『パンとバラ』第二部:選炭場へ
オリジナル小説『パンとバラ』第二部。イザベルは来なくなった生徒を探して選炭場へ入り、父の姓で天引きを取り消させ、路地で襲われ、そしてケイトに自分の名を書くことを教える。
2.1 選炭場へ——陽の光の代価
半月のあいだ、あなたとケイトの約束は細い紐のように、かろうじて教室と路地を繋いでいた。マーサは放課後に十五分残り、まちがえた問題を一行ずつ直していく。ケイトはときどき戸口で待っている。風の通り道に立って、ズボンと赤い首巻きがよく目立つ。なかには入らない。目だけで時間を知らせる。
そしてある日、マーサは残らなかった。次の日も残らなかった。そのあとは、来なくなった。
教室は相変わらず混んでいて、木の椅子は相変わらず軋りながら動かされ、壁ぎわのあの席だけが空いている。目に刺さるほど空いている。マーサのことを訊くと、子どもたちは最初聞こえないふりをした。もう一度訊くと、男の子がひとり顔を上げた。「炭鉱にいるよ。坑口を見に行けば」
学校を出る。炭鉱のほうから風が吹いてくる。冷たさが細い針のように骨まで刺さる。自分が株主の娘であることは、よく分かっている。「産出」「配当」「事故の補償」という言葉を子どものころから聞き慣れている。父が食卓で炭鉱を、一台の機械のように話すのも聞き慣れている。直すべきものは直す、替えるべきものは替える。けれどあなたは、その機械に本当に近づいたことは一度もない。
選炭場は坑口にくっついて建っている。戸口に着く前に、音があなたを埋める。ベルトの滑車が唸り、鎖がじゃらじゃら鳴り、石炭が木の板に当たって鈍く響く。いくつもの音が耳へ潜り込んでくる。扉の隙間から熱気が噴き出し、石炭の粉と油のにおいを顔に叩きつける。
なかへ踏み込んだ瞬間、光が断ち切られる。内部は鈍い黄色だ。石油ランプの火が炭塵に覆われて暗い。空気のなかを黒い粉が漂っている。ベルトが小屋の奥から転がってきて、石炭とズリを吐き出しながら前へ進む。その両側に女と半分大人の子どもが立っている。前掛けも袖口も、元の色が分からないほど黒い。手が休みなく伸び、掴み、放る。恐ろしいほど速い。半拍遅れれば、石炭は足もとを転がっていくか、混ぜてはいけない山に紛れ込んでしまう。
ここでの正誤は赤ペンでは直されない。賃金から引かれる。ズリは木の樋へ放り込まれ、石炭は反対側へ押しやられ、炭塵が舞い上がって、炉の灰をひとつかみ投げつけられたように頰に当たる。手で口と鼻を覆うと、布はすぐ黒くなり、喉が乾いた石炭の味でいっぱいになる。
二歩押し入ると、肩が粗い布の背中を擦る。職長がわきを通っていく。靴底が床を叩き、手の短い棒が手すりを鳴らす。とたんに小屋じゅうの手の速さが少し上がる。
その混乱のなかで、あなたはあの鮮やかな赤い首巻きを見つけた。
ケイトはベルトのそばにいる。ほかの人より前の位置だ。袖口をより高くまくり、前腕に炭塵と細かい傷が散っている。その手は迷わない。ズリ、石炭。ズリは樋へ飛び、石炭は押しやられる。あの美しい顔は炭塵のなかでかえって目立つ。黒い布に打たれた明るい鋲のようだ。
マーサはそのすぐ横にいる。背が低く、手が遅く、動きに慌てがある。伸ばしたときにはもう石炭は転がり過ぎて、板に当たって鈍く鳴る。ケイトは振り向かない。ただ自分の動きを速くして、マーサが追いつけるようにする。マーサは唇を噛み、目のふちを炭塵に焼かれて赤くしながら、止まろうとしない。
名前を呼びたい。けれど口を開けば炭塵が喉へ入る。ひとつ咳をすると目じりが刺激されて痛み、涙が出て、すぐ炭塵と混ざって頰に黒い筋を引く。
職長がケイトのところへ行き、短い棒で手すりを叩く。甲高い音だ。「手が遅いぞ、ケイト。今日は二ペンス引く」
ケイトの手が一拍止まる。その一拍のあいだにベルトの石炭が長く転がり過ぎ、マーサが思わず手を出しかける。ケイトがその手首を押さえる。顔を上げて職長を見る目は、鉄を擦って出る火花のようだ。「引く? ずいぶん手つきがいいな」
職長は口を歪め、歯を少し見せる。「おまえらは陽の下で働いてるんだ。坑内よりましだろう。それくらいで済んで運がいいと思え」
「陽の下?」。ケイトの声が唸りを貫いて、はっきりと届く。「陽の光が食えるのか。陽の下にいたって、炭塵は口に入るし、手は裂けるし、脚は痛む。賃金を下げる言葉を探すのは、ほんとうにうまいな」
最後のひと言と同時に、ズリを樋へ叩き込んだ。どん、と木の樋が震えて響く。職長の顔色が沈み、棒がまた手すりを打つ。
あなたは数歩離れたところに立ち、耳は唸りでいっぱいで、舌がざらついている。ロンドンで「改良」「責任」「慈善」という言葉を学んだ。ここではそれが紙でできている。取り出したとたんに石炭が切り裂いていく。
ようやく分かる。あなたはマーサを教室へ連れ戻しに来たのではない。陽の光さえ賃下げの口実にする場所へ、踏み込んでしまったのだ。ここで口を開けば声は呑まれ、言葉は形を変える。
ケイトが振り向いて、ついにあなたを見た。その視線が、口と鼻を覆うあなたの手の上で一瞬止まる。それから顔をそむけ、知らない人のふりをした。
何か言いたいのに、喉には押さえきれない咳しかない。ベルトは唸りつづけ、石炭は転がりつづけ、太陽は外にあって、この小屋には差し込まない。
ここの光は炭塵に沈んで、揺れる小さな黄色がひと切れ残るだけだ。
そしてその黄色のなかに立って、あなたはもう、ロンドンで覚えたきれいな言葉が言えない。
2.2 職長の帳簿——数字の裏にある父の名
職長が帳簿を閉じる。紙が鋭い音を立てる。平手打ちが落ちたようだ。
ケイトは退かない。顎を上げ、職長の手の帳簿を見据えている。
職長は口を歪め、まわりに聞こえるよう少し声を上げた。「ズボンを穿いた女どもが、自分を何だと思ってる。地面の仕事なら地面の賃金だ。不満なら出ていけ」
わきで囃す者がいて、下品な言葉が次々に投げられる。「女」という語が、好きなだけ値引きしてよい笑い種に変えられるのが聞こえる。マーサの肩がびくりと上がり、指がケイトの上着の裾を握りしめる。
職長は脅しの拍で一歩詰める。命令のようでもあり、辱めのようでもある。「仕事に戻れ。さもなきゃ全員家に帰して、学校で『いい子』にしてもらうぞ」
「いい子」のところで、また笑いが起きる。
胃の奥がひっくり返り、喉が締まる。あなたはもともと、ケイトの棘のある口ぶりを嫌うだろうと思っていた。いま分かった。ほんとうに耐えがたいのは彼女の鋭さではない。まわりが彼女を見るときの、あの軽さだ。
口と鼻を覆っていた手を下ろす。炭塵がすぐ唇につく。飲み込むと喉が擦られたようになる。それでも口を開く。
「帳簿を見せてください」とあなたは言う。
大きな声ではない。それなのに唸りのなかに裂け目を作る。いちばん近くにいた女工の手が止まり、石炭が転がり過ぎて足もとに落ち、どん、と鳴る。
職長はそこで初めてあなたをまともに見た。視線はまず手袋の革のふちに落ち、それから上着の生地に落ち、最後に、炭塵と涙が描いた黒い筋のところで止まる。その目には迷いが少しと、嘲りが少しある。「お嬢さん、ここは子どもに教える場所じゃありませんよ」
手を差し出す。「帳簿を見せてください。規則どおりに引き、規則どおりに精算してください」
職長は鼻で笑い、帳簿を胸に引き寄せる。財布を庇うように。「規則? ここの規則は、おれが書いたものが規則だ」
自分の鼓動が聞こえる。その一瞬、自分の手に何があるのかを、はっきり知っている。それが嫌いだ。そして使わないわけにいかない。
一歩前へ出て、声を低くし、重みを載せる。「ハーグリーヴス氏はわたしの父です。エドマンド・ハーグリーヴス。ご存じなければ、炭鉱の支配人に訊いてください。この小屋の帳簿が、最後に誰の机へ行くのかを」
「ハーグリーヴス」という音節が落ちると、空気がすぐに変わった。囃していた者が黙る。喉を掴まれたように。誰かが口のなかの悪態を飲み込んで、曖昧な咳にする。職長の顔から笑みが消えて固まる。
彼はあなたを頭から足まで見て、ついに「よそから来たお嬢さん」を「面倒そのもの」に取り替えた。喉が動く。口調はまだ強がっている。「ハーグリーヴスの? こんなところへ何しに来た。こいつらの肩を——」
言い終わらない。あなたが遮る。「わたしは規則の話だけをします」
手をもう一寸押し出す。「帳簿を」
ベルトはまだ石炭を吐き出し、その音が全員の耳を塞いでいる。それでも彼の息が太くなった一瞬が聞こえる。とうとう、不承不承、帳簿を差し出した。
紙を開くと、鉛筆の書き込みがびっしりある。数字をすべて読み解く必要はない。彼に知らせればいい。あなたには命じる力があると。指先をその一行の上に押しつける。
「この一件は」とあなたは言う。「消してください」
職長の顔色が沈み、口を開いて言い返そうとして、詰まる。まわりの視線が彼を見ている。株主の娘の前で意地を張れば、明日この件が別の帳簿に書き込まれる。
彼は帳簿を乱暴に引き戻す。体面を取り返すように。鉛筆の先が紙を強く削る。
「運がよかったな」。歯のあいだから言い、帳簿を閉じる。鋭い音はまだするが、さっきほどではない。「仕事に戻れ。急げ、全員!」
ケイトのほうを向く。失った威厳をその人から拾い直そうとするように。「聞こえたか? もう面倒を起こすな!」
ケイトは手をまた石炭へ伸ばす。マーサの肩がようやく少しゆるむ。
背を向けると、まわりの視線が背中に貼りつく。炭塵のように振り払えない。彼らが何を考えているかは分かる。株主の娘がなぜ坑口の女工の肩を持つのか。善行に来たのか、検査に来たのか。その親切の裏には何かあるのか。
「毎日十五分」
あなたはケイトに言う。彼女がまともに見なくても、言う。
ベルトの唸りは続いている。帰らなければならない。そして戸口を出る一瞬、ケイトが急に顔を横へ向けた。
「小さなカナリア」
同じ呼び名。ただ声が騒音に乱されている。
「早く家へ帰れ」
あなたが振り返ったとき、彼女はもうこちらを見ていない。
2.3 帰り道——路地の男たちの手
マーサが教室へ戻ってきた日、顔にはまだ選炭場の落ちない黒い跡があった。以前より静かで、座るとまず手のひらを開いて見せた。指先が荒れ、裂け目に炭塵が嵌まっている。あなたは欠席の理由を訊かない。彼女のほうが先に、何かを起こさないように低い声で言った。
「いちばん下の妹が熱を出したの」。そう言う。「すごく熱くて、ひと晩じゅううなってた。母さんに薬を買うお金がなかった」
炭鉱町の薬はたいてい医者の処方ではない。薬屋の小瓶の咳止めシロップ、何包かの解熱の粉、あるいは慈善の診療所に並んでもらう安い粉薬だ。それでも一、二シリングあれば家の底が見える。マーサは、ケイトと二人で選炭場に何日か余分に出て、炭車を何度も余分に押して、その金を作ったと言う。妹の熱が下がって、やっと戻ってこられた。
ケイトの名を言うとき、彼女の目は思わず戸口へ流れる。その人が急に現れるのを怖がるようでもあり、現れるのを待っているようでもある。
「ケイト姉ちゃんはいい人なの」。マーサは声を落とす。「口は悪いけど……」。胸に手を当てる。「心は悪くない」
あなたは笑わない。ケイトの「小さなカナリア」を思い出す。顎を上げるあの得意げな仕草を思い出す。職長の前で辛辣な言葉を投げ返したあの一瞬を思い出す。マーサは話しつづける。誰にも訊かれたことのない家の事情を、少しずつ机の上に並べるように。父と兄は落盤で死んだ。運び出されたとき、どちらも人の形をしていなかった。母はそれから年じゅう寝たきりで、胸が裂けるように咳をする。残された子どもたちは食べて着なければならないし、家賃も税も払わなければならない。ケイトは稼ぐだけでなく、母を落ち着かせ、借金取りをあしらい、弟妹の面倒を見ている。つらいとは決して言わない。いちばんひどく罵るときは、たいてい、いちばん切羽詰まっているときだ。
聞きながら、指が無意識にチョークを握りしめている。急に分かる。あなたとケイトが争っているのは「子どもが学校へ行くべきかどうか」ではない。今日の暮らしの勘定を誰が払うのか、だ。
マーサはその日、残って問題を直し、いつもより熱心に直した。最後の数字を書き終えて顔を上げ、その目には新しい近さがあった。「就学監督官を呼ぶ先生」を「話を聞いてくれる先生」に取り替えたような目だ。帰りぎわには小さな声で付け足しさえした。「イザベル先生、気をつけて帰ってね。道に人がいるよ」
子どもの誇張だと思った。子どもは恐怖を物語にするのがいちばんうまい。けれどそれからの数日、帰り道でいつも背後に足音を感じた。遠くも近くもない、二、三間うしろを、止まったり進んだりしながらついてくる。
路地の入り口の影には、いつも目がひと組あるようだった。何度か振り返っても、何も見えない。
自分を納得させる。子どものころにも「炭鉱町は荒れている」という噂を聞いた。あのころの恐怖が浮き上がってきただけかもしれない。
あの夕方までは。
学校を出るころにはもう暗かった。帰り道は狭い路地を抜ける。両側は湿った石の壁だ。踏み込んだとたん、背後で物音がした。足を速めると、後ろの足音も速くなる。
振り返ると、人影が二つ路地の口を塞いでいて、もう一つが反対側から近づいてくる。帽子のつばを深く下げ、顔は暗がりのなかだ。酒のにおいがする。汗と機械油が混ざっている。誰かが低く笑った。
「ハーグリーヴスのお嬢さんだ」。ひとりが、姓をわざと噛むように言う。「小屋じゃずいぶん声が大きかったな」
心臓が落ちる。下がろうとして踵が濡れた炭泥を踏み、危うく体勢を崩す。手が手首を掴む。手のひらが粗く、力は鋏のようだ。叫ぼうとすると、もう一方の手がすぐ口と鼻を覆う。石炭の煙と酒の気が喉へ突き込まれ、声は押し戻されて、荒い息だけになる。
すぐに刃物は出さない。すぐに殴りもしない。ひとりが耳もとへ寄って低く言う。「あんたは金持ちの娘だ。多くは要らない。少し出せばいい。おとなしくして、騒ぐな。おれたちを困らせるな」
信じない。必死にもがく。誰かが突き飛ばし、肩が石の壁に当たって、目の前が白くなる。
その瞬間、路地の奥から足音が響いた。靴の鋲が石畳を打つ。急を告げる鈴の連なりのようだ。
誰かが悪態をついて振り向いた途端、影がひとつ突っ込んできた。
ケイトだ。
赤い首巻きが、暗がりのなかで小さな火のように見える。動きは選炭場でズリを放るときのように清潔だ。膝を上げ、腹へ入れ、肘を当て、位置を取る。最初の男が痛みに身を折ると、襟を掴んで壁へ叩きつけた。石の壁がどんと鳴る。もうひとりが手を伸ばすと、逆に捻り上げ、関節が鈍い音を立てて、相手が息を呑む。横から抱きつこうとした者には、踵で足の甲を踏み抜き、痛みでひるんだ隙に石を拾って地面へ叩きつけた。石の割れる音は、どんな脅し文句より大きい。
「失せろ」と彼女は言う。
大きな声ではない。それなのに坑口の汽笛のようだ。直接で、厳しい。男たちは悪態を残して後ずさり、去りぎわにいくつか汚い言葉を落としていった。ケイトは追わない。あなたのほうへ一歩踏み出し、腕を掴んで、壁ぎわから力ずくで引き出した。
そのときやっと、自分が震えていることに気づく。ありがとうと言いたいのに、舌が動かない。
ケイトが一度、あなたを見た。
「ついてこい」
彼女はあなたを路地から引き出し、暗い小路を避けて回り道をする。二人のあいだの貸し借りは、この道のりでいよいよはっきりしてくる。あなたは姓を使って天引きを一件消した。彼女は拳であなたを路地から引きずり出した。これで返した、ということになっている。
前方で灯りが揺れる。ケイトは振り返らない。ただあなたの腕をより強く掴んでいる。また暗がりに引き戻されるのを恐れるように。
2.4 ケイトの家、マーサの荷
低い家並みの前まで来て、やっと歩調をゆるめた。軒がひどく低く、割れた瓦のふちから雨だれが落ちて、戸口の泥に細かく「ぽた、ぽた」と鳴っている。戸板は古く黒ずみ、隙間から石油ランプの光が一筋漏れている。
ケイトが扉を押すと、熱気が顔に当たる。そのなかに湿った布のにおいと、炉の火と、ジャガイモを煮る甘い香りが混ざっている。部屋は小さくて、入ったとたん肩をすぼめたくなる。隅に石炭と古い木箱が積まれ、炉のそばに黒い鍋があって、縁に湯気が絡んでいる。
奥の部屋からマーサが顔を出し、あなたを見て目を大きくした。手の甲で顔をこすり、炭塵を皮膚に広げてしまう。「……来たの?」
答える前に、寝床のほうからもっと小さな子がふたり押し出てくる。ひとりは緩い三つ編み、もうひとりは鳥の巣のような髪だ。板張りを踏む素足が冷えて赤い。知らない人を見て、まずマーサの後ろに隠れ、それでも首を伸ばして覗く。
奥の部屋の寝床から咳が続けざまに聞こえる。暗がりに女の人が横たわっているのが見える。ケイトが行って毛布を引き上げる。速いのに、とても軽い。もうひと触れすれば壊れてしまうのを恐れるように。
「起こすな」。振り返らずに言って、そのまま夕食の支度へ向かう。鍋のなかはジャガイモとポロねぎの汁だ。色は薄いのに、いい匂いがする。木の匙でかき回すと、表面に脂の光が少し浮く。炉のそばに塩漬け肉の小さな塊があって、ふちが白い。薄く切って鍋へ落とすと、部屋にすぐ塩気の香りが加わる。卓には粗いパン。皮が硬く、刃を入れると「かり」と鳴り、なかはやわらかくて、温かい麦の匂いが立つ。ケイトは小さな壺からドリッピング——焼き肉の受け皿に溜めた脂——を取って、パンに塗る。
あなたは自分の家の食卓でもっと繊細な料理を見たことがあるし、もっと高い肉も食べたことがある。ここの香りは粗い。そしていまは、温かくて、人を落ち着かせる。
ケイトが背を向けているあいだに、マーサがそっと近づいてきた。聞かれるのを恐れて、声をとても低くする。「ケイト、毎日あんたについてってる」
あなたは止まる。
「言わないけど」。マーサが急いで足す。「あんたに何かあるのが怖いの。通りの端で、あんたが出てくるのを待ってて、路地の角から見てて、あんたの家の道まで行ったら……それから帰るの」。マーサの目がケイトのほうへ流れる。姉が急に振り向くのを恐れるように。
背後に誰かがいるように感じたあの数日を思い出す。錯覚ではなかった。あの目はずっと影のなかにあった。
ケイトが椀を運んできたとき、顔にはまだあの面倒くさそうな表情がある。「食え。ぼんやりするな」
汁はとても熱い。粗い陶の椀を両手で持つと、熱が手のひらへ入り、指が温まってくる。ひと口飲む。ジャガイモの甘さ、ポロねぎの清しさ、塩漬け肉の塩気が一緒に舌へ落ちてくる。素朴で、しっかりしている。ドリッピングを塗ったパンは、まず皮の硬い歯ごたえ、それから脂の香りで、石炭の煙をしばらく脇へ押しのける。小さな妹ふたりは食べるのが速い。食べ物が逃げるのを恐れるようだ。マーサはひと口ごとに奥の寝床を見る。母がもう少し長く眠れるかを計算しているように。
食後、ケイトは椀を重ね、布で乱暴に拭く。小さい二人を寝床へ追い立てる。口調は荒いのに、手は毛布をしっかり掖んでいる。
椅子で休ませてもらえるのかと思った。ところが彼女は上着を肩へ放り、顎であなたを促した。「来い」
裏口を押し開ける。夜風がすぐ吹き込んでくる。濡れた布を顔に叩きつけられたような冷たさだ。家の裏へ回ると、ケイトは木箱と石を踏んで登っていく。あなたは一瞬ためらい、歯を食いしばってついていく。屋根の瓦がゆるんでいて、踏むと軽く軋む。
ふたりは煙突からそう遠くないところに並んで座る。遠くで炭鉱の灯が点々と散っている。霧に呑まれた星のようだ。月の光はあるのに、澄んでいない。月は摩耗した銀貨のようで、光るのに骨が折れているように見える。
「ジョンと、トマスと、ヘンリー」とケイトが言う。「あの三人だ。明日、町の警察へ行って名前を出せば、向こうはどうすればいいか分かる」
炭鉱の黒い影のほうを見て、しばらく黙り、それから言った。「見ただろ。陽の下にだって、ろくなものはない」
あなたは目を落として、彼女の手を見る。膝の上に置かれたその手は、指の節が太く、手のひらに胼胝があり、親指の付け根に細い裂け目があって、黒い跡が洗っても落ちない。字を書いてできた手ではない。炭車を押し、ズリを選り分け、手すりのわきで速さを奪い合ってできた手だ。
そして急に、自分のこれまでの「救い」が何に似ていたかが分かる。手が石炭の粉だらけの人に、きれいな紙を差し出して、その紙を大事にしないと責めるようなものだ。視線を彼女の指先に置いたまま、心のなかの頑なさがゆっくり向きを変える。
「ケイト」とあなたは言う。
彼女は答えず、首を少し傾けるだけだ。あなたの言葉を聞こうとしているようでもあり、いつでも押し返す用意をしているようでもある。
「自分の名前は書ける?」。とても静かに訊く。
鼻で笑う。「名前を書いたら一シリング増えるのか」
「増えない」。声をやわらかくして、教室の命令のように聞こえないようにする。「でも、あなたが職長に言ったあの言葉を書いておいたら、もっと多くの人に届いたら、あの人たちは耳の聞こえないふりができなくなる」
夜風に目じりが乾く。ケイトはしばらく黙っていた。それから言った。「また教えるつもりか」
「言うことを聞かせるために教えるんじゃない」とあなたは言う。「あなたが言ったことを、残しておくために教えるの」
ケイトは答えない。視線を炭鉱から引き戻し、初めてあなたを正面から見た。その目はまだ硬い。それでも、もう棘だけではない。
彼女はあなたを助けた。いまあなたが返したいのは、礼だけではない。
2.5 夜の授業——言葉ではなく行動を
数日後、路地であなたを襲ったあの男たちが捕まった。
炭鉱町の夜風は相変わらず吹き、石炭の煙は相変わらず襟にまとわりつく。それでも帰り道の背後の足音は減り、路地の影もそれほど厚くない。
そこへ、ケイトが学校の裏口へやってきた。
その夜の月は、汚れた銀の皮のように薄かった。窓から入る光は黄色い。石油ランプの芯を短くして火を落とし、光を机の上のひと区画だけに落とす。黄ばんだ紙、インク壺、ペン先。部屋はとても静かで、黒板のわきの古い時計まで小さな音で進んでいる。秒針が声を落として話しているようだ。
ケイトは戸口に立っている。上着も脱がず、赤い首巻きも解いていない。敷居で靴を軽く打って、石炭の粉を少し落とす。机の紙とペンを見る目は、手に馴染まない道具を量るようだ。
「何を教えるんだ」と訊く。
「言葉を書き残すこと」。紙を押しやる。「職長に、支配人に、新聞に。見えないふりができなくなるまで」
ケイトは鼻を鳴らして突き返そうとし、結局は帽子のつばを下げて、机のわきに座った。
まずペンの持ち方から。ペンは彼女には細すぎる。軸が滑るし、指の節は太いし、親指の付け根は裂けている。ケイトは眉を寄せたが、何も言わない。あなたは指を一本ずつ正しい位置へ動かす。ゆっくりと、何本かの木材を並べるように。
書いてみる。最初のひと画から曲がり、インクが紙の繊維へにじんで塊になる。ケイトはすぐ苛立ち、ペンを放り出そうとする。あなたは紙の角を押さえて、払いのけられないようにする。
「あなたはベルトのそばで時間を奪うことを覚えた」とあなたは言う。「字を書くのは競走じゃない。ゆっくりでいい」
ケイトの喉が動く。ペンを握り直し、より安定した力に変える。ペン先が紙を渡っていく。夜のなかに一本の道を切り開こうとするように。
古い新聞を広げて、労働者がよく読む文章を指し示す。文は短く、言葉は素朴で、それでいて彼らの痛みを生き生きと書き、読む者に同じように感じさせる。『クラリオン』のような社会主義の新聞が、独学する労働者のあいだでどれだけ読まれているかを話す。炭鉱町では夜、灯りを囲んで新聞を読み上げる人がいて、字の読めない人に読んで聞かせ、読み終わったら議論になって、炉の火が消えかけるまで言い合うのだと話す。
ケイトは聞いている。目の棘が減っていく。そして急に言った。「聞いたことがある。ウィガンのほうに女工の協会があるって。坑口の女たち自分の。男の組合じゃなくて」
あなたは頷く。そういう組織がなぜ「自分たちの」でなければならないかは分かる。男は仕事を取られるのを恐れ、体面のある人は彼女たちのズボンを不作法だと嫌う。彼女たちは固まるしかない。ズリのなかから、まだ燃える欠片を拾い集めるように。ケイトは早口で言う。ゆっくり話すと誰かに話を取られるのを恐れるように。
「来年また禁止するって言ってる」。「禁止」に強い重みを置く。「地面の仕事もだめだと。わたしたちは不道徳だ、女の見本を台無しにしてる、って」
「来年」という言葉に、胸が少し締まる。法と道徳はしばしば同じ顔で現れる。やさしい笑みを浮かべて、それでいて人に生きる道を残さない。同じ言い分をロンドンで聞いた。言葉を替えれば「保護」だ。けれどここでは、保護とは食べ物を絶つことだ。
紙をもう少し彼女のほうへ押す。「なら書いて。あなたたちがどんな仕事をして、どんな粉を吸って、どんな怪我をして、一週間に何シリングもらうのかを。もっと多くの人に読ませて。『不道徳』『許されない』のひと言で、あなたたちを拭き消せないようにするの」
ケイトは紙を見つめる。ベルトを見つめるように。ただしその上を流れてくるものが何かは、彼女にしか分からない。しばらく黙って、それから急に訊いた。「ロンドンの女たちも……やってるのか」
「もっと激しい人たちがいる」とあなたは言う。「女性社会政治同盟。標語は『言葉ではなく行動を』」。その英語を紙に書く。一画ずつ、はっきりと。Deeds not Words。
ケイトはその一行を見て、口もとを動かした。「行動なら分かる。昇降機の口を塞いで、下りられないようにする。わたしたちも下ろすか、みんな下りないかだ」
彼女はごく当たり前のことのように言う。あなたにはそこにある危険が聞こえる。炭鉱町の規則は力と帳簿しか認めない。女が境を越えるとき、嘲りは拳に変わる。路地のあの手を思い出す。「ハーグリーヴスのお嬢さん」というあの声を思い出す。その冷たさを押し込めて、説教はせず、ただペンを彼女の手もとへ差し出す。
「まず自分の名前を書いて」とあなたは言う。「全部」
ケイトは一瞬あなたを見上げる。まだ警戒がある。それでも敵意は減っている。うつむいて、ペン先を下ろす。とてもゆっくり書く。満載の炭車を坂へ押し上げるように。どの文字にも力が要る。それでも止まらない。最後の一字を書き終えたとき、インクはまだ濡れて光っていた。暗がりから引き出されたばかりの一筋の光のように。
ケイト・リース。
彼女はその名前を見る。笑いもしないし、自分を褒めもしない。
ただ指で紙のふちに軽く触れた。それが本物かを確かめるように。しばらくそのままでいて、それからもう何文字か書いた。
イザベル・カナリア。ハーグリーヴスではなく、曲がった字で綴りをまちがえた「小さなカナリア」が、ケイト・リースの隣に並んでいた。