りついたその瞬間、すべての人の視線がここに集まっていた。
クラウディアの手は、上がらなかった。
ひととき。
ふたとき。
闘技場はまず、ほんの一瞬だけ静まり返った。何万もの人が同時に息をのんだかのように。火鉢の火の粉が暗くなり、またそよ風に吹かれて明るくなった。あなたは彼女の隣に座っていて、その手がまだ膝の上に置かれているのを見た。青白く、清らかで、少しもずれていなかった。
昨夜、スキュラはこの手に口づけた。
そして今日、この手はウェスタのものだった。
触れ役がすぐにその間を受けとめた。長い杖を掲げると、その声が円い石の壁のあいだに広がっていった。
「一日目、始め!」
鉄の扉の奥で、鎖がぐいと張りつめた。
続いて、獣の檻が砂の上へ押し出されてきた。木の車輪が地面をこすって重い音を立てる。檻のなかから低い唸り声が聞こえ、爪が鉄板をかきむしる悲鳴のような音がそれに重なった。
群衆は火の粉に火をつけられたように、潮のように、波のように、一気に沸き立った。赤い酒が石段にこぼれ、白い花輪が投げ下ろされて、銅貨や陶器のかけらといっしょに場内へ落ちていく。
声が天から降ってきた。
「海の怪物!」
「人殺し!」
「マルクスの命で償え!」
「九日!九日!」
アマゾニアとアキリアの名を叫ぶ者もいた。その古い名は群衆に叫ばれてゆがみ、古い骨がもう一度火のなかへ投げ込まれるようだった。
スキュラは顔を上げて、声の出どころを探しはしなかった。
彼女は場の中心まで歩いていき、振り返り、剣と盾を掲げて、コロッセウム全体に自分を示した。
それは剣闘士のすべき動作だった。
彼女はそれを、最後までやり通した。
剣先を天に向け、盾の面を外に向け、身体を半回転させる。自分がまだ立っていることを、ローマがまだ自分を折っていないことを、すべての人に見せるために。そのあと本来なら、皇帝席へ、元老院へ、生と死と記録を握る人々のほうへ向き直るはずだった。
彼女はそうしなかった。
紫の天幕を素通りした。
元老院議員の席を素通りした。
マルクスの一族のいる場所を素通りした。
観客席の喧騒は続いていた。群衆はまだ、このささやかなずれを理解していなかった。触れ役は蠟板を握り、唇を少し開いたが、すぐには訂正の声を上げなかった。
そして、スキュラはあなたたちのほうを向いた。
まず、クラウディア。
あの海の灰色の目が、白い長衣の前で一瞬とまった。咎めもなく、懇願もなかった。ただそこにとどまっていた。潮が岩に押し寄せて、ほんのひととき抱き合い、また海へ引いていくように。
クラウディアの手は、まだ膝の上にあった。
その指先がわずかに力をこめ、またゆるむのを、あなたは見た。
続いて、スキュラの視線があなたの顔に移った。
不意に、たくさんの断片がよみがえってきた。あなたの人生をかたちづくってきた断片が。地下の松明の下で、あなたの目は知っている人に似ている、と彼女が言ったこと。剣闘士養成所で、あなたの海はどこにあるのかと彼女が尋ねたこと。旅の途中で、彼女が北海の風と霧のことを話してくれたこと。天幕のなかで、あなたに向けられた刃を彼女が防いだこと。地下牢で、あなたの母が血の下に自分を押さえつけて、声を出すなと言ったのだと彼女が話してくれたこと。
いま、彼女は日差しのなかに立っていた。
あなたは観客席に座っていた。
ふたりのあいだには、砂と、鉄の柵と、判決と、死んだ人々と、ローマのすべてが横たわっていた。
けれど彼女があなたを見たとき、まわりの叫び声はずっと遠くへ退いていくようだった。残ったのは、剣の柄の金属の光と、砂の上の足跡と、彼女の髪の先のひとすじの赤い紐だけ。それは、彼女があなたにした、ただひとつの頼みごとだった。
彼女の母が、もうひとりの母のために編んだ赤い紐と同じように。あなたの祝福を身につけて、海へ帰りたい、と彼女は言ったのだ。
それからスキュラは盾を下ろし、剣を身体の横に垂らした。
それから、あなたに向かって深く身をかがめた。
皇帝にではなく。
巫女にでもなく。
ローマにでもなく。
ただ、あなたにだけ。
彼女のラテン語は、初めて会ったときよりずっとはっきりしていた。ひとつひとつの言葉が砂を飛び越えて、観客席の前に落ちてきた。
「死にゆく者が、あなたに敬礼を」
群衆はようやくその儀礼の言葉を理解して、歓声が炸裂した。見世物の一部だと思った者もいれば、挑発だと思った者もいた。死の幕開けを聞けたことに、ただ興奮した者もいた。
あなたは動かなかった。
クラウディアも動かなかった。
スキュラは身を起こし、場の中央へと向き直った。鉄の扉の向こう側で、獣の檻の鎖が引きずられはじめた。一日目の戦いが始まろうとしていた。日差しが砂の上に落ち、彼女の足もとの、踏み砕かれた数枚の花びらを照らしていた。
彼女は、もう振り返らなかった。
あなたは、彼女が剣を掲げるのを見ていた。
角笛が鳴った。
ローマが、歓声を上げはじめた。