『パンとバラ』第一部:成り上がりの娘
オリジナル小説『パンとバラ』第一部。1910年の南ウェールズ。株主の娘が炭鉱町へ帰り、慈善学校の教師になる。そこで出会った保護者は、ズボンに赤い首巻きの、まだ十六の少女だった。
1.1 成り上がりの娘
1910年、南ウェールズの早春はまだ湿って冷たい。あなたは炭鉱町へ戻る小さな汽車に乗っている。機関車から蒸気が白く噴き出し、窓のふちに細かい水滴を結んでいく。車輪がレールの継ぎ目をひとつずつ噛み、木の座席がそれに合わせて小さく震えて、拍を打つ。
もっと遠くで低く唸る音がする。炭鉱の音のほうが先に届く。町の輪郭よりも早く、あなたの帰りを迎えにくる。
革の旅行鞄が膝の上にある。口から本が何冊か覗いている。フランス語の読本、算術の本、練習帳。教員資格証はその紙のあいだに挟んであって、ある種の戸口ではそれがあなたを通してくれる。
ガラスに自分が映っている。淡い色の麦わら帽が茶色の巻き毛を押さえ、リボンのわきに乾いた花がひと房。短い上着は腰をしぼり、襟もとはきちんと留めてある。灰青色のスカートは足首まで垂れ、ひだが従順な折り目を作っている。淡い編み上げの短靴のつま先には細かい擦り傷がある。どれだけきれいな布でも、この道のりは跡をつけるのだと言われているようだ。
はじめてロンドンへ行ったときの自分を憶えている。あのころはまだ炭鉱町のはずれの粗さを身につけていた。歩幅が大きく、声が大きく、語尾が伸びて、「おはよう」の音節だけで出自が聞き取れた。寄宿学校の廊下は蠟がかかっていて、踵が落ちるたびに鳴った。ここでは一歩ごとに誰かが聞いている、とわざわざ思い出させるように。食卓では銀のフォークが磁器に触れて、耳に刺さるほど澄んだ音を立てた。誰かが声を殺して笑った。大きくはない。それでも一晩じゅう背を伸ばし、手を置く場所に気をつけ、ひとつひとつの言葉を丸くしておくには十分だった。
両親があなたに「イザベル」という名をつけたのは、まさにその丸さがほしかったからだ。父は紡績工場と炭鉱の株主で、成り上がりの金は速く入り、黒く入る。旧い家は父の小切手は受け取っても、あなたたちを身内とは数えない。母は「体面」を分厚い生地のように扱う。高いほど安全だ、と。だからあなたの子ども時代は規則で縛られていた。フランス語は磨いた銀器のように発音し、刺繡の針目は詰め、ピアノの拍は正確に。あなたは肩を引いて、自分でも息が苦しくなるまで引いた。あのころは、その規則が誰を守っているのか分からなかった。あとになって分かった。あれは家の体面を守り、同時にあなたを、ずっと前から敷かれていた道へ押していた。
そのあと、ロンドンの女子学院と師範の訓練が、また別の規則をあなたの手に押し込んだ。教室にはチョークとインクのにおい、窓の外には市電の鈴と馬の蹄が交差する。フェビアン協会の講演を聞いた。初期の女性の権利をめぐる議論のなかで、新しい調子も聞いた。慈善より鋭く、温順よりも飼いならしにくい調子だった。『ジェルミナール』を読んだ。坑内の湿った岩壁と、あの息づかいのところで、紙のふちがあなたの手の汗で少し反った。いまの人はそれを「目覚め」と呼ぶのかもしれない。けれどあなたの時代では、本を読むというそれだけで「ブルーストッキング」の札を貼られるのに十分だった。知識は足首に結ばれた細い糸のようなものだ。遠くへ行くほど、糸は張っていく。
そんなことは自分には関係がないと思っていた。父があなたの教員資格証を机に置いて、駒をひとつ置くように、落ち着いた声で言うまでは。そろそろ結婚しなさい。相手は落ちぶれた男爵。こちらに家柄がなく、向こうに現金がない。双方に得がある。
あの面会の部屋のにおいを憶えている。葉巻。炭火。絨毯が厚くて足音を呑み込む。人の存在まで呑み込んでしまいそうなほどに。男爵の銀のカフスは目に痛いほど光っていた。彼はあなたを見るとき、まず帽子の飾りをなで、それからあなたの姓のところで止まった。値踏みするように。父は投資と地所を、帳簿をめくるような口ぶりで話した。男爵は伝統と栄誉を、祈禱文を暗誦するように話した。あなたは茶碗を持ち、磁器を唇に当てていたのに、その温度が分からなかった。喉に乾いたものがあるだけだった。
断ったとき、声は大きくなかった。茶碗を受け皿に戻すと、磁器の触れ合う小さな音が、厚い絨毯と厚いカーテンのなかでもはっきり響いた。母のまつげがひとつ震えた。父は黙ったまま、新聞をさらに大きな音でめくった。
反抗したくて反抗したのではない。ただ、「体面」を言い訳に使うのがだんだん難しくなっていた。ロンドンでのあの議論は、明日にでも世界を変えられる通行証をくれはしなかった。けれど胸に棘をひとつ残していった。あなたは急に見てしまったのだ。父の配当には石炭の粉がついている。その粉には人の血が混ざっている。そしてあなたは、そのすべてを一度の結婚で「上昇」と包装しようとしている。
その請求書を、もう沈黙では払えなかった。
だから南ウェールズへ帰る。
あなたは言った。慈善学校で教えます。子どもたちに読み書きと算術を。
父は止めなかった。湿った寒さと石炭の粉に懲りれば戻ってくるとでも思ったのだろう。母も止めなかった。いちばん面倒の起きない色を選び、ボタンをより丈夫に縫いつけた。もう一枚、守りを重ねるように。
汽笛がまた鳴り、音が谷のなかで長く伸びる。唸りが近づいてくる。霧のなかで巨きな獣が呼吸しているようだ。あなたは資格証の紙のふちに指を当てる。もう男爵のカフスも父の帳簿も思い出さない。ロンドンの廊下のあの笑い声も思い出さない。
帰ってきた理由はもう十分はっきりしている。自分を、精巧に作られた請求書に引き渡したくない。学んできたものを、いちばん耳障りな唸りのすぐ横に置きたい。食卓の話題で終わらせないために。
あなたは炭鉱に囲まれたあの町へ、あの慈善学校へ行く。そこの教師になる。
1.2 はじめての授業——半日だけ学校に来る子どもたち
慈善学校の扉を押すと、隙間から冷たい風が追ってきて、石炭の煙と湿った土のにおいを巻き込んでくる。教室は子どもでいっぱいだ。木の椅子が近すぎて、足を伸ばせば誰かの靴先に当たる。古い黒板は脂じみた光を帯び、チョークの粉が受け皿に霜のように積もっている。鉄のストーブのなかで炭がこもった音を立て、熱はストーブのまわりを回るだけで、二歩離れればもう寒い。
鞄を教壇に置いて、名乗る。この小さな部屋のなかで、あなたの声は清潔すぎて聞こえる。洗いたての布を広げたようだ。子どもたちは返事をしない。口笛を吹く者がいる。踵で床を踏み鳴らす者がいる。最前列の男の子がわざと「イザベル」を言い間違え、まわりがいっそう大きく笑う。
すぐには直させない。あなたは彼らの手を見る。手の甲にしもやけの裂け目がある子が多い。爪のあいだの黒は洗っても落ちない。まぶたを見る。重い。ひと晩ぶんの眠りが足りていない。ここの「半日就学」を思う。十二を過ぎた子は午前だけ学校に来て、午後は工場か炭鉱で働くことを願い出る。飢えと疲れが、教室をついでの義務に変えてしまう。ロンドンの教室でその条文を暗記した。ここでは条文ににおいが生えている。冷たい汗、濡れた羊毛、古いパンの酸っぱさ。
最初の授業を始める。まず文字、それから算術。黒板に何行か書くと、チョークが乾いた音で軋る。半ばまで書いたところで、前のほうで鈍い音がした。丸めた紙が教壇に投げ上げられ、ちょうどあなたの帳面のわきに落ちる。紙がほどける。なかに石炭の粉が包んである。坑の汚れをわざわざ持ち込んで見せてやる、というように。
また笑い声。手を叩く者。鳥の鳴きまねをする者。
二つめの紙玉が袖口をかすめ、チョークの粉が少し落ちる。あなたは理解する。ここの規則は、試すことと打ち返すことで書かれる。一歩退けば、一歩押してくる。
息を呑み込み、紙玉の飛んできた方向を見据える。張った糸を見据えるように。出どころはすぐに分かった。
壁ぎわに女の子がいる。背は低い。それなのに顔には年に合わない硬さがある。笑いが起きる前に、その子が先に動く。顎を上げ、つま先を蹴り、肘で隣の子をつつく。
チョークを置き、ゆっくり教壇を降りる。踵が板を踏む。とん、とん。二度で近くの子の笑みが固まる。その子の前で止まる。濡れた服の汗のにおいと、石炭の煙のにおいが少しする。選炭場から来たばかりのようだ。
「名前は」とあなたは訊く。
その子は顔をそむけて答えない。
ポケットから名簿を出す。静けさのなかで紙をめくる音がはっきりする。指がその行で止まる。「マーサ」
自分の名を聞いて、口もとが少し動いた。従うつもりはない、それでいて少し得意でもある、という動きだ。
「マーサ。いま投げたものを拾いなさい」
動かない。子どもたちはささやき合い、あなたの次の手を待っている。足首のあたりから細い湿りが這い上がってくる。この教室は坑口の風のようだ。隙間を狙って入ってくる。
声は張らない。ただ、言うことをより具体的にする。「拾わなくてもいい。続けてもいい。そうしたら、あなたの名前を書いて、就学監督官に渡します」
マーサの目つきが変わった。叱られるのを怖がる子の縮み方ではない。もっと現実的な警戒だ。家の鍋をひっくり返しにくる通知を見たときの目。あなたを一度見て、すぐ視線をそらす。目のなかを読まれるのを恐れるように。
やがてマーサは身をかがめ、紙玉を拾い、ストーブのわきの鉄の桶へ捨てた。動きが速い。仕事の遅れを取り戻すときのようだ。
あなたは教壇に戻り、チョークを取り、算術を続ける。
今度は笑い声が起きない。子どもたちはまだあなたを見ている。けれどその目には別のものが混じった。測っている。計算している。この人はどれくらい保つのか、と評価をやり直している。
部屋にはチョークが黒板を擦る音と、鉛筆の先が紙を掻く音と、窓の外からかすかに届く炭鉱の唸りだけが残る。その唸りは壁ごしに、みんなの背を低く押している。
教壇に戻って名簿を閉じる。この授業はまだ始まったばかりだ。炭鉱町の子ども時代という遊戯も、始まったばかりだ。首謀者はもう分かった。
そして分かっている。マーサはあなたに叱られることを怖がってはいない。怖いのはあなたの口にあるあの言葉——就学監督官だ。
1.3 子どもを連れていく男と、あなたの手にある法律
就学監督官。二十世紀前半の炭鉱町では、人はもっと露骨に彼をこう呼ぶ。Kid Catcher——学校をさぼる子どもを狩る男。名を書き留められれば、家は罰金を取られかねない。払えなければ裁判になり、家に残っていた最後の金がストーブの灰のように掻き出される。もっと悪いのは、子どもが連れていかれることだ。感化院か救済施設へ送られ、着るものを替えられ、名前を書き換えられる。
慈善学校の廊下の奥で、石油ランプが鈍く揺れ、剝がれかけた壁の塗りを、古い傷痕の連なりのように照らしている。
ペンの蓋を開け、ペン先をインクに浸す。インクが紙の繊維に染みて、細い黒い線を残す。
名簿には空欄が多い。欠席を見るのは初めてではない。けれどここでは空欄が密集している。1902年の教育法の条文が頭に浮かぶ。地方教育当局は子どもの教育に責任を負い、親や保護者は出席を確保する義務があり、怠学には罰がある。
ペン先をマーサの行で止める。空欄は多くない。それでも目に刺さる。顎を上げたあの仕草を思い出す。「就学監督官」と聞いたときの、目のなかのあの警戒を思い出す。
名簿を閉じ、外套を取って中庭へ出る。狭い庭だ。地面は踏み固められた土で、水たまりに灰色の空が映っている。軒のあいだから夕暮れがいくすじか漏れてくる。子どもたちはもう帰った。低い塀に鴉が数羽残って、かすれた声で鳴いている。
遠くで選炭場がまだ唸っている。ここの日々は機械と労働時間が決めるのだと、告げるように。
マーサは帰っていなかった。玄関の庇の下に立って、端に結び目を作った麻縄を握りしめている。靴のわきは擦り切れ、靴下には継ぎが当たり、膝には乾いた泥がついている。あなたが近づくと、つま先が半寸下がり、それから無理やり止まった。
「あなたの保護者は誰」とあなたは訊く。
唇を結んで、すぐには答えない。庭の角から風が抜け、額の乱れた髪を動かす。それから急に、低い声で言った。「あの人を呼ばないで」
「誰を」と重ねて訊く。
「子どもを連れていくやつ」。押し出すように言う。「わたしを連れていく。妹も連れていく。母さんは泣くし、お金もなくなる」
胸のなかで何かが止まる。あなたは責任の話をするつもりだった。あなたには根拠となる法があり、出席を求める権利がある。けれどその言葉はこの子の耳に落ちると、別のものに変わる。教室の秩序ではない。家の戸口に来る災厄だ。
名簿を持つ指がわずかに締まる。罰金は鈍い刃だ。すぐには殺さない。それでも一家をゆっくり崖まで追い詰められる。「慈善学校」がこの町で何を意味するかも、知らないわけではない。施しと受け取る人もいれば、監視と受け取る人もいる。就学監督官を口にし続ければ、あなたの善意は脅しの形になる。
それでも手は放さない。低い声で言う。「呼びません。でも、保護者には会わなければならない。明日から、ちゃんと学校に来なさい。午後は働いてもいい。でも午前は来ること。分かった?」
マーサはあなたを見上げる。その目にあるのは計算だけだ。勘定をしている。午前を学校に使えば何ペンス減るのか、午後の選炭場でどれだけ取り返せるのか。最後に、ひどく不承不承に、一度だけ頷いた。
「保護者を呼んできて」。あなたは付け足す。「いますぐ」
麻縄をさらに強く握り、指の節が白くなる。身をひるがえして駆けていき、靴底が泥をはねて細かい飛沫を散らす。あなたは庇の下で待つ。廊下から漏れるランプの光が、庭の水たまりに映って、揺れる金色の薄片のようだ。
日が落ちる前、軽く、それでいてよく響く足音が近づいてきた。顔を上げると、まず濃い色のズボンの裾が見えた。コーデュロイの畝がランプの光に暗く浮いている。それから短いベストと古い上着。袖口は擦れて毛羽立っている。来た人はハンチング帽をかぶり、帽子のつばが金髪を押さえていて、首には鮮やかな赤い布を巻いている。その人は庭の中央で立ち止まり、視線をあなたの上に走らせて、名簿のところで止めた。用心深い目だ。振り下ろされるかもしれない刃を見るときの目。
「わたしに用?」。選炭場が磨き上げた硬さのある声で言う。
マーサはその後ろに隠れ、顔の半分を影に入れている。
そこでようやく分かる。疲れきった母親ではない。怒った父親でもない。
目の前にいるこの保護者も、まだ半分子どもだ。
1.4 坑口の娘と「小さなカナリア」
大人の着るような粗い上着を着ている。それでも、その人を大人として見ることができない。
できるだけ感情を入れずに言う。「マーサの保護者を呼びました」
口もとが少し動いた。笑いかけたようでもあり、歯を噛みしめたようでもある。「わたしだ。ケイトっていう」
あとで、もうすぐ十七になると知った。けれどそのときあなたが最初に思ったのは、この子は若すぎる、ということだった。ロンドンの女子学院にはこの子より年上の学生がいて、その指は清潔でやわらかかった。目の前の少女の手は荒れて、指は赤い。それでも顔は、ひと目で憶えてしまうほど澄んでいる。眉骨がすっきりして、目が明るく、鼻筋がまっすぐだ。ランプが揺れると、その横顔は、舞台の硬い照明が切り出した陰影のように見えた。
その一瞬、記憶がロンドンの劇場へ引き戻される。二階の桟敷に座っていた。目の前には擦れて滑らかになったビロードの手すり。客席は熱い羊毛と白粉のにおいが混ざって、こもって甘ったるく、くらくらした。
『ハムレット』をやるような立派な劇場ではない。ミュージックホールだ。小唄、冗談、短い芝居。灯りがつくと、舞台に掛かっていた明るい布が剝がされたようになる。何もかもが速く、切れよく、目を引くように作られていた。いちばん目を引き留めたのは男装の演目だ。女が男の服で舞台に立ち、水夫や士官や若い恋人を演じる。軽薄な紳士まで演じる。締める胴着をつけ、髪を硬い帽子のなかへ押し込み、歩幅を大きくし、背を伸ばし、指のあいだにステッキや小道具の煙草をはさんで、男の立ち方をまねる。冗談を言うときは口の端を上げ、恋の歌では声を半音落として、客席に本物の若い男を見ていると思わせた。
ヴェスタ・ティリーはそういう舞台の花形だった。彼女は体面があって機転のきく小紳士を演じるのがうまく、歩き方が軽くて、踵の下にばねが隠れているようだった。ベッシー・ボーンヒルは少年のような茶目な歌を好み、笑うと、わざと規則に穴を開けようとしているみたいだった。ヘティ・キングはよくステッキを持って出て、その先で床を軽く叩くと、客席全体が息をひそめた。彼女の拍に引かれたように。彼女たちは自分を滑稽にして笑いを取ったのではない。逆だ。少女たちは「美男」をあまりに真剣に演じたので、それが扮装であることを忘れさせた。
女子校でその名前を聞いた。人前で「好き」とは言わない。寮のなかで声を落として口にするだけだ。誰それの写真がまた新聞から切り抜かれて、ラテン語の教科書に挟まれている。誰それがページをめくるとき指先が止まる。紙のほうが勝手に熱を持つのを恐れるように。先生が近づけば本はすぐ閉じられ、表紙はきちんと整っているのに、鼓動のほうは整わない。そのころのあなたは、それを青春のひと吹きの風だと思っていた。吹き過ぎればそれまでだ、と。
その風がいま、目の前に立っている。顔は石油ランプに輪郭をはっきりと照らし出され、舞台の上の「美男」が紙から落ちて、本物の骨と肉になっている。ばかげた考えがよぎりさえする。これは何かの演目ではないのか。誰かがあなたの恥をかく姿を見ようとしているのではないか。次の瞬間、袖口の石炭と靴の泥が見えて、分かる。これは演技ではない。これは生活だ。
「保護者に何の用だ」。炭鉱町が磨いた、ざらついた声で言う。
名簿を少し持ち上げる。紙の角が手のひらに触れる。「明日から授業に来てもらいます。できれば終日。欠席が多すぎます」
ケイトの口の端が引きつる。「終日? 口で言うのは簡単だな。あんたが飯を食わせるのか」
マーサはその背後でいっそう縮こまる。持ち上げられるのを怖がる小さな獣のようだ。頭のなかを「就学監督官」という言葉がよぎる。鞘のなかで刃が動くように。その刃の重さも知っている。罰金、召喚状、パンを買う金が持っていかれ、子どもも連れていかれる。そして、その程度の力さえ口にできないなら、あなたは笑い声にこの学校から押し出される。
言うことをより具体的にする。「午前は学校へ。午後は働いてかまいません。読み書きと計算ができるようになる必要がある」
ケイトは鼻で笑い、視線をあなたの袖口から帽子のつばの下の巻き毛へ走らせる。「読み書きと計算で、今夜あの子の腹がふくれるのか。母親の咳が減るのか」
遠くで機械が唸り、石炭の煙が鼻に入ってくる。見えない手が人を追い立てているようだ。それでも出席簿を下ろさない。「半日就学なら話し合えます。でも午前はここにいること。計算を覚えて、通知が読めるようになって、自分の名前が書けるようになる必要がある。でなければ一生、誰かに引き回されます」
ケイトの目に何かがひらめく。火花が渡ったように。
「あなたたちがわたしを教師に呼んだ」とあなたは言う。「来たからには、わたしは去りません」
ケイトはあなたを見る。その一文を量るように。夜の色のなかを風が抜け、炭鉱の汽笛が鳴る。と、急に一度笑った。「小さなカナリア」
そう呼ばれた。
その呼び名が落ちたとき、マーサの肩がいっそう縮んだ。まず浮かんだのはロンドンの応接間で聞いた冗談だ。やさしくて、きれいで、かわいがられるもの。けれど炭鉱町の風が、その言葉から甘さを吹き飛ばしてしまった。残るのは鉄錆のような冷たさだけだ。坑内でガスを調べるのにカナリアを使うことを思い出す。あの鳥は歌う。そして危険が来たとき、まっさきに死ぬ。
「脅しですか」とあなたは訊く。声は自分で思ったより高くなった。
ケイトは首を振る。「教えてやってるんだ。ここは劇場じゃない。ひと節まちがえたら、倒れる」
その言葉に刺される。「歌いに来たんじゃありません。あの子に学校へ来てほしいだけです。法律にもそう書いてある」
ケイトの目が光る。やさしくはない。「法律? 法律は、女は坑へ下りるなとも書いてたぞ」。顎をさらに上げ、石をひとつ目の前に突き出すように言う。「それでもわたしたちは炭鉱で働いてた。炭車を押して、石炭を選り分けて、罵られて。あんたらはそれを『保護』だと言う。誰を守るんだ? 男の賃金をもらわないように、男の仕事につかないように、わたしたちを守ってるんだ」
自分の息が重くなるのが分かる。その禁令がずっと昔から来ていることは知っている。鉱山法が女を坑内から締め出した。いまの人はそれを「保護的立法」と呼ぶ。けれどここでは、その「保護」は現実に落ちてくると、たいてい剝奪になる。ケイトのズボンと靴を見て、それがなぜ物議をかもすのか、急に分かる。
「坑へ下りたいのですか」とあなたは訊く。
ケイトは少し笑う。「金がほしい。自分たちで何をするか決めたい。下りて、もらうべき賃金をもらわせろ。『体面』を縄にして、わたしたちを地面に繋いで飢えさせるな」
出席簿を握ったまま、一瞬ためらう。あなたの手にある「合法」は、ほんとうに刃なのかもしれない。もともと危うい彼女たちの日々を切り裂いてしまうのかもしれない。それでも手は放さない。マーサを見る。いっそう深く顔を伏せている。
「わたしはこの一件だけを話します」。声を落とす。「マーサは明日の午前に来る。授業のあと十五分残る。わたしが教えて、今日の問題を正しく解かせる」
「十分」。ケイトは値切るように繰り返す。「一分でも多くはだめだ。選炭場がある」
あなたは頷く。「十五分」
「決まりだ」
そう言うと、ケイトは手を伸ばしてマーサを背後へ引き寄せた。動きが速い。取られやすいものを庇うように。マーサの指はまだその上着の裾を掴んでいる。
ケイトは背を向けて二歩進み、それから振り返ってあなたを見た。「小さなカナリア、あまり高く歌うな。坑のなかじゃ、いちばん高く歌うやつが、いつでも先に倒れる」
二人が路地に消えてから、あなたは自分の手がずっとあの名簿を放していなかったことに気づく。