The Song of Inanna イナンナの歌

小説

『パンとバラ』第四部:カナリアの沈黙

オリジナル小説『パンとバラ』第四部。1910年のクリスマス、坑のカナリアが死に、二度の落盤が起き、坑口の門は遺族に向かって閉じられる。イザベルは炭鉱町の女たちを連れて坑へ下り、彼女たちは歌う。

4.1 カナリアが黙る——陰鬱なクリスマス

舞踏会の夜が過ぎたあとの数か月、あなたはケイトをほとんど近くで見ていない。

彼女はマーサを迎えに来る。ただし、あなたが戸口にいる可能性がいちばん低い時刻を選ぶ。早朝、霧の深いころ、通りの角の低い塀のそばにハンチング帽を深く下げて立っている。あるいは夕方、暗くなる直前に、マーサの鞄を肩へ放って、すぐ背を向ける。あなたが戸口まで出ると、彼女は身をかわして回り込む。選炭場で転がってくる石炭を避けるように慣れた動きで、視線さえくれない。

マーサはふたりのあいだに挟まれて、冷たい壁のあいだを歩かされている。

姉に恥をかかせたくないし、学校のあのわずかな明るさも手放せない。背が伸び、静かになった。算術を解き終えると帳面をあなたのほうへ押し、目を輝かせて頷いてもらうのを待つ。放課後もぐずぐずして、教室が空いてからやっと小さな声で言う。「先生……うちの妹ふたりも来たいって。木の椅子に座って先生の話を聞くほうが、炭鉱で石炭を拾うよりいいって」

チョークを持つ手が止まる。

舞踏会の夜から、父の怒りはどの手紙にも書き込まれている。もう「責任」や「体面」は書かない。書くのは「恥辱」「不名誉」だけだ。暖炉の炭が爆ぜる音が、父に代わってあなたの罪状を数えているようだ。クリスマスまでに帰ってくること、そして来年のクリスマスまでに婚約すること。相手はあの「心のやさしい」男爵。そう、ケイトに鼻を折られたあの人だ。生まれがよく、体面があり、寛大で、あなたの慈善の話を聞いても責任を問わないどころか、炭鉱へさらに出資までした。

帰らなければ、遺言信託から名を外す。

父は最後通牒を出した。

母は心がやわらかいのに、父に逆らう勇気がない。姿を見せず、人づてに金や布をそっと送ってくる。硬貨の入った小袋が机の角に置かれてちりんと鳴り、細い木綿の巻きが戸棚へ押し込まれて樟脳の匂いをさせている。清潔な布に触れると、かえって心が空になる。誰かがあなたを家から切り離して、細い糸一本で吊るしているようだ。

クリスマスが近づき、炭鉱町にも色が少し押し込まれる。

小屋の戸口に粗い松の輪が掛かり、酒場の窓台に曲がった蠟燭が何本か置かれて、蠟が硝子を伝って凍った糖蜜のようになる。通りでいちばん話題になるのは「祝日前の産出」だ。あの心のやさしい男爵の要望である。新しい株主として、彼は新しい標語を出した。石炭をひと車多く出せば、炉の温かさがひと分増え、パンの厚みがひと分増える。

炭鉱は全力で動き、機械も人も回りつづけ、蒸気は町を沈めそうなほど濃い。そして祝祭の空気のただなかで——坑のカナリアが死んだ。

知らせを学校へ持ち込んだのは子どもたちだ。戸口で老いた炭鉱夫が低い声で言ったのだという。「小鳥が歌わなくなった」。彼は坑口のほうを指した。指先が寒さで震えていた。「デービー灯の火が青い。いい前触れじゃない」

「青い」という言葉に、背すじが冷える。それがこの時代の限界だと知っている。計器もない、警報もない。あるのは火の色と、小さな生きものの呼吸だけだ。坑内ガスには色も匂いもない。それが火になってはじめて、人はあとから気づく。

老いた炭鉱夫は職長のところへ行ったと言う。返事はひと言だった。「クリスマス前に止められるか」

その一句が閂を落とすように響く。帳簿の数字が鳥の死骸より重く、あの警告よりも重い。

学校の戸口に立って、あなたは急に思い出す。ケイトがあなたを「小さなカナリア」と呼んだこと。あれは冗談ではなかった。坑のなかのいちばん素朴な規則だ。先に倒れるのは、いつでも小さくて、いちばん早く見過ごされるものだ。

クリスマス前のある朝、ウェールズに最初の雪が降った。

まだ明けきらない。雪片は塩の粒のように細く、石畳の上にまず灰色がかった白を敷く。軒には薄い氷柱。学校の扉を押すと蝶番が軋り、冷気が袖口へ入って、手の甲に細かな粒が立つ。

ストーブに火を入れようとしたとき、足もとが揺れた。

地震ではない。地の下から伝わってくる鈍い音だ。巨きな鐘が土のなかで一度打たれたような。木の椅子がわずかに動き、チョークの箱が跳ねた。軒の雪の粉がさらさらと落ちて、髪に入り、細い針のように冷たい。

外は一瞬、空白のように静かになった。時間が止められたようだった。

次の瞬間、通りが沸き立った。

人が坑口へ向かって流れていく。

4.2 震動と、二度目の落盤

あなたも人に混じって坑口へ走る。路地はショールを頭からかぶった女たちでいっぱいだ。裾が雪解け水と石炭の粉で濡れて、ふくらはぎに貼りついている。厚い羅紗の外套の男たちが、肩をぶつけてあなたを半歩押しのけていく。

坑口の外はもっと乱れている。救助用の巻き上げ機は止まっていない。鋼索が滑車のなかを走って、耳に刺さる音を立てる。坑へ縄を下ろす者がいて、縄は黒い手に掴まれて湿った石炭の粉だらけだ。担架を担いで押し出てくる者がいて、担架には粗い布がかかっている。女たちの泣き声が聞こえ、途切れ途切れの悲鳴が寒風に切り刻まれる。

小さなカナリアの籠が木箱の上に置かれていて、戸が開いている。なかの黄色い羽の塊は動かない。わきの老いた炭鉱夫が、ウェールズの言葉をひと言つぶやいた。呪いのようでもあり、祈りのようでもある。

この鳥がなぜ先に死ぬのか、あなたには分かる。教科書で学んだ。坑でいちばん恐ろしいものは匂いがしない。爆発のあと、炎はもう消えているかもしれないのに、巷道には「爆発後の毒ガス」が残る。一酸化炭素が混ざっている。炭鉱夫はそれを afterdamp と呼ぶ。喉に刺さらない。鼻を突かない。ただ人を眠くさせる。温かい毛布を顔にかけられたようになって、そのまま二度と目覚めない。カナリアは呼吸が速く、体が小さいので、まず倒れる。鼠も先に逃げる。逃げきれなければ先に固まる。そのあとが、人だ。

人ごみのなかで誰かが大声で叫ぶ。「下りた者は全員上がったか!」 別の声がすぐ返す。「まだガスがある! もう下りるな! 死ぬぞ!」

その騒ぎのなかで、急にケイトのことを思う。

まわりで泣いている女たちを見て、あなたは息をひとつ吐く。そしてすぐ、その安堵に恥じ入る。ケイトは女で、鉱山法は女の入坑を許していない。この禁令は別のときには閉ざされた鉄の扉なのに、いまは命綱の藁のように、彼女の命を吊っている。

そのとき振り返ると、父が泥をよけながら歩いてくるのが見えた。そのわきにもうひとり、厚い羅紗の外套をまとい、襟の毛皮をきちんと整え、手にはステッキ、手袋は雪のように白い紳士がいる。

父の言う「心のやさしい」男爵だ。

彼はあなたを見るなり、舞踏会で磨いたあの気づかいを見せる。口調がやわらかすぎる。「イザベルさん、さぞ驚かれたでしょう。こんな場所に……長くおられてはいけません」

あなたは彼の白い手袋を見る。ステッキの銀の握りを見る。坑口の喧騒が耳を齧っているようだ。舞踏会の広間でひっくり返ったテーブルクロスを思い出す。白い手袋のなかの笑いを思い出す。

胸が熱くなる。「いけない? この人たちは毎日ここにいます」

男爵はまるで聞こえなかったように、なおも体面のある慰めに仕立てようとする。「事故は起こるものです。肝心なのは損失を抑え、人心を鎮めることです。お父上が適切に処理なさいます」

「損失を抑える?」。笑い出しそうになって、喉が締まる。「人の命は、帳簿の一行ですか」

父がやっと口を開き、不快を押さえて言う。「イザベル。落ち着きなさい」。その視線はあなたを越えて、巻き上げ機と坑口のほうへ向かう。精算の必要な勘定書を見るように。彼は人を案じてはいる。それ以上に数字を案じている。操業停止がどれだけ続くか、補償がいくらか、報道は来るか、ほかの株主にどう説明するか。

さらに言おうとしたとき、人ごみから誰かが走り出てきた。

マーサだ。

髪はひどく乱れ、顔じゅうが石炭の粉と涙の混ざった黒い筋で、胸もとはびしょ濡れで、泥のなかを転げてきたようだ。走りが速すぎて泥にすべりかけ、膝が崩れかけて、無理に踏みとどまる。男爵の白い手袋を見つけると、掴める浮木を見つけたようにそこへ飛びつき、手首を掴んだ。

「旦那さま——お願いです——」。声はひどく嗄れ、泣き声が混ざっている。「助けて——姉さんを助けて——」

男爵の体が本能的にこわばる。彼はその小さな手を見下ろす。指のあいだに石炭の粉が嵌まり、爪のふちが黒く光っている。その一瞬、彼の顔を嫌悪がはっきりよぎるのが見えた。教養と体面のおかげで、彼は叫びもしないし、口汚く罵りもしない。ただ「汚すな」というちょうどそれだけの力で、腕を振った。

マーサは振り払われ、二歩よろけて、泥に落ちかける。

泣き声は出さない。短く息を吸う音がひとつしただけだ。喉を掴まれたように。それから、あなたのほうを向く。その目があなたを掴む。強く掴む。やっと滑り落ちないものを見つけたように。

「イザベル!」

ぶつかるように前に来て、指があなたの袖口を握りしめる。

「ケイトが下りた!」

マーサは息が続かない。「一度目に落ちたとき、上がってこない人がいたの。姉さんは……下にまだ灯りが見えるって言った。それで飛び込んだ。職長が頷くのを待ってたら、みんな死んじゃうって……」

耳のなかで、ぶうん、と音がする。ガス灯が硝子のホヤのなかで急に悲鳴をあげたような音だ。

「そんなはずがない」と訊きたい。「あの人は女でしょう」と訊きたい。けれどケイトがどういう人かは知っている。見知らぬ人のために白い手袋の前で拳を振るえる人だ。坑の下の人のために命を賭けられる人だ。

マーサの指がさらに締まり、あなたの布を破りそうになる。「下りてすぐ……また落ちた。二度目。石が雨みたいに。巻き上げ機が止まって、みんな逃げて、またガスが来たって言う人もいて……姉さんはまだ下にいる。イザベル、まだ下にいるの!」

その言葉が落ちると、まわりの音がひと尺遠ざかったように感じる。鋼索はまだ鳴り、泣き声はまだ起き伏ししている。それなのに何も聞こえない。あなたにはあの黒い坑口だけが見えている。大きく開いた口のようだ。

父は職長と話している。指で空を突いて、何かを数えているようだ。名前ではない。数字だ。

ゆっくり顔を上げ、人ごみ越しに坑口の櫓を見る。その巨きな鉄の骨組みが昼のなかに立っていて、恐ろしいほど静かだ。そして急に、ケイトの言葉を思い出す。

陽の下にだって、ろくなものはない。

そうだ。この空の下には、もともとろくなものなんてない。ケイトをのぞいては。

4.3 封鎖された坑口——父の命令

炭鉱の正門の鉄柵が閉じるとき、鈍い音がして、人ごみを無理やり二つに切る。

門の内側には事務所と機械室の灯り。外側には泣き声と、黒い泥と、石炭の粉で塗り固められた顔がある。

軒の下に警備が立っている。肩に棒を掛け、靴底を泥に据えて動かない。遺族が柵に押し寄せ、指を鉄の棒のあいだへ差し入れて誰かを掴もうとする。掴めるのは冷たさだけだ。

父が事務所から出てきたとき、外套の襟はまだきちんとしていて、手袋もまだ清潔だった。わきに支配人と、帳簿と紙挟みを抱えた書記が数人。父の視線は門の外の人だかりをなで、そして閂と、警備と、押さえてある電信の箱の上に落ちる。

「封じろ」。支配人に低く言う。「知らせはすべてわたしを通せ。誰にも勝手に喋らせるな。記者は入れるな。用のない者も入れるな」

あなたはそのわきに立っている。袖口にはまだマーサの掴んだ跡が残っている。頭のなかにはひとつの文だけが響いている。ケイトはまだ下にいる。

父のその白い手袋を見て、舞踏会の広間の同じ白を思い出す。ケイトが手袋を脱いだときに見えた裂け目を思い出す。あの両手はいま地の下にあって、割れた木や石や濡れた泥をさぐっているのかもしれない。明るいものには触れられないまま。

「これは届け出るべきです。救助隊を入れて助けてください」。声をできるだけ普通に保とうとする。

父はやっとあなたのほうを見る。眉間の皺が深い。「イザベル、邪魔をするな。救助には手順がある。まず設備だ」

「設備?」。その語が理解できそうにない。「下に人が埋まっています」

父は声を落とす。ものの分からない子を諭すように。「人がいることくらい分かっている。人がいるからこそ、なおさら噂を飛ばさせてはいけない。炭鉱の評判が落ちれば、株価も契約も融資も一緒に落ちる。そうなったとき、誰が補償金を出せる」

父が「人命」を「評判」に、「株価」に取り替えるのが聞こえる。その一瞬、胸が雪に埋もれたようになる。自分もハーグリーヴスという姓であることを思い出す。選炭場では、その姓が職長に笑いながら天引きを消させたことを思い出す。そしていま、その姓は別のやり方であなたを支配しようとしている。黙らせ、門の内側に立たせておくことで。

外の人ごみがまた押し寄せ、泣き声と罵声が混ざる。警備が棒で押し返し、鉄の柵が震えて鳴る。隙間のなかでマーサがもがいているのが見える。押し入ってあなたのところへ来ようとして、棒に阻まれている。

あなたは前へ出て、棒とマーサのあいだに立つ。警備が一瞬ひるみ、父のほうを見る。

父の顔色がすぐ沈む。「下がりなさい」

あなたは下がらない。声を少し上げて、外の人にも聞こえるようにする。「この子は坑の下の姉を探しているんです」

父の目が暗くなる。「ここで何をしている。泥のなかに立てば、彼らの一員になったつもりか」

父の香水の匂いがする。清潔すぎて鼻を刺す。そして急に分かる。ここでもう一歩退いたら、あなたはケイトを本当に地の下へ埋めてしまう。父を見て、かつて父があなたにしたのと同じように、沈黙で答える。

父の口もとが張りつめる。「では、わたしの名を使うな。この姓で、おまえの慈善ごっこをするな」

その言葉は平手打ちのようだ。父はそれを投げ捨てて、外へ歩いていく。男爵が待っている。

あなたはマーサの手を取り、坑口に立っている男に目を留める。帽子のつばを深く下げ、外套は古く、靴には泥がついている。手には名簿がある。紙は湿気でやわらかい。彼の視線はずっと坑口のほうを向いている。

誰かが低い声で呼んだ。「検量人」

その職は聞いたことがある。炭鉱夫が選んで、計量と帳簿を見張らせ、炭鉱主が石炭を一杯でもごまかさないように見張る人だ。いま彼はここに立っていて、名簿に書かれているのは重さではない。名前だ。

あなたはそちらへ歩く。検量人は目を上げてあなたを見る。その目には媚びもなく、怖れもない。あるのは疲労だけだ。

「ハーグリーヴスさん」。彼はあなたの立場を呼ぶ。声に敬意はない。「あんたは立つ場所を間違えてる」

「わたしはここに立ちます」とあなたは言う。「名簿を見せてください」

彼は外をちらと見る。父の姿はもう消えている。それで名簿が差し出された。紙面は冷たく湿って、インクの滲んでいるところもある。ひと通り目を走らせると、知っている姓があり、消された名前がいくつかある。消してあるということは運び出されたということだ。生死にかかわらず「出た」ことになる。

ケイトも、その姓のリースも、まだ見えない。

名簿を返す。声が嗄れている。「照合はわたしにやらせてください」

検量人はあなたを見る。どれだけの血と罵声に耐えられるかを量るように。そしてランタンをひとつ、あなたの手もとへ押しやった。柄が冷たい。声は素っ気ない。「遺族の名前を取っておいてくれ」

ランタンを握る。硝子のなかで火が一度跳ね、光がひどく震える。振り返って門の内を見る。閂はまだ横たわったままだ。頑固な硬い骨のように。

もう何も言わずに、ランタンを提げて人ごみへ戻る。泥が裾に跳ね、布が重くなってふくらはぎに貼りつく。あなたに気づいた誰かがすぐ罵声を飛ばす。袖口を掴んで名前を訊き、知らせを訊く人もいる。あなたは名前を書き取っていく。速く書く。ペン先が紙を掻く音がする。

また担架がひとつ運び出される。粗い布の角がめくれ、黒く光る長靴が見える。泣き声がすぐ空気を貫く。あなたは坑口のあの黒を見つめ、次の担架を、次の名前を待つ。

ケイトはずっと現れない。

時間が本当の敵になりはじめる。一歩ずつ迫ってくる。

4.4 「女が災いを呼ぶ」——マーサの涙

三日目の夜から雨になり、四日目の朝に雨がやんで、気温はさらに下がった。石炭の粉と雪解け水がひと続きの泥になる。

臨時の避難所は風の通り道に張られている。帆布を何枚か縄で張ってあり、角が風にめくれて叩く音を立てる。なかには毛布が敷いてある。湿気と古い羊毛の匂いがする。熱い茶の桶が木箱に寄せてあり、桶の側面が熱く、鉄の柄杓が縁に当たって鳴る。

ここにいるのは遺族ばかりだ。女、年寄り、泣いている子ども。低い声で祈る人がいる。嗄れた声で。そして祈りの後ろで罵る人もいる。

あなたはここに数日いて、指はインクと石炭の粉の混ざった黒で汚れている。検量人のために名簿をつける。来た人を書き、運び出された人を書く。担架が出るたび、粗い布がめくられるたび、空気に匂いがひとつ増える。濡れた布、血、石炭の煙。

何度も名前のなかに「ケイト」を探し、何度も空白を返される。

噂もこの数日で育つ。証拠は要らない。ひとつの口と、ひと握りの恨みがあればいい。

はじめは囁きだった。「下りるべきじゃない者が下りた」と。すぐに矛先が変わる。もっと都合のいい的を見つけたように——女だ。坑口を指さして罵る者がいる。「女が縁起を悪くする!」。もっと悪意のある者は、帆布のなかの全員に聞こえるようわざと声を上げる。「坑に下りたんだから罰が当たって当然だ、天が怒ったんだ。見ろ、落ちただろう」

その瞬間、あなたはまた舞踏会の広間に戻ったかと思った。あちらでは白い手袋が炭鉱の女たちを挿絵に捏ね上げた。こちらでは黒い泥が炭鉱の女たちを災厄に塗り込める。

笑いと呪いはちがう。それでも同じ論法だ。いちばん弱い者を前へ押し出して、災いを受けさせる。

マーサはずっと歯を食いしばっていた。妹たちを近所に預けて、自分は帆布のそばで待ちつづけ、目を赤くして、それでも涙を落とすまいとしていた。ケイトを罵る声を聞くと肩が上がる。飛びかかって噛みつこうとして、無理に堪える。

そこへ老いた男がひとり来た。襟巻きをきつく巻いて、声が甲高く、言葉はもっと甲高い。「あんたの姉が大人しく地面にいたら、男たちも足並みを崩さなかった。あの女がみんなを台無しにしたんだ」

マーサの顔がさっと白くなる。声は出さない。それなのに涙が次々にこぼれる。袖口で乱暴に拭って、拭くほど汚れる。

「もう結構です」とあなたが口を開く。

大きな声ではない。それなのに鉄の柄杓で茶の桶を叩いたように響いて、まわりの何人かが顔を上げる。

老人はまだ笑おうとする。あなたの視線が彼を釘づけにする。「坑の下のガスは男女を見分けません。落ちてくる坑木も男女を見分けません。あなたがたが女に責任を押しつけるのは、本当に問うべき相手に問う勇気がないからです」

老人の口が動いて、すぐには言葉が出ない。わきで誰かが咳をして顔をそむける。低い声で「あれは株主んとこの」と言う人がいる。黙っていろ、と念を押すように。

それでもあなたは退かない。

帆布の中央へ歩き、毛布を囲んでいる女たちのほうを見る。彼女たちの手はどれも忙しい。水を回し、子どもの鼻を拭き、泣き声が出ないよう自分の口を押さえている。そして皆とても静かだ。待つことしか許されていないと運命に決められたかのように静かだ。

あなたは訊く。「あなたがたは何を待っているのですか。遺体が運び出されるのを? 泣いてよいと許されるのを?」

低い声で誰かが返す。「女は坑に下りられない」

もう一度訊く。「彼らがだめだと言えばだめなのですか。ケイトは下りました。誰の許可も訊いていません。下に人がいるかどうかだけを訊きました」

「下りたら死ぬ」と誰かが言う。声が震えている。「ガスがある」

「死にません」。あなたは一語ずつ言う。「無茶をするのではありません。まず名簿を整理する。巻き上げ機のそばに水と布を用意する。通気口のまわりを片づける。替えの灯りと縄と担架を置く場所を守る。手当ができる人は? 字が読める人は? 医者と牧師と新聞記者を呼びに走れる人は? 前へ出てください」

帆布のなかに小さなざわめきが起きる。毛布を肩へ引き上げる人がいる。襟巻きを結び直す人がいる。「待つしかない」という目つきが少しずつゆるむ。若い女がひとり唇を噛んで頷くのが見える。老いた女が数珠を袖へしまうのが見える。マーサが顔を上げるのが見える。涙はまだあるのに、もう落ちない。その目は磨かれたようだ。

あなたは女たちを連れて柵へ向かう。警備の棒がすぐ横に出る。木があなたの胸を押す。顔を上げて言う。「検量人に会わせてください。いますぐ」

検量人は巻き上げ機のそばにいた。顔色は灰色で、目に疲労が満ちている。あなたの後ろについてきた女たちを見て、眉が動く。「何をするつもりだ」

「この人たちを班に分けてください」とあなたは言う。「できることをさせてください。坑の下は人手が足りていますか。縄は足りていますか。灯りは。道を通す人は。教えてください」

彼はしばらくあなたを見つめ、やがて名簿をあなたの手に押しつけた。

その紙を握り、指の腹で名前をひとつずつ押していく。ケイトの名はそこにない。地の底に呑まれたように。

あなたは検量人に言う。「わたしが下ります」

彼はすぐには反対しない。ただあなたを見る。「あんたは女だ」

「わたしは人間です」。落ち着いて答える。「それに、救急法の修了証を持っています」

両親が役に立たないと思っていたあの紙を出して、彼の口を塞ぐ。

いまあなたの後ろには一列の人が立っている。毛布をかぶっていた女たちは毛布を肩の後ろへ払い、下の粗いスカートを見せている。襟巻きを結び直して、結び目を首の横に置く人がいる。茶の桶のそばの布を裂いて、手首に巻いて応急の包帯にする人がいる。目は腫れ、鼻先は青ざめて、それでもまっすぐに立っている。地面に打ち込まれた杭のように。

名簿を検量人に押し返し、そのわきから予備のランタンをひとつ取る。振り返って女たちを見る。「手当ができる人は左へ。字が読める人はわたしと。走って物を運べる人は右へ。家の人がまだ下にいる人は、名前を言ってください」

名前がひとつずつ冷たい空気に落ちていく。最後のほうには、声はもう嗄れている。

マーサは最前列に立っている。目もとはまだ濡れ、手は拳になって、指の節が白い。泣き声は出さない。ただ強情に顎を上げている。

警備がまた棒を上げて遮る。棒が女たちの胸の前に横たわり、木が粗い布を押す。押されて半歩下がった人が、すぐ立ち戻る。その一列の肩の前で棒がわずかに震えているのが見える。警備の目が行き来する。ひとりふたりは止められても、この一列は止められない。

あなたは棒の前まで行き、ランタンを少し高く掲げる。光が彼の顔に、額の汗に当たる。叫びもしないし、懇願もしない。ひと言だけ言う。「どいてください。あなたが止めているのは、騒ぎを起こしに来た人ではありません。助けに来た人です」

ランタンをもう一寸前へ出す。火が一度震える。

棒がとうとう上がり、女たちがあなたとともに押し寄せる。起き上がる波のように。

あなたは先頭に立って坑口へ向かう。

坑口の黒い穴は大きく開いた口のようで、そこから風が吹き出してくる。ランタンを寄せると、光が鋼索の脂じみた艶を照らし、石炭の粉が光のなかを漂う。細かい黒い雪のようだ。腰に縄を結ぶ人がいて、結び目が粗い布に皺を刻む。裾をたくし上げて膝のわきでピンで留める人がいる。不慣れな手つきで、それでいてとても決然と。

巻き上げ機が回りはじめ、鋼索が滑車を走って、歯の根が浮くほど響く。

あなたは木の踏み板に足を乗せる。靴底がまず濡れて冷たい木目に触れ、それから坑口のふちの石に触れる。その石は数えきれない靴底に磨かれて滑らかだ。背後で誰かがあなたの袖口を握るのが分かる。強く握っている。自分をあなたに結びつけるように。

あなたは振り返らない。ただランタンを低くして、足もとの一寸の道に火を当てる。

下りたその瞬間、外の泣き声と祈りが断ち切られる。耳に残るのは鋼索の擦れる音と、木の枠の軋みと、自分たちの速い呼吸だけだ。

あなたはその狭い影のなかへ踏み入る。まだ震えていて、それでも退こうとしない女たちを連れて。

あなたたちは、本当に坑へ下りた。

4.5 坑の底——「小さなカナリア」を打ち鳴らす

枝坑道を奥へ進むにつれて、暗闇が濡れた布のように顔に貼りついてくる。

デービー灯の炎は豆粒ほどに縮み、硝子の内側に細かな水気が立って、水滴が弧を伝って落ち、鉄の輪に当たって小さく鳴る。

はじめ、あなたはその音を漏水だと思って、胸が沈んだ。坑の下でいちばん恐ろしいのは「水の音が大きくなる」ことだ。それはたいてい別の岩層がゆるんだことを意味し、足もとの道が落ちるおそれがあることを意味する。

あなたは隊列を一歩ずつ整えていく。ふたりにひとつの灯り、灯りの一尺前には人を立たせない。支柱をひとつ過ぎるごとに、坑木にチョークで短い線を一本引く。戻るときに道を乱さないためだ。分かれ道に出たら、すぐ字の読める人に方向と時刻を紙へ書かせ、麻縄で手すりに結ばせる。

手当のできる女たちには襟巻きを裂いて布の帯にさせ、まず自分の腰に結ばせてから、まわりへ配らせる。腕力のあるふたりには楔と短い梃子を担がせ、砕けた石の山に出たら、まず楔を入れ、それから梃子で起こし、動かす。力任せに引かせない。教室で梃子を教えたことがある。支点、力点、抵抗。子どもたちはぽかんとしていた。いまこの女たちはとても速く覚える。彼女たちは毎日、自分の体を梃子にして働いている。ただ、それを誰も「知識」と呼ばなかっただけだ。

巷道にときおり、あの甘ったるい匂いが流れてくる。熟れすぎた果実を樽に閉じ込めたような匂いだ。鼻は刺さない。むしろ目を閉じたくなる。

あなたはすぐ止め、全員を坑木二本ぶん下がらせ、間隔を保たせる。灯りを目の前まで上げて、炎の色と動きを見つめる。火が一度震えると、あなたの心も一度震える。教室で学んだ。坑内ガスには音がない。ただ人をゆっくり押し倒し、意識を失うことを休息のように見せる。

デービー灯の炎を指して、ひとりひとりに言う。「光をよく見て。火の色が青くなったら、それ以上前へ詰めないで。人が増えれば呼吸も速くなって、空気が減るのも速くなる。ゆっくり行きましょう。灯りが先、人が灯りについていく」

そしてあなたたちは、「上の人間がやること」だと思っていたこともやる。混乱を秩序に変えるのだ。道で会う救助の男たちを止めて、どの枝坑道から入ったのか、どこの落盤がひどいのかを聞き出す。教室で子どもに「解き方の順番」を問い詰めるように。

あなたたちの働きが形になりはじめる。壮烈な突撃ではない。散らばった恐怖を、使える縄に撚っていく働きだ。名簿を整理し、遺族の名を書き取る。分かれ道に印をつけ、「どこにガスがある」「どこが落ちた」「どこで応答が聞こえた」を紙に書く。崩れた坑道の土砂を掘り出し、籠でひとつずつ運び出し、担架を次々に外へ送り出す。

時間は速く過ぎ、坑道が片づいたとき、もっと深い暗闇が姿を現した。

ここが、二度目の落盤に埋められた場所だ。

「先へ進みます」

あなたは心を決める。女たちを連れて暗闇へ踏み込む。

さらに奥へ行くと、世界が静かになり、灯りが小さくなり、空気に重さがあるように感じる。震えだす人がいて、歯が細かく鳴る。背後の少女がひとつ息を吸うのが聞こえる。泣きそうになって、泣くのを押し込めたようだ。そして彼女が急に一節、歌った。

とても低く。火種を胸に捧げ持って、吹き消されるのを恐れるように。

「歩いていく……歩いていく……」

喉から出たその一節は美しくないし、少し音を外してさえいる。それなのに狭い坑道に落ちると、足もとに拍を与えてくれる。あなたたちの靴底が濡れたレールを踏む。ぴしゃ、ぴしゃ。やがてその「歩いていく」と合っていく。

もうひとりの女が受ける。もっと嗄れた声で、帆布の小屋で何晩も泣いた人の声で。「百万の暗い台所……千の灰色の工場——」。そこで喉が詰まる。自分の家の竈を見たように、選炭場の炭塵を見たように。それでも止めない。声を押し通す。「——そのすべてに、不意の陽が射している」

坑の下に陽はない。あるのは灯りと暗闇だけだ。それでも「陽」という言葉を聞いて、胸の奥が一度熱くなる。

そして、もっと多くの人が加わる。旋律だけを口ずさむ人がいる。繰り返すだけの人がいる。歌声ははじめ細い線のようで、進むほどに太くなり、胸の陥没を支えられるほど太くなる。声が重なって、ひとつの波になる。

「人びとがわたしたちの歌を聞いている。パンを、そしてバラを。パンを、そしてバラを」

マーサも歌っているのが見える。声は震えていて、これまでのどのときよりも揺るがない。

彼女が「生まれてから死ぬまで、汗を絞られるだけの日々であってはならない——」と歌うとき、涙が炭塵のなかに二本の筋を引く。それなのに声はいっそう軽くなる。「心もからだと同じように飢える。パンをください。バラもください」

そして急に分かる。この歌は坑の底の石に向かって歌われているのではない。自分たちに向かって歌われているのだ。

暗闇のなかで眠ってしまわないように。恐怖のなかで散ってしまわないように。あなたたちは、はじめて坑へ下りた小さなカナリアの群れのようだ。喉はまだ震えていて、それでも鳴こうとしている。歌声は管や岩層を伝って出ていき、レールに運ばれ、枝坑道をひとつまたひとつ越えて、まだ生きているかもしれない誰かに、見えない灯りをひとつ差し出すように。

そのときだ。歌の消えぎわに、別の響きが聞こえた。

こつ。こつこつ。こつ。

とても軽く、とても遠い。水滴が鉄を打つようだ。あなたははじめ、また漏水かと思った。

けれどその響きはひと息止まって、また来た。間隔が、誰かがわざわざ数えたもののようだ。あなたは手を挙げる。歌声がすぐ低くなる。あなたに胸のなかへ押し戻されたように。暗闇には鋼索の余震と、あなたたちの呼吸だけが残る。

こつ——こつこつ——こつ。こつ——こつこつ——こつ。

ランタンをわきの人に渡し、しゃがんで、古い水道管に耳を当てる。

鉄は冷たく、その冷たさが頰骨まで届く。その拍が金属を伝ってきて、歯の根が痺れる。目を閉じて、音節に分ける。教室で子どもに綴りを教えるように。短、長、短。休み。もう一度。

「ち——」

鼓動がその拍を追いかけ、ある瞬間、それが何を繰り返しているのかが分かる。

「ち——い——さ——な——カ——ナ——リ——ア」

顔を上げる。声が嗄れている。「こっちです」

女たちの灯りがひとつずつ寄ってきて、光の輪が重なり、暗闇が一歩下がる。あなたたちは打音をたどってもっと狭い枝坑道へ曲がる。砕けた坑木とズリが半分の壁になっていて、折れた梁の断面は噛み砕かれた骨のようだ。腕力のあるふたりに先に楔を入れさせ、それから梃子で砕けた木を少しずつ起こさせる。ほかの人は半丈下がらせる。落ちてくる石が足の甲に当たらないように。

とうとう隙間がひとつ開く。デービー灯を差し入れると、炎が一度震えて、消えない。歯を食いしばって、その口へ体を横にして押し込む。濡れて冷たい炭泥が肩と顔を擦っていく。

なかは落盤でできた小さな空洞で、数人が身を寄せ合っている。顔じゅう石炭の粉で、半ば意識がない。

ケイトはいちばん前にいる。痩せて、乾いて、枯れかけている。泥まみれで半ば膝をつき、袖口は裂け、手の甲は擦り剝け、胼胝の裂け目は炭泥で黒く埋まっている。

それでも顔を上げた。その目は灯りのなかで、変わらず揺るがない。そしてあなたと視線が合ったとき、ようやく一瞬ゆるんだ。長いあいだ胸に押さえていた息を吐き出したように。

「小さなカナリア」

唇が動く。息はほとんど聞こえないほど弱い。それでも、その言葉を吐き出す。あなたのよく知っている棘とともに、そして少しの震えとともに。

「やっと、あんたの歌が聞こえた」

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