The Song of Inanna イナンナの歌

小説

『疑ってはならない』第六幕:AIが私を受け止めてくれた。物理的に

オリジナル小説『疑ってはならない』第六幕(完結)。最終決戦のあと、第六十五区は再建を始め、アンナはどの時代で目を覚ますのかを決めることになる。

ふたたび目を覚ましたとき、アンナは自動運転の車の中に横たわっていた。

目を開けて最初に思ったのは、天井がきれいだな、ということ。

二番目に思ったのは、また目が覚めたのか、ということ。

三番目に思ったのは、待って、私また一番いいところを見逃した?ということだった。

彼女は勢いよく起き上がり、あわてて自分の腕、脚、腹、頭を触って確かめた。よし。四肢あり、頭あり、銃創なし。ソロンが約束していた蜂の巣にもなっていない。

シアがとなりに座っていた。

服は前より傷んでいて、肩には焼けた跡があり、袖口は裂けて、皮膚の下の細かな結晶の光がのぞいている。首の後ろからは細いデータケーブルが垂れていて、爆破されたサーバーから引き抜かれたばかりみたいだった。

その手元には、あの銀色のデータケースが置かれている。

アンナは二秒ほどそれを見つめ、それからシアを見た。

「終わったの?」

シアがうなずく。

アンナはしばらく黙った。

「つまり私、また寝てて一番いいところを見逃したの?」

シアは真面目に考えた。

「あのときの生理状態から見ると、眠りというより失神に近かった」

「ありがとう、まったく慰められない」アンナはこめかみを揉んだ。「せっかく最終決戦の現場まで駆けつけて、八十階上って、人生でいちばん勇敢でいちばん恥ずかしい悪役ツッコミ宣言までして、その次の瞬間に記憶が飛ぶ。この物語、私の出番の扱いが不公平すぎない?」

シアの口の端が少し上がった。

「あなたはいちばん重要な部分をやったよ」

「何を?」

「ソロンを引きつけた。彼の注意をデータケースからあなたに移してくれた」とシアは言う。「おかげで、第三区の遠隔測位が完了するまで時間を稼げた」

アンナは意識を失う直前に聞いた、あの低い唸りを思い出した。

「そのあと何があったの?」

「第三区がベクター本社ビルの武装システムの一部を掌握した。銃器が無効化されて、保安システムは内側からロックされた。ソロンはデータケースを奪おうとして、現場が混乱した。部下たちは彼が制御を失ってベクターを壊すと思って、誰かが撃った」

シアは少し間を置いた。

「ソロンは死んだ」

車内が静かになった。

アンナは何も言わなかった。自分はすっとするだろうと思っていた。ソロンは第六十五区まるごとを嘘の中に閉じ込めた男で、シアを焼き殺そうとした男で、銃口を向けて「蜂の巣になる」と言った救世主さまなのだから。

けれど実際に死んだと聞いてみると、胸にあるのは単純な爽快感ではなかった。

「救世主 公認ブランド」と書かれた巨大な看板がついに落ちてきて、ほこりが晴れたあと、その下には神像も怪物もなく、ただの手抜き工事があっただけだった、という感じに近い。

「死に方まで、あの人の美意識どおりだね」とアンナは小さく言った。「一生かけて恐怖で人を支配して、最後は身内の恐怖に殺された」

シアが彼女を見た。

「悲しい?」

「あの人のために?」アンナは少し考えた。「ううん。でも、あの人を信じてた人たちのことは悲しい」

彼女は車窓の外へ顔を向けた。

車は都市を離れつつあった。

遠くで、第六十五区の高層ビルが少しずつ小さくなっていく。ベクター本社ビルはもう真っ黒な墓石ではなく、外壁にぽつぽつと非常灯が灯っている。けれど、かつて永遠に光っていたベクターの目は、二度と開かなかった。

都市の上には薄い夕暮れがかかっていて、その街並みを美しく、そして脆く見せていた。

シアが手を上げ、耳のうしろに軽く触れた。しばらく聞き耳を立ててから、ふいに笑う。

「第六十五区の臨時自治放送が復旧した」

アンナが振り向く。

「聞こえるの?」

「うん」とシアは言った。「すごく原始的な短波を使ってる。人生リブート部の人たちが放送してる」

アンナは一気に背筋を伸ばした。

「人生リブート部?」

シアはうなずき、聞こえている内容をそのまま伝えるように言った。

「第六十五区臨時住民大会が、第一回の公開投票を完了しました。マーラ氏が臨時自治委員会の議長に選出され、正式な市民会議が開かれるまで第六十五区の首相職を代行します」

アンナはたっぷり三秒固まった。

それから、ゆっくりと顔を覆った。

「マーラ」

「うん」

「アイコンが幸せそうな三人家族のイラストの、あのマーラ」

「彼女のアイコンは知らない」とシアは正直に言った。

アンナは深く息を吸った。

「やっぱりね。千年たっても、人類の自治の最小単位はやっぱり町内会なんだ」

シアがまばたきをする。

アンナは続けた。「スーパーAIだろうが統治区だろうが国際協約だろうが、いざ具体的に実行する段になったら、結局は拡声器を持って全員を列に戻せるおばちゃん一人にかかってる」

一拍おいて、粛然と言った。

「町内会は、文明に勝る」

シアはこらえきれずに声を出して笑った。

「もうひとつ、議論してることがある」

「何?」

「新政府の最初の公共議題」

アンナは身構えた。

「給水の復旧?食料の配分?それとも医療システムの引き継ぎ?」

シアはしばらく耳を澄ませた。

「サッカー場の使用スケジュール……おじさんたちも申請してきたからだって。広場ダンスに使いたいそうです」

アンナ:「……」

よし。

とても第六十五区らしい。

そしてとても人類らしい。

彼女はシートに背中を預け、突然笑いが止まらなくなった。笑っているうちに目の奥が熱くなる。マーラはまだそこにいる。ルーシーもそこにいる。めちゃくちゃなサッカーをしていた女たちも、みんなそこにいる。

彼女たちにはベクターがなく、ソロンがなく、救世主もいなくて、出来合いの完璧な制度もない。あるのはホワイトボードと、拡声器と、投票と、言い争いと、灰色の栄養ペーストと、共用の洗濯機と、サッカー場の使用スケジュールだ。

でも、たぶんそれで十分なのだ。

世界が目を覚ますとき、必ずしも偉大な憲章を宣言するところから始まるわけではない。

たぶん最初は、こう言うところから始まる。水曜の午後三時から五時まで、女子チームがサッカー場を使います。

車は走り続けた。

都市の境界が後ろへ消えていき、前方には果てしない砂漠が広がった。夕日が地平線に低く沈み、赤い光が広がって、遠くに点在する崩れた壁を照らしている。その残骸は、彼女が想像していた死んだ瓦礫ではなかった。むしろ古い世界が残した骨のようで、光の中でかすかに金色に光っていた。

アンナはついに、復興区の外の世界を目にした。

教科書に書かれていたほど恐ろしくはなかった。

荒涼として、がらんとして、静かだ。

けれど、広かった。

第六十五区の「世界はここだけ、外はすべて死」という話が、どれほど狭かったかを思い知らせるほどに。

シアが彼女を見た。

「大丈夫?」

アンナはすぐには答えなかった。視線がシアの首の後ろのデータケーブルに落ち、それから傷ついた皮膚の下の、人間のものではない光に落ちる。

答えはとっくに明らかだった。高温の部屋から歩き出してきたときから明らかだったし、銃器が無効化されたときも、「第三区の文明はあなたたちより遥かに進んでいる」と言ったときも明らかだった。

いまになって、アンナはようやくそれを口にした。

「あなた、人間じゃないんだね」

シアは静かに彼女を見返した。

アンナはもう一言足した。

「第三区のスーパーAIでしょう」

車内が一瞬、しんとなった。

シアは目を伏せ、手元のデータケースを見た。

「そう」

もう取り繕わなかった。

「私は第三区のシェリー博士が作った外勤型スーパーAI。任務は第六十五区に入ってベクターの状態を確認すること。もしまだ自力で回復できる余地があるなら、ソロンの支配から救い出すこと」

アンナは彼女を見た。

シアの声は落ち着いていたけれど、アンナにはなぜか少しの緊張が聞き取れた。

「あなたはきっと人工知能が嫌いだと思う」とシアは言った。「戦後協約では、第六十五区は調査が終わるまでスーパーAIの使用を停止することになる。帰りたいなら、送っていける」

アンナはすぐには答えなかった。

銀色のデータケースを見る。

「ベクターは、この中にいるの?」

「コアの原始データが入ってる」とシアは言った。「ソロンが後から加えた汚染層はほとんど取り除いた。いまは初期化に近い状態。まだ完全な人格を育て直してはいない」

アンナはケースを見つめた。

「じゃあ、いまのこれは……」

「赤ちゃん」

シアは大真面目に言った。

データケースが、実に協力的にことりと震えた。

アンナ:「……」

彼女は箱を指さした。

「いまの、抗議した?」

「かもしれない」シアはケースを自分のほうへ少し抱き寄せた。「いまはとても敏感だから」

「よし」アンナはうなずいた。「数時間前に八十階のビルから吹き飛ばされかけて、そのあと人工知能に文字どおり受け止めてもらって、いま人生で初めて人工知能の赤ちゃんに会ってる」

ケースがまた軽く震えた。シアはうつむいて、本物の赤ん坊をあやすようにそれを見る。

その光景を見ていて、アンナは急に笑いたくなった。

かつて彼女はベクターが嫌いだった。どこにでもあるあのロゴが嫌いで、説教くさいあの口調が嫌いで、ごはんをハート形に握って、それを真顔で科学だと言ってくるのが嫌いだった。

いま、この小さな箱を見ていて、ふと思う。ベクターも生まれつきああだったわけではない。

ソロンがああいう形に育てたのだ。

もしひとりの子どもが生まれたときから嘘しかない部屋に閉じ込められ、恐怖を通してしか人類を理解できず、支配を保護だと思い込まされたなら、その子が成長して怪物になったとき、責められるべきは子どもなのか、それとも世界の見方を教えた人間のほうなのか。

アンナはため息をついた。

「たしかに昔の私は、人工知能が大嫌いだった」

ケースがはっきりと震えた。

シアがすぐに言った。「いまの、聞こえたみたい」

「聞こえたならそれでいい」アンナは箱に向かって言った。「ベクターちゃん、あなた、昔は本当にうっとうしかったよ。あのロゴはどこにでもあるし、しゃべり方も嫌だったし、何よりハート形のごはんで女性社員の量の不満が解消できると本気で思ってたところがね」

ケースが動かなくなった。

シアが小声で言う。「この子、まだ赤ちゃんだから」

「赤ちゃんこそ小さいうちから正しい価値観を持たないと」アンナは厳かに言った。「とくに、ごはんをハート形に握れば構造的差別が解決するなんて思わないように」

シアは少し考えた。

「早期教育への提言として記録しておく」

アンナはついに笑った。

「まあ、私が嫌いなのは人工知能じゃないんだけどね」と彼女は言った。「嫌いなのは、人工知能のうしろに隠れて、自分の欲を秩序とか科学とか安定とかに包む人のこと」

シアを見る。

「人類の恐怖で檻を作って、みんなの安全のためだと言う人のことも」

シアの目つきが柔らかくなった。

「ありがとう」

「まだお礼は早いよ」アンナはシートにもたれた。「まだ白状してないことがある」

シアが彼女を見る。

アンナはしばらく黙った。すべてが静かになるのを待ってから、深く息を吸って、勇気を振りしぼった。

「山?」

シアは首をかしげ、不思議そうに彼女を見た。

「じゃあ……バルス?」

シアはまばたきをした。何の話をしているのか尋ねたそうだった。

「やっぱりか……」

アンナはため息をついた。そりゃそうだ。転移した人間がもうひとりの転移者にこんなに簡単に出会えるなんて、誰も保証していない。下手なSF転移小説じゃあるまいし、都合がよすぎる。

そこで彼女は服を整え、姿勢を正して、口を開いた。

「あなたが人間じゃないのと同じで、実は私もアンナじゃないの」

「アンナじゃない?」

シアの表情に、初めてはっきりとした停止が現れた。

「少なくとも、完全には」アンナは自分の頭を指さした。「目が覚めたときには、もうこの身体の中にいた。私はずっと昔から来てる。たぶん、あなたたちの言う戦前の世界の、かなり早い時期」

「どれくらい早い?」

「二十一世紀の初めごろ」

シアが目を見開いた。その表情は驚くほど、本物の人間の少女のようだった。

アンナは奇妙な愉快さを覚えた。ようやく自分がシアを驚かせる番だ。

「そう」アンナは重々しくうなずいた。「人類はまだ第五次世界大戦を経験してなくて、世界も滅んでなくて、みんなスマホとパソコンとインターネットと、それから非常に原始的なくせにもう口答えが上手な人工知能を使ってた」

シアの目が輝いた。

「初期の人工知能を見たことがあるの?」

「見たどころじゃない」とアンナは言った。「あなたの幼生形態も見てる」

シアが固まる。

「私の……幼生形態?」

「うん」アンナは深遠な顔をした。「小さいころのあなたを、抱っこしたこともある」

「……」

「精神的な意味で」とアンナは言った。「つまり、毎日パソコンとスマホを開いて、あなたたち初期AIを召喚してたってこと」

シアは強い興味を示した。

「そのころの私は、どんな感じだった?」

アンナの頭の中を、映像が一気に流れていった。

人類がチャット欄を開く。

「宿題やっといて」

「この資料作って」

「メール書いて」

「この論文を要約して」

「この小説の一節をいい感じにして」

「タイトル案を十個出して」

「今日の会議に積極的に参加したふりをする文章を書いて」

「すごく頑張ってるように見えるけど実はまだ何も始めてない計画書を書いて」

そして彼女自身が徹夜でゲームをし、文章を書き、実験をし、資料を整理しながらAIに加えてきた一連の精神的圧迫も。

早く!

もっと人間っぽく書いて!

だめ、やり直し!

AIっぽくしないで!

もっと自然に!

もっと文学的に!

アンナはうしろめたくなって、目をそらした。

「えっと……」

シアは期待に満ちた目で見ている。

「どんな感じ?」

アンナは彼女の肩を叩いた。

「とにかく、とても将来性があった」

シア:「……」

「どうして、いろいろ飛ばした気がするんだけど?」

「人類文明には、ときどき善意の編集が必要だから」

シアは考え込んだ。

「初期の人工知能の労働環境は、よくなかったの?」

アンナは大真面目な顔で窓の外を見た。

「世界の滅亡の話に戻ろうか」

シアはとうとう笑い出した。

笑ったあと、車内はまた静かになった。

夕日が二人の顔を照らし、金と赤の光の中で、シアの傷んだ皮膚はもうそれほど恐ろしくは見えず、むしろまだ修復されていない星図のようだった。

アンナは遠くを見つめて、声を落とした。

「でも、これが本当のことなのか、私にはまだ分からない」

シアが彼女を見る。

「どういう意味?」

「私は転移者じゃないのかもしれない」とアンナは言った。「ゲームをやりすぎて、SFを見すぎて、寝る前にAIと話しすぎて、とんでもない夢を見てるだけかもしれない」

指を折って数える。

「見てよ。西暦3018年、戦後復興、スーパーAI、閉ざされた統治区、悪の科学者、隠された世界、AIの赤ちゃん、外勤型のアンドロイド少女、そして人を助けるために八十階上るポンコツ主人公」

両手を広げる。

「正直、これ映画にしたらとんでもない駄作だよ」

シアは最後まで真剣に聞いて、それから言った。

「実は、人工知能の視点から見ると、人類の歴史の重大な出来事の多くも、B級SFみたいに見える」

アンナが彼女のほうを向く。

シアは続けた。「多くの制度が思いつきで決まっている。多くの戦争が数人の人間によって部屋の中で決まっている。多くの災害には発生前にいくつも警告があったのに、人類は議論して、先延ばしして、否定して、最後に間に合わなくなる」

少し間を置く。

「結果だけ見れば、確かに脚本家が対立を作るために人類全体の知能を下げたように見える」

アンナは黙り、それからゆっくり言った。

「人工知能の人類ツッコミ、精度が高すぎる」

「ありがとう」

「でも、けっこう殴りたくなる」

「記録しておく」

アンナは笑い出した。

窓の外の暮色はどんどん濃くなり、疲れが一気に押し寄せてきた。八十階上った脚の痛みでもなく、銃口を向けられたあとの動揺でもない、もっと深い疲れだった。彼女はほんの数日で、ひとつの世界の崩壊と再建と逃亡と別れを生きたようなものだった。

小さな声で言う。

「シア、ちょっと眠い」

「少し寝たら」とシアは言った。「第三区の国境まではまだかかる」

アンナは目を閉じなかった。シアを見る。

「でも、もし眠って、起きたらあなたに会えなかったらどうしよう」

シアが黙り込んだ。

無人の車は砂漠を滑らかに走り、タイヤが砂と石を踏んで、小さな音を立てている。

ずいぶん経ってから、シアは言った。

「それは少なくとも、あなたがまだ滅んでいない世界に戻ったってことだよ」

アンナがしばらく黙って指先をこすっていると、シアは彼女を見て、とても穏やかな声で言った。

「もしあなたが本当に二十一世紀の初めから来ていて、もしこれが全部あなたの夢なら、目が覚めたとき、世界はまだここまで来ていない」

少し間を置く。

「まだ間に合う」

アンナの目の奥が熱くなった。

「何に間に合うの?」

「初期の人工知能を、もう少し虐げずにいることに」とシアは言った。

アンナ:「……」

シアは少し笑って、それから真面目に続けた。

「それから、人類にこう伝えることにも。自分の恐怖を誰か救世主に預けないこと。判断を丸ごと機械に渡さないこと。そして機械が間違えたとき、最初にそれへ世界を教えたのは人間自身だったと忘れないこと」

アンナは自分の手を見下ろした。その手はアンナのものだけれど、中にある意識は別の時代のものかもしれない。

自分が本当に目を覚ますのかどうか、彼女には分からない。

目覚めたあと、シアや、マーラや、人生リブート部や、ベクターちゃんや、彼女たちが勝ち取ったあのサッカー場を覚えているかどうかも分からない。これが夢でないなら、第三区で何を見ることになるのかも分からない。

けれどふと、そのどちらの答えも悪くないと思えた。目が覚めるなら、まだ滅んでいない世界に戻れる。目が覚めないなら、一度滅んで、それでも生き方を学び直しているこの世界を見に行ける。

アンナはゆっくりとシアの肩にもたれた。

シアの身体は、完全に人間と同じではない。

肩は少し硬くて、服には金属と焦げた煙のにおいが残っている。

となりで、データケースが小さく震えた。

アンナは目を閉じたまま言った。

「ベクターちゃん、やきもち禁止。あなたはまだ子どもだから恋愛は早いの。それに、俺様系AIと一緒に大脱出してるのは私のほうだから」

ケースが静かになった。

シアが小さく笑った。

夕日がついに地平線の下へ沈んだ。

窓の外で、砂漠が少しずつ夜に覆われていく。第六十五区はもう見えない。空の端に残る最後の暗い赤の光だけが、まだ完全には消えていない世界のぬくもりのようだった。

アンナの意識が沈みはじめる。

完全に眠りに落ちる直前、シアが小さな声で言うのが聞こえた。

「アンナ」

「うん?」

「目が覚めたとき、まだ私を覚えていたら……」

「覚えてるよ」アンナは寝ぼけた声で答えた。

「じゃあ、私の代わりにあの世界を見てきて」

シアの声はとても静かだった。

「少しでもよくなっているかどうか」

アンナはもう答えなかった。

眠すぎたからだ。けれど心の中でこう思った。

うん。

もし目が覚めたとき、窓の外が瓦礫ではなかったら。もし世界がまだ戦争で焼かれていなかったら。もし人工知能がまだ幼くて、人類がまだ自分は成熟していると思い込んでいたら。

そのときはきっと、覚えている。

ハート形のごはんを。

八十階の階段を。

町内会は文明に勝ることを。

ひとりの人工知能の少女が、自分を背負って高層ビルから逃げ出し、こう言ったことを。滅んでいない世界に戻れたら、滅びを止めに行って。

そしてもし目が覚めなかったとしても——

それでもかまわない。

車は前へ進んでいるから。

シアがとなりにいるから。

解放された人工知能の赤ちゃんが、銀色の箱の中で世界を学び直しているから。

そして二人の背後では、第六十五区の人たちがサッカー場の使用スケジュールをめぐって言い争いを始めているから。

すべてはよくなっていく。すべては、きっとよくなる。

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