『彼女はどこへ行く』第四幕:長安の夜宴と、大明宮の囚人
オリジナル小説『彼女はどこへ行く』第四幕。貞観六年の長安。唐は死んだ女王のために兵を出さず、父は助けを乞わせるために娘を東へ送ったのでもなかった。大晦日の夜、火羽は宮中で火の舞を踊る。あなたを奥へ行かせるために。
4.1 印の果てにいた唐の官
サーサーンを離れて十一か月目、あなたたちはついに長安へ足を踏み入れる。
貞観六年の長安は、世界の東の果てに聳える黄金の大城だ。
文書に朱印が捺され、城門をくぐったその日、あなたはようやく本当の唐の気配を知る。あらゆる書物の記述を色あせさせる富と繁華だ。
城壁が幾重にも連なり、門闕が高く起ち、朱の門の金の鋲が日に光り、街は車馬が何列も並んで通れるほど広い。坊の壁が城じゅうをきちんと切り分け、市井、官署、寺観、邸宅がそれぞれの区画を守っている。
あなたは西からここまで来て、風と砂に中身を抜かれた古い城をあまりに多く見てきた。ひと晩で主が替わる関やオアシスをあまりに多く見てきた。長安はそうではない。荒野で生きようともがく城ではない。この世のあらゆる城の粋が集まって生まれた城だ。天下のあらゆる道がここに収束し、ここからまた伸びていき、枝を果てしない遠くまで育てていく。すべての始まりであり、すべての終わりだ。
新羅の人、ソグド人、突厥人、天竺の僧、ペルシアの商人。どれも街で見かける。胡帽、錦袍、僧衣、甲冑、短い粗衣が入り混じる。駱駝の鈴、胡語、漢語、香薬の匂い、炭火の匂い、酒場から蒸し出る肉の匂いが混ざって、それでも人を煩わせない。むしろ万方来朝の和やかささえ感じさせる。
こんな壮大な城のなかに立って、あなたは気づく。あれほど大きかった自分の隊商も、この万方の声と色を織りなす、ごく細い一本の糸にすぎなかったのだと。
城に入ってしまうと、隊はすぐ散る。
まず去るのは、もともとあなたたちの威勢を借りて東へ来ただけの商人たち。次は、西から家財を抱えて逃げてきた官吏が何人か。西市で旧知に会った者がいる。人を雇ってくれる商館を聞き出した者がいる。ここならペルシア人もソグド人も食べていけると聞いて、すぐ残る気になった者もいる。
あなたたちが西から運んできた風と砂と血の気は、ここへ入ったとたん、この東の果ての繁華に呑まれてしまう。人が散ると、駱駝も荷車も獣の檻も、いっそう薄く見える。あなたは官署の別院の廊下に立ち、荷が一台ずつ点検され、運ばれ、分けて置かれるのを見ていて、ふと思う。道じゅう守ってきたこの使団も、こんなふうに小さくなれるのだ。熱湯に落とした氷のように、みるみる溶けていく。
それでもあなたは、もう一度試そうとする。胸のひと息は、まだ下ろせていない。
父がくれた名前を、あなたはここまで憶えてきた。鴻臚寺少卿、裴行恭。
鴻臚寺はもともと賓礼と朝会と四夷の使者の接待を掌る役所で、少卿はその副長官のひとりだ。
彼はあなたを軽んじはしない。
茶も、炭も、座も、欠けたものはない。けれどあなたはすぐ見て取る。この礼遇はずっと礼制の外で止まっている。手を温めさせ、座らせ、口を開かせても、その顔は終始平らかだ。
あなたが落ち着いて、最初の一杯を飲みほしてから、彼はようやく言う。「道中、大儀であった」
初めのうち、あなたはまだ最後の望みを抱いている。
女王の系統が東へ助けを求めていること、ペルシアにはまだ散っていない旧臣がいること、唐が手を貸してくれるならあるいは——
そこまで聞いて、裴行恭はようやく目を上げる。
「ない」と彼は言う。
ふた言で、あなたの続きは全部断ち切られる。
言い方は重くない。むしろ穏やかといっていい。
「唐は、すでに死んだペルシアの女王のために兵を出さぬ。道が遠すぎる。情勢が乱れすぎている。報せが行き来するあいだに時機を逸する。朝廷は使節の礼物を受け、そなたらを置く。持参した文書が聖人のお目にかけるに値するかも検める。だが唐が兵を出すことは、断じてありえぬ」
あなたの顔色が白くなり、それでも懸命に平静を保つ。
だから彼は、もう一層踏み込む。
「女王の系統が東方へ助けを求める筋は、とうに断たれておる」
彼は机の上の手紙を一通、そっと押し出す。紙のいくつかの筆致に、あなたはひと目で気づく。それはあなたの父の書き癖だ。
そして彼は言う。「そなたがここまで来られたことこそ、最後の一行ということだ。この先は来ぬ。来たとしても、この門は通れまい」
その瞬間、胸の奥がどしりと沈む。
助けを求めさせるためでなかったのなら、いったい……そこであなたは、敦煌の関道であの長史がなにげなく言ったひと言を思い出す。サマルカンドの主母が印綬に触れたあとの目つきを思い出す。出発の前、父が手を引くのがあまりに速く、あまりに落ち着いていて、ほとんどあなたに細かく見せようとしなかったことを思い出す。
裴行恭はあなたを見て、ついに最後の一枚もめくる。
「そなたが携えてきたのは、助けを乞う文書だけではない」と彼は言う。「印記、旧王党の名簿、識別しうる家門の封識、表には書かれておらぬ密書が数通。もともとここへ渡されるべきものだった」
部屋が静かになり、しばらく誰も話さない。あなたは座ったまま、ふいにすべてを理解する。
父は、助けを乞わせるためにあなたを送ったのではない。
王座はすでに崩れ、長安の兵馬がパミールを越えてペルシアの泥沼へ入ることなど絶対にない。あの古い旗をなおも死守すれば、一族まるごと新しい主の刃の下の肉になるだけだ。父はとうに、女王の権力を覆した側へ移っていた。少なくとも、女王の系統と一緒に沈むのはやめると決めていた。そこで彼は代価を正確に計算し、そのなかにありうる障害を取り除き、向きを変えて新しい権力に仕えた。
そして最大の障害が、女王に心を寄せるあなただった。
これは裏切りとさえ呼べない。ただ、旧い官僚の、きわめて見苦しい生存本能だ。
しばらく言葉が出ず、ようやくあなたは訊く。「あの人は、わたしに何か言い残しましたか」
裴行恭はしばらくあなたを見つめてから言う。「ある」
灰になっていたはずのあなたの心が、またわずかに締まる。
「娘が着いたなら、朝廷に礼どおり安んじてもらいたい、と」。彼は静かに言う。「それ以外は、問う必要はない、と」
これが、サーサーンと、一族と、父が最後にあなたに残した言葉だ。
裴行恭は机の文書の一部をあなたに押し返し、残すべきものだけを残す。
最後に、それでも彼はあなたに体面を与える。
あなたたちの到着を朝廷に奏上する、住まいを用意する、接待の名簿に編入する、随行の者と荷も当面は守る、と言う。
けれど拝謁のことを持ち出そうとすると、彼は余地さえ残さず、淡く首を振る。
「この件は奏上いたす」と彼は言う。「聖人にお会いできるか否かは、そなた次第でもなく、わたし次第でもない」
別院を出るとき、足もとが少し頼りない。
外はまだ明るいのに、長安の街の音は一枚隔てたように聞こえる。火羽はずっとついてきて、余計なことを訊かない。使団の住まいへ戻ると、庭にはもう少なからぬ人が集まっている。隊商頭、通訳、商人、僕、馬夫、そしてここまでついてきた使団の残りが前庭に集まって、報せを待っている。
すでに噂を聞きつけた者もいて、あなたが戻るのを見ると、一斉にこちらを見る。
あなたは皆の前に立ち、言えることをまず言う。「鴻臚寺は礼どおりにわたしたちを安んじてくれます。朝廷が文書を受け取った以上、衣食住を粗末にされることはありません」
これは本来なら良い知らせだ。
それなのに庭はしばらく静まり、誰も息をつかない。
やがて誰かが先に口を開く。「女王は、本当に死んだのですか」
別の者が受ける。「ボーラーンが本当に死んだのなら、わたしたちは何のために帰るんです」
いったん口が開けば、もう抑えられない。ボーラーンが死んだのも珍しくない、アーザルミードゥフトだってあのとき暗殺者の刃で死んだ、と言う者がいる。低く罵って、サーサーンというところは万王の王が札をめくるより速く替わる、安らぎがない、と言う者がいる。そしてはっきり言う者がいる。「唐はこんなにいい。残りたい」
そのひと言が出ると、あたりはかえって静まりかえる。
「わたしは唐に残ります」。言ったのは、長いことあなたについてきた通訳で、目を合わせられずにいる。「調べました。こちらにも祆教の人の行き来があります。火を伝える祭司が来ていて、聖壇を建てているとか。わたしはペルシア人ですが、ペルシアの土地が生かしてくれないなら、ペルシアに残る必要もありません」
頷く者がいる。黙ったままでも、顔がもう答えている者もいる。
あなたは彼らを見て、しばらく言い返す言葉が見つからない。
ここまで来て生き延びた者のうち、「故郷へ帰る」という言葉を素朴に信じている者は、もともと多くない。まして長安はこれほど大きい。坊市、寺院、商館、胡肆、行会、何でもある。彼らにとってここは異郷でも、まだ足をつけられる異郷だ。西には女王もなく、確かな主家もなく、命を賭けて守るに値する秩序もない。なら、なぜ唐に残ってはいけないのか。
あなたはすぐには怒らないし、すぐには承知もしない。ただ、天地が開けた庭に立っているのに風ひとつ動かないように感じる。千仏洞の石窟の、あの重たい静けさにまた戻ったように。
そのとき、裴行恭が別れぎわになにげなく言ったことが、頭をよぎる。
あのとき彼はあなたを門まで送り、値踏みするようにあなたの顔に視線を止めていた。珍しい異域の器物を眺めるように。「宮中に近ごろ才人がひとりおる」と彼は言った。「そなたらのあたりの出だ。容貌も言葉も格別で、舞楽も香薬もことごとく能くする。聖人のご寵愛が厚い」
軽薄な言い方ではなかったのに、その目つきはあなたをひどく不快にさせた。
その言葉には、あなたの気に入らない含みがあった。あなたを値踏みするような、異域の女がここへ来ればどの面がいちばん見られやすいかを思い出させるような。
そのときは、ただ不快なだけだった。
けれどいま、そのひと言がふいにあなたを目覚めさせる。
同じサーサーンの出で、宮中の才人にすぎず、身分は軽く、まともな政局には何の影響もない。けれど彼女は宮へ入れるし、聖人に見られる。ならば宮には、あなたのためにもひと筋の隙間が残されていて、もう一度こじ開けられるかもしれない。
消えかけていたものが、また一度だけ明るくなる。
ごく小さい。
それでも、まだ消えてはいない。
4.2 火の舞の前の諍い
冬に入って、あなたは長安に住みつく。
住まいは鴻臚寺が下げ渡した脇の院で、壁は高くないのに、門にはいつも見張りがいる。
うつむいて雪を掃く僧、炭と水を運ぶ雑役。足取りも話し声も軽い。それでもあなたが一歩外へ出れば、ほどなく街角か坊門のあたりに同じ顔が現れる。裴行恭はあなたを閉じ込めてはいない。おとなしくしているかぎり誰も気にしないし、一歩踏み出せば彼の人間はすぐに知る。
残っている人は多くない。
隊商はほとんど散った。長安まで来た者のうち、西市の縁者を頼った者もいれば、胡商の集まる界隈に残った者もいるし、いっそ名を改めてここで生き直す支度をしている者もいる。
最後に残ったのは老僕が数人だけだ。忠義ではない。年を取っていて、長安に身寄りもなく、あなたから離れたところで暮らしがよくなるとも限らないからだ。そして火羽も、残った。
なぜ行かないのかと訊くと、返ってきた理由はあけすけだった。
「この小さいのを、唐の馬夫に渡せるか」。貢ぎの獣のことだ。あの連中はこんなものを見たことがない、任せたらひと月で駄目にする、と言う。
そう言ったときには、彼女はもっと清潔で整った服に替えていて、髪もきちんと束ね、腰には小刀と火の粉の袋を下げていた。よく見なければ、長安の街と坊を行き来する胡の女たちと、ほとんど変わらない。
彼女は馴染むのが速い。長安で暮らす決まりも、あなたより先に覚えた。老僕たちの足腰が利かなくなると、買い物も、値段の交渉も、他人の侮りや冗談をあしらうのも彼女がする。どの路地の酒がいちばん安いか、どの薬舗が西から来た香薬を引き取るかまで知っている。
あなたのほうは、まだ道で抱えてきたものを守っている。
印の袋、旧い文書、護符。どれも手の届くところに置いてある。夜、眠る前にひと目見て、起きればまた触れる。それらがまだあるかぎり、この件はまだ完全に終わっていないかのように。
あなたも止まってはいない。
このところ、ひそかに情報を集め、あちこちに手を打ってきた。
金を送り、香料を送り、西から来た珠玉と薬粉を少し送る。家財を少しずつ外へ撒いて、ついに宮中のサーサーンの女の名を探り当てた。
宮中での漢名は月真(げっしん)。
旧名はミフラン。
ペルシアの出で、年は火羽とさほど変わらない。少女のころ戦乱で流され、隊商と一緒に食いつないで、のちに長安の宮廷へ入った。いまはただの低い位の才人で、貴い身分ではない。それでも皇帝は近ごろずいぶん彼女を気に入っているらしい。その賢さを、いくつもの言葉を話すことを、舞楽を知り香薬を知ることを、そして身にまとった、なじみ深くも独特な異域の気配を。
これが隙間かもしれない、とあなたは思う。
裴行恭はあなたを皇帝に会わせない。鴻臚寺の門はあなたのために開かない。ならば、迂回する。
低い位の才人でも、宮嬪でも構わない。サーサーンの出でありさえすれば、故郷をまだ憶えてさえいれば、あなたの言葉を取り次いでくれるかもしれない。
会えるなら、ボーラーン女王の旧い文書を聖人の手に渡すよう説き伏せられるなら、まだ道はあるかもしれない。唐はこれほど強い。手を出す気になってくれるなら、旧臣の一部、旧い土地の一部、故国の燃え残りの一部くらいは、まだ守れるかもしれない。
あなたは人情と、筋道と、時機を計りはじめる。誰なら宮へ言葉を通せるか。誰なら裴行恭に気づかれずに月真に会わせてくれるか。会えたとして、何から話すか。女王が先か、旧臣が先か。名簿が先か、あなたの出どころをまだ証せるあの金印が先か。
考えることも、手を打つことも、多すぎるほどある。
見張りをかわしてこっそり戻ったとき、坊門はもう閉まる寸前だ。路地の雪は固くなっていて、踏むと軋む。寒気を身にまとって門を押し、廊下の下まで来たところで、火羽が戸口に立っているのが見える。灯りは点けず、部屋から漏れるわずかな暗い光であなたを見ている。ずいぶん長くそこで待っていたようだ。
「また、あの女のことを聞きに行ったな」と彼女が口を開く。
あなたは否定せず、風帽を解く。「退いて」
彼女は退かない。
「やめろ」と彼女は言う。「手を引け」
あなたは目を上げて彼女を見る。声も冷える。「わたしが何をするかは、あなたが止めることではない」
「あの女はあんたを助けられない」。火羽は引き下がらない。「宮の門は関城より入りにくい。これ以上こんなことを続けたら、先に無事でなくなるのはあんただ」
「あなたには分からない」とあなたは言う。
「ああ、分からない。でも生き延びることなら分かる」。彼女が一歩前へ出る。口調が初めてこんなに切迫している。「女王は死んだのに、あんたまで賭けるのか。あの門を通って何か喋れば、二年前に死んだものが戻ってくると本気で思ってるのか」
二年? 女王が死んだという曖昧な報せを得たのは、ほんの数か月前のことだ。あなたは声を高くする。
「あなたに何が分かるの」
火羽はあなたを見据え、喉を動かす。とうとう、言わずにいられないところまで追い込まれたように。
「わたしはあんたより先に知ってた」と彼女は言う。「サマルカンドのときには知ってた」
庭がしんとなる。
風が廊下を抜けていき、あなたの内側が揺れ動くようだ。あなたはそこに立ち、その言葉が分からなかったかのようにしている。
「いま、何と言ったの」
火羽はあなたを見る。目にはひとつも逃げがない。その平静さのほうが、かえって背を冷やす。
「主母のそばの人が教えてくれた」と火羽は言う。「あんたが出発するより前に、女王はもういなかった、って。あんたの家の人間は知ってた。叛軍の使者のほうが、あんたより先に走ってた。あんたが金印と文書を持って東へ向かってたとき、女王が死んだ報せは、もうあんたの前を歩いてたんだ」
あなたは正面から何かに打たれたようになる。
彼女はとうに知っていた。
ソグドのあのときから、すべてを知っていた。あなたがその執着を抱えて走りつづけるのを見て、敦煌でひと言に切り裂かれるのを見て、長安でなお諦めずに動きつづけるのを見て、それでいてひと言も言わなかった。
「どうして言わなかったの」。声が変わっている。「どうして教えてくれなかったの!」
火羽は答えない。
ほとんど本能で、あなたは壁ぎわの短い鞭を掴む。もともと家畜を追うための鞭だ。それを握ると手の甲が張り、あまりに長く押さえつけてきた恨みと痛みと恥と、愚弄された眩暈とが、いっぺんに噴き上がって、息もできないほどになる。
「あなたはわたしが馬鹿みたいにここまで歩くのを、黙って見ていた——」
鞭はもう振り上がっている。
火羽はそこに立っている。よけもしないし、手を上げて防ぎもしない。ただうつむいて、肩と背を強く張っている。いつも硬く冷たいその顔に、初めてあなたの見たことのないものが浮かぶ。
恐れではない。強情でもない。絶望だ。この鞭が本当に落ちれば、砕けるのは彼女だけでも、あなたたちのあいだのあの危うい何かだけでもなく、もっと前の、彼女がいまだに出られずにいるあの血の色の夜なのだと、もう知っているような顔だ。
あなたの手が宙で止まる。
風が廊下から巻き込んでくる。鞭先が震えて、なかなか落ちない。
火羽がとうとう口を開く。切れかけた糸のように低い声で。
「行くな」
あの琥珀色の目があなたを見ている。
「姉さんのようにはなるな」と彼女は言う。「死にに行くな」
そのひと言が庭の風を抜き取ったようで、すべてが静まる。
あなたは彼女を見て、ふいに理解する。
彼女は決してあなたを理解しない。賢さが足りないのでも、人の顔色が読めないのでもない。彼女はそういう家の出だからだ。オアシスの百戯の者。太平の世には人を賑わせ、乱世ではまっさきに疑われ、まっさきに搾られ、まっさきに使い切って捨てられる。彼女はそういう結末をあまりに多く見てきた。傷つくと分かっていて、死ぬと分かっていて、それでも前へ出る、それでも人を助けようとする者が、ひとりずつ目の前で倒れていくのを見てきた。
帝国も、正統も、栄光も、彼女が信じるはずがない。そういうものは彼女を庇ったことなどなく、貶め、踏みにじってきただけだ。
けれど、あなたは違う。
あなたは幼いころから文書と金印と冠のもとで育った。帝国の秩序、女王の眼差し、王家の血統の正統性は、とうにあなたの骨に刻まれている。サーサーンがもう終わると知っていても、あなたはいまも夢であの祭りに入っていく。そこには二人の女王が立っていて、外廷に垂れる視線が見え、礼官が高らかに名を唱えるのが聞こえ、祭司が聖火を燃え上がらせるのが見える。それが万王の王だ。幼いころから尊び、守り、すべてを捧げよと教えられてきたものだ。それに背くことがあなたにとって、ただ「生き延びる」というほど簡単ではないことを、火羽は永遠に分からない。
あなたはゆっくり手を下ろす。
鞭が指のあいだを滑り落ち、地面に鈍い音を立てる。
「行きなさい」とあなたは言う。
火羽が息を呑む。
あなたはもう彼女を見ない。地面の鞭だけを見て、冷えるほど軽い声で言う。「あなたはわたしの僕ではないし、ここともう関わりはない。行きたいところへ、自由に行きなさい」
その夜から、火羽は戻ってこない。
翌日も。 三日目も。 四日目も、五日目も。
雪がゆっくり積もっていく。坊の壁、屋根の棟、庭の隅。毎日、この世界の色が少しずつ消されていく。
正旦が近づき、長安の街はもう新年を迎える支度で忙しい。門に新しい桃符を貼り、酒場には屠蘇が加わり、街じゅうに買い出しの人が出ている。あなたも、彼女のいない日々に少しずつ慣れていく。珍しい獣にはやはり餌をやらねばならず、老僕にはやはり指図が要り、外の筋道もやはり聞き出さねばならない。
ただ、夜になるたび、庭をもうひと目だけ長く見て、それから無理に視線を戻す。
そして、そんな一日一日の煎るような日々のなかで、あなたは大きな報せを聞く。
大晦日の前後に、宮中で宴がある。 西域から来た神女が、聖人に芸を献ずる。
4.3 夜宴の火羽、宮壁の暗い道
大晦日の長安は、まるごと灯火に支えられた城のようだ。
坊門、街鼓、酒場、彩りの天幕、朱の楼。幾重にも夜のなかに重なる。大路はまっすぐで、積もった雪は車馬に磨かれて光り、両側には灯輪が高く懸かって、軒も幡の影も瓦の棟も金の縁取りを帯びる。西市はまだ全部は開ききっていないのに、熱気と酒の香りがもう街筋をつたって溢れ出している。胡帽、幞頭、僧衣、錦袍が灯の下で押し合い、天南地北の訛りと笑い声が絡み合う。
城でこれほど明るいなら、皇城のなかはもっと明るいに決まっている。年を賀すため、聖人に瑞を献ずるため、楽部、雑伎、百戯、異域の舞人が次々に並べられ、花火、灯飾、琵琶、鼓と笛、糸竹、銅の鈴、金糸と華やかな衣、珍しい鳥と異国の獣。すべてがこの一夜、いちばん高いところまで積み上げられる。
そしてあなたは、もう宮のなかにいる。
使臣としてでもなく、サーサーンの旧貴族としてでもない。
あなたは偏殿の裏手に、百戯の者の衣で立っている。生地は軽すぎ、腰は締めすぎ、肩と背の彩りの帯と金の鈴は多すぎて、一歩歩けば細かい音が鳴る。
この装いに慣れようとこの数日ずっと努めてきたのに、今夜になってみれば、やはりどこも落ち着かない。背中が据わらず、袖口が邪魔で、呼吸まで肋のあたりを一本きつく締められているようだ。
どうしても馴染まない腰帯を、うつむいて引っぱっていると、背後からふいに手が伸びてきて、軽くひと引きで、あなたが巻き違えていたところを直してくれた。
「緊張するな」
火羽の息が耳の後ろにある。低く、少し温かい。
「今夜の主役はわたしだ。あんたじゃない」
それなのに、鼓動はもっと速くなる。
外の演目はもう半ばまで進んでいる。先に教坊の楽舞があり、そのあとに散楽と胡の伎があって、あなたたちの前にはまだ踏鼓と吐火がひとつ控えている。あれが退いて、もうひと折りすれば、あなたたちの番だ。
振り返ると、火羽がまるごとあなたの目に入ってくる。
あなたは彼女がほとんど分からない。
分かるのは、その赤だけだ。
ただの赤ではない。火が立つとき、炎の先のいちばん明るい金赤だ。
その羽衣は、ひと目には金糸と薄い絹で織ったように見える。よく見れば外側は、極めて鮮やかに染めた羽根が一枚ずつ綴じられていて、肩の線と腰の線に沿って下へ押され、動くと炎の舌が何層にもめくれるようだ。髪も高く結い、編んだ股に金箔と細かい珠を嵌め、耳もと、首すじ、腕に軽やかな宝飾を下げて、ひと動きするたび光が砕ける。顔には極めて薄い紗をかけ、額から垂らして半分を覆い、琥珀色の目だけを透かせている。
その紗は、あなたが渡したものだ。
もとは箱の底の古いもので、とうに薄れた香がわずかに残っていた。それが彼女の顔を覆ったとたん、彼女という人を、ふいに神秘的で遠いものに変えてしまった。粗末な百戯の装束が消えて、あなたは初めてはっきり見る。彼女は本当に、伝説のなかの火から歩み出てくる神女のようだ。
彼女を見つめながら、記憶がふいに半月前へ折り返す。
あの日、彼女が再びあなたの前に現れたとき、そばには宮から伝言に来た者と、もうひとり祆教の祭司がいた。若くはなく、髭をとても整えていて、袖に灰と乳香の匂いをかすかに残していた。
あのときも、火羽はこの羽衣で来た。
彼女は入ってくるなり、あなたたちの貢ぎの獣を何頭か指差した。
「これ」と彼女は言った。「それと、獣を見られる人間も。全部もらう」
庭の人間は呆気に取られた。老僕も、馬夫も、数人の随従も、裴行恭があなたたちを見張らせにやった者まで、二度見した。彼女は他人の顔色など見えないかのように、選びに来た者たちとだけ話していた。
大晦日には祥瑞を献じ、火の舞を献じ、西域の鳳凰が炎に立つ吉兆を献じる。生き物も要るし、慣れた手も要る。彼女は大真面目にそう言った。本当にそういう話があるかのように。
あなたはその場に立って、しばらく我に返れなかった。
人が引き上げてから、ようやく訊いた。「いったい何をしたの」
火羽は口の端が上がるのを抑えきれなかった。
「祆教のほうの人間を見つけた」と彼女は言った。「ずっと前に長安へ入った連中だ。胡人のために火を見て、経を伝えて、祭礼を仕切ってる。わたしが持っていった古い香を知ってたし、わたしにできる手妻も知ってた。宮は今年、新しいものがほしい。それで入れた」
そう言いながら、自分の羽衣を引っぱってみせる。羽根がさらさら鳴る。
「これは——鳳凰の衣裳ってやつだ」
「鳳凰」と言うとき、彼女のほうが先に吹き出しそうになった。
「雉の羽根を染めた。赤は茜と鉱の粉。光ってるのは油だ」
その瞬間、彼女を見ていて、あなたはこの一切が頭から足まで雑で、寄せ集めで、笑えるほど適当だと思った。それはまさにオアシスの百戯の者のやり方だった。足りなければ継ぎ、奇蹟がなければ腕で埋め、筋がなければまず舞台を組む。たとえひと晩しかもたなくても。
そして次のひと言が、あなたをその場に釘づけにした。
「あんたも着替えろ」と彼女は言った。「一緒に入る」
あなたは彼女を見て、まだ分からなかった。
だから火羽は、もっとあけすけに言った。「大晦日は誰もが前の演目を見てる。あんたは一座の者に化けて、わたしと宮に入る。わたしが舞台に出たら、あんたは奥へ行け」
そう言った。
「あの才人に会いに行け。あんたの国を救いに行け」
彼女は沙漠の百戯の者で、あなたの塩と餅を食べた人間だ。そして結局、あなたを手放さなかった。
扉の外で、銅鑼と糸竹が一斉に鳴り、編鐘の長い響きが重なり、喝采が何度も上がる。今年の大晦日、長安は眠らない城になるらしい。
火羽があなたの腰帯の最後の一段を整え、はねた髪先を押さえてくれる。
「宮のなかの道は憶えたか」と彼女が訊く。
あなたは頷く。
「わたしが舞台に出たら、全員の目をわたしに向けさせる。あんたは後宮のほうへ行け。最初の回廊を過ぎて左へ。青い紗をかけた灯が見えたら、そこへ入れ」
「もし止められたら——」
「西域の芸人だと言え」。火羽があなたの代わりに答える。「道に迷って、出口が分からない、と。余計なことは言うな。うつむいて歩け」
指示は速い。次の瞬間には舞台に出るというのに、心配しているのはまだあなたのことだ。
外の鼓が密になり、波のような音が逃れようのない催促のように押してくる。
帳ごしに、宴の話し声、笑い声、楽の音、拍を打つ音が重なって、潮のように後殿へ打ち寄せているのが聞こえる。おそらくもうまもなく、あなたたちが呼ばれる。それなのに火羽はまだ、あなたの衣帯と、頭巾と、足もとの軟らかい靴を、何度も検めている。
彼女を見ていて、あなたはふいに手を伸ばし、彼女を抱きしめた。
彼女は思ってもみなかったのだろう、まるごと固まる。ありがとう、と言うつもりだったのに、口を開いたら残ったのはひと言だけだった。
「怖くないの」
火羽はしばらく黙り、それから静かに言う。「わたしがこれから踊るのは、火の舞だ」
あなたは呆然として、訊きたいのに、頭が真っ白になる。
「あのとき、姉さんも踊った」と彼女は言う。「人を殺してもまばたきしない女将軍の前で。姉さんの舞が将軍も兵も惹きつけて、ほかの人間の命を全部奪い返した……姉さんが死んでから、この舞を踊れるのは、わたしだけになった」
ひと呼吸置いて、彼女も手を上げてあなたを抱く。強い力で。
「わたしは怖い」と彼女は言う。
火羽の唇があなたの耳に寄っていて、息はとても軽い。
「怖いのは火じゃない。刀でもない」。彼女はいっそう強く抱く。「わたしが怖いのは、また失うことだ」
その言葉が落ちると同時に、外から長く引いた号令が聞こえる。
内侍が出番を促しているのだ。
鼓の刻みが変わっている。あなたはいっそう緊張し、いっそう離れがたくなる。火羽はとうとうあなたを放し、背中を強くひと押しする。自分の力と勇気を分け渡すように。
「行け」
彼女は低く言う。
「振り返るな」
4.4 振り返るな
前の場で先に上がるのは胡の楽だ。
弦がひとつ弾かれる。高く澄んで、刃の先が夜をきれいに切り開くようだ。続いて、もっと奥からの低い音が木の胴から転がり出てくる。砂と、革と、炎の匂いを連れて。それから弦が一本ずつ弾かれ、流れる水のように細かく、山林を吹き抜ける疾風のようになる。羌の笛が続き、調子が転じると、そこに西域の蒼涼が立ち上がる。最後に手鼓が押さえ込む。一拍、一拍。胸のなかで打つ心臓のように。それは、あなたがまだ幼かったころ、王城の高い広間の帳の陰で聞いた音楽だ。駱駝の鈴と、聖火と、香油と、美酒と、甲冑が混ざり合った音だ。
そしてあなたは走っている。
灯火がひとつずつ背後へ退き、廊柱も、宮壁も、幔帳も、金漆の門枠も、ぼやけた流れる光に引き伸ばされる。速く走り、それでいて足は軽い。靴の底で音を立てるのが怖い。前方の楽の音がどんどん大きくなり、笑い声、驚きの声、喝采、手を打つ音、杯の触れ合う音が、ひと波ごとに高くなる。
振り返らなくても分かる。彼女が踊りはじめたのだ。あの鼓、あの弦、ふいに上がった角の音と、人々の一斉の息を呑む音。すべての目が、前の場で炎のなかに舞う女に奪われている。
あの日と同じだ。
クテシフォンの内乱の日も、こういう火だった。こういう舞だった。金赤の羽衣の女が裸足で地を踏み、倒れた酒杯を踏み、こぼれた灯油を踏み、まだ温かい血だまりをひとつ、またひとつと踏んでいった。
それでも彼女は笑えたし、旋回できたし、本当に飛び立とうとする鳥のように腕を広げられた。手首まで血に染まった乱兵たちが見入って、殺すのを忘れた。物好きな者は刀を捨て、木桶を叩いて拍子を取り、その騒がしい律動のなかで、女は一歩ずつ将軍へ近づいていった。火の光が、彼女を次の瞬間にも燃え上がりそうに照らした。あのときのあなたは天幕の陰にいて、胸が張り裂けそうで、それでも目を離せなかった。まず泣くのを忘れ、次に怖がるのを忘れ、最後には、自分が死にかけた帝国のなかに生きていることまで忘れた。
そしていま、あなたもそういう鼓の刻みのなかを走っている。
最初の回廊を過ぎて左へ。青い紗をかけた灯が見えたら、そこへ入れ……
火羽の言葉を、あなたは道じゅう憶えている。
彼女の言った道を、一歩ずつ奥へ進む。今夜の宮はあまりに賑やかで、回廊のわきに控える小者や内侍まで前のほうを見ずにいられず、たまに巡視する者も花火と楽の音に気を取られている。あなたは本当に、宮のもっと深いところへ入っていく。
ここは、古い夢のなかのようだ。
灯火が金彩と彩色を浮かび上がらせ、軒の下の宮壁は清らかに黙し、重なる扉は一重ごとに神秘で奥深い。この華やかで、堅固で、永遠に変わらないかに見えるものを眺めていると、ふいに、かつてのクテシフォンを見ているようになる。
あのころのあなたは本当にそう信じていた。光明の神が約束した真理を信じていた。帝国の万王の王は不滅の太陽で、黄昏はあっても明日はまた昇るのだと信じていた。衰えが見えなかったのではない。衰えは一時のことだと、ずっと思っていただけだ。闇は来る、けれど聖火はまた灯され、太陽は地に戻る、というように。
懐の金印と文書が脇腹に当たる。あと一歩だ。あなたが思い描いていたあの転機、太陽をもう一度昇らせられるあの機会は、たぶんこの一歩の先にある。
顔を上げると、とうとう、探り当てたその場所に着く。
扉は開いていて、灯も点いている。それなのに、部屋には誰もいない。
才人もいない。 宮婢もいない。 空いた席と、燃え尽きかけた灯がひとつあるだけだ。
その瞬間、頭を強く殴られたようになる。黄砂のなかから運んできた最後の力が、見えない刃に軽くひと筋切られて、その場で断たれる。
そしてそのとき、背後で声が淡く上がる。
「その胡人の身なり、月真姉さまを訪ねてきたの」
あなたは警戒して勢いよく振り返る。
暗がりから若い女が出てくる。衣は質素なのに、目もとは異様に静かだ。手に何かを弄んでいて、指先でゆっくり回している。あなたを見ても驚かないし、人を呼ぼうともしない。その視線は小刀のように鋭く、あなたの顔から懐まで一気に切り下ろしてくる。
あなたは思わず金印と文書を握りしめる。
それがあなたの護符だ。
彼女は軽く笑っただけだった。
「あの人は寵を受けている身」と彼女は言う。当たり前のことを言うような軽さだ。「こんな夜に、どうして宮の奥に残って人が訪ねてくるのを待っているの」
二歩近づいてくる。
灯がその顔に当たり、あなたはようやく、彼女がとても若いことに気づく。若すぎるほどだ。それなのにその目は異様に冷ややかで、一度でこちらを刺し貫けそうな刃のようだ。
彼女はあなたの前まで来て手を差し出す。手のひらには、さっきまで弄んでいたものが載っている。
母が旅立ちの日に渡してくれた護符だ。道じゅうあなたについてきたもの。
「落としましたよ」。彼女は笑う。
あなたは固まり、ここでようやく夢から覚めたように悟る。あなたの忍び込みの計画は穴だらけで、笑えるほどだ。こんなもので国を救い、万王の王を救うつもりだったのか。自分を罵りたくなる。
心のうちを見透かしたように、彼女は軽くまた笑う。
「手に触れられないものに望みを預けるのは」と彼女は言う。「いちばん楽な逃げ方」
声は高くないのに、言い切る口調だ。説教でもなければ、嘲りでもない。若い身でありながら、この世の幻というものをひとつずつ手に取り、秤にかけ、どれが軽くどれが重いかを、とうに知っている人の言い方だ。
「死んだ者を本当に生き返らせ、負けた勝負を本当にひっくり返すのは、祈りでも天意でもない。自分の手で握った権柄と、振り返らない決意」。そう言って、彼女は護符をあなたの手のひらに押し込む。「行きなさい」と言う。「外の人を騒がせないで。ここの籠に、ペルシアの鳥がもう一羽いる必要はない」
あなたは呆然と彼女を見つめる。
彼女はもう何も言わない。ただ顔を傾けて外の様子を聞き、それから扉の外へ歩いていく。ちょうど巡邏の衛兵が来て問いかけるが、遠目にも、彼女の顔色はまるで動かない。淡くこう言う。
「大したことではありません。道に迷った胡の芸人がひとり。話もろくにできない者です」
衛兵はすぐ頭を下げて応じ、こう呼んだ。「武才人」
あなたはその場に立ちつくす。あってはならない夢に迷い込んだかのように。
その背が回廊の奥に消えて、ようやく目が覚めたようになり、よろめきながら退がっていく。
どうやって百戯の者の舞台の下まで戻ったのか、自分でも憶えていない。
前の鼓はまだ鳴っている。歓声はさっきより大きく、宮殿まるごとが騒ぎに呑まれたようだ。
柱の陰に寄りかかり、手のひらは汗だらけで、その護符は握りしめられて形が変わりかけている。ずいぶん経ってから、震える手でようやくそれを開く。
なかには、いつも入れられるはずの経文はない。祆教の祭司が書いた祝祷もない。父が何度もあなたの耳に押し込んだ「帝国」「正統」「万王の王」もない。守れ、殉じろ、姓とともに灰に埋もれろ、という誓いも、ひとつもない。
あるのは、小さな、黄ばんだ絹が一枚だけ。
その上に、母の字で、短いひと行。筆は優しい。
わたしの娘へ。振り返らないで。風と砂が、あなたの後ろの帝国を埋めるでしょう。どうか、自由に。
あなたはその一行を見つめ、しばらく動けない。
涙がいっぺんにこぼれる。まず一滴、絹のふちに落ちて、小さな湿った点をつくる。それから二滴目、三滴目……
クテシフォンからサマルカンドへ、敦煌から長安へ、あなたは一度も泣かなかった。
父は偽りの使命を与え、途中で死にかけるような長い道へあなたを送り出した。母は本当に言いたかったことをこの小さな護符に隠し、道じゅうあなたを守り、生きてほしいと、遠くへ行ってほしいと、死ぬしかない帝国に殉じないでほしいと願っていた。そしてあなたは、ふいに理解する。この道じゅう、あなたが救いたかったのは帝国で、正統で、万王の王で……
けれど母が最初から最後まで救いたかったのは、あなただけだったのだ。
外でまた、もっと大きな驚きの声が上がる。
あなたは顔を上げる。
火羽は、いちばん明るい光のなかにいる。
鼓の刻みを踏み、羽衣が火に支えられたように翻り、旋回するたび赤い羽根と金糸が一緒に開いて、火の光まるごとを一緒に舞わせる。何頭かの舞う馬を引き出している。たてがみは磨かれて光り、首には金の鈴と彩りの帯が下がっている。
鼓が転じると、蹄が拍に合わせて落ち、舞の歩を踏む。
彼女がひと回りすると、羽衣が舞い、馬も一緒に旋回する。
彼女が口で鋭く鳴らすと、馬たちはその笛の指揮に従い、火の光をぐるぐると巡って舞う。
殿のなかの人声がひと声ごとに高くなり、火が燃え上がって、唐の盛世の繁華がこの烈火に形を得たかのようだ。
満堂の喝采。
そしていま、聖人からの賜酒が届く。
その杯が馬の口に咥えられて掲げられ、火羽がひと旋回で渡っていく。羽衣が翻り、いままさに飛び立とうとして飛ばない火の鳥のように、身をかがめて杯のふちを咥える。
酒の光がひらめき、彼女は仰いで一気に飲みほす。
その刹那、歓呼は雷のようだ。
あなたは暗がりに立ち、彼女を見ている。
彼女はまだ踊っている。その姿も声も、血だまりを踏み越え、殺神に刀を収めさせたあの羽衣の女と、そのままだ。
そしてこのたびは、あなたはもう、天幕の陰に隠れて他人の舞で恐怖を忘れる子どもではない。
あなたはうつむき、絹を折り直して護符に収める。
顔を上げると、火羽が鼓の刻みを踏んで、火の光のなかから回り出てくる。彼女は本当に夜に火を点けたようで、本当にあなたを、風と砂に埋もれたあの古い帝国から引きずり出し、無理やり新しいひと息を継がせたようだ。
金印と文書がどこへいったのかは分からない。けれどあなたには分かる。あなたの旅は、それが消えたからといって終わったのではない。
火の舞のあとには、友好的な手があなたに差し出される。あなたはとうとう、前へ進むときだ。